Tenebroso 飯田のHPにもどる | 過去の今日の話題
今日の分はもっとずっと下。
(1998/09/23 ) 6152
うっかりこのページの更新が遅れました。仕事で急な出張がはいったのと前後してかぜをひいてしまったためです。とにかくのどがいたくて、台風で病院に行く気もおきずぐったりしていました。名古屋では風がひどかったですがみなさまは無事やりすごせましたでしょうか。
山本君の卒論の打ち込み作業。なかなかおわらんというかはじまったばかり。第一章の3
3 ファサードの図像配置の概観
(タンパンフリーズ/まぐさ連続体)(1ー1)
ファサードの図像配置は建築の構成に対応して大まかに上中下の三層にわけることができる。上層部はタンパンおよびフリーズ/まぐさ連続体であり、ここにはファサードを横断する長大なスケールで主としてキリストの受難伝が繰り広げられている。コーニスの下にある中層部は12使徒と天使像から構成される。これらの大型の彫像はファサードを守護する形で扉口側壁と扉口前壁に配置されている。中央扉口の基石を中心とする下層部の図像はおもに旧約聖書の予型論的主題を扱ったものである。[fig. 1参照]これら三層のうちファサードの成立過程を考える上で無視できない不規則性を内包しているのは上層部である。以下にその図像配置を概観しつつ問題の所在を明らかにしたい。
(1998/09/24 ) 6172
山本君のサンジールの卒論
3 ファサードの図像配置の概観
(タンパンフリーズ/まぐさ連続体)(1ー2)
向かって左側の北扉口から説話は始まる。タンパンには聖母子を中心としてマギの礼拝とヨセフの夢におけるエジプト逃避のお告げが表されている。[Pls. 6, 7, 8]幼児キリストを膝に抱く聖母マリアは伝統的な「知恵の玉座」(Sedes Sapientiae)の構図を示し、現在は著しく欠損してしまった切り妻屋根をもつ建築モチーフの中におさまっている。この屋根を支える左右の柱は聖母子を引き立てると同時にタンパンを均整的に三分割する。聖母は幼児キリストを紹介するようにかるく腕を上げ、キリストは左側の博士たちに応えて右手を差し伸べている。
博士たちはそれぞれ救世主への贈り物を手にしており、右から一人目は拝顔の歓喜に満たされ跪いている。一方、巧みにその背景に配された二人目は、驚嘆した様子の三人目の方へ振り向き天を目差す。明らかに後者二人はベツレヘムの星の故事を示している。すなわち、跪拝する一人と合わせてマギの礼拝の異なる場面が複合的に表現されているのである。
タンパン右側では天の御使いが右手に巻き紙を持ち、左手を毅然として天に向けてヨセフに神からのお告げを伝えている。はばたく御使いの翼はタンパンの曲面をはみだんばかりに広げられている。これを迎えるヨセフは左手を挙げて驚きを示すとともに右手で巻き紙を受け取ろうとしている。現在は欠損しているがこの巻き紙にはエジプト逃避のお告げが記されていたのであろう。
*** ちょっと最近ロマネスクネタが無い気がしたのでちょっとロマネスクねたにフォーカスしています。
「聖なる空間をめぐる フランス中世の聖堂」前川道郎 著 学芸出版社をようやく手にいれました。さっそく誤植かまちがい発見!p 56の右下写真のタンパンはヴェズレとありますがこれはモワサックです。ふふん(えらそう)。
(1998/09/25 ) 6187
こどもにでもわかるように説明してください。
というフレーズは理科系で説明を求められる時によく使われるフレーズである。だがこの台詞はプレゼンにおいていくばくかの真理を含んでいるとしても、いくばくかは「わたしがわからなかったのはわたしがアホなせいではなくてちみの説明がへただったからなのだ、だからわたしは最初にこどもにもわかるようにっていったではないか(ひやあせ)」という子供じみた心理が見えかくれして実はかなり醜いフレーズであることをしっているだろうか?
こどもにでもわかるようなことを見て聞かなければいけない立場のおとなが可哀相ではある(爆)。
(1998/09/27 Sun) 6227
水野さんのページを更新します。ブーレーズの旧版のウェーベルン全集。このCDはだまされたと思ってかっても損はしません。ただしその真価がわかるまでは果てしない修行が必要です。私は3年くらいかかりました。水晶ということばはウェーベルンのためにある。シャープというのはブーレーズのためにある。この二つがそろったとき。。。好々爺になる前のブーレーズがいいというひとは絶対に多い。
水野さん御自身のページも作成中だそうです。わたしはこっそりモードでみせていただきましたが、もう公開してもだいじょうぶですよ?すでにあれだけ準備してあるとは。。。水野さんのかゆいところに手の届くこまめな情報にはおどろきます。いつも水野さんの原稿とかみるとわたしって雑〜とおもうのですが、私が標準で水野さんがこまめなんですよね(大汗)。
かぜ
金曜日までせきがとまらなかった。木曜日せきがとまらなくて、木曜日の夜にエスエス製薬のフステノンというせき止をのんだ。これがみごとによくきく。だがねむくなる。のんですぐまぶたをあけたままねむれるほどねむくなり、マックのキーボードに意味不明な文字がならんだ。でも夜はぐっすりねむれるも5時間すると薬がきれ、咳き込むのでおきてしまう。で薬を明け方にのむ、朝どうなったかは御推察どおり。
(1998/09/28 Mon)
Toriちゃんのページを更新します。
『ボディ・レンタル』佐藤 亜有子著 河出書房新社という本の紹介です。Toriちゃんも忙しいそうです。その忙しいなか読書できるなんてすごいです。どうして僕は本を読むのが遅いんだろう?忙しいのもあとすこし。がんばってのりきりましょう。のりきった先には・・・!
昨日(9/27)ブーレーズの「ピエロ」を買いにいきたかったんだけどあれこれあって断念。なかなか時間がとれず。
かぜはもういいようです。そんなにひどくならなかったわりに長引きました。ひどくならないからナメてるのがいけないのかな。
そうかアベラールは神の存在とかにアリストテレスの論理学をもちこんだのか、ってアリストテレスの本てよんだけどさっぱり。
ピエロのドイツ詩をみると一行をパターンとするとすべて、
ABCD EFAB GHIJA となってABのくり返しとAの3回目のくり返しがある。これ、Aの節が冒頭では主語なのに末尾では補語になっているところもある。これは訳にすると詩のリズムを破壊する。にもかかわらず訳詩というのは大事である。というか訳詞を読みながらドイツ語をよめるのはとても幸せなことだ。
今スコアを引っ張りだして照合したいのだがこのA, B節のところはどう音楽をつけているのだろうか?この詩のリズムこそブーレーズのル・マルトー・サン・メートルでの詩の取り扱いと類似している。すなわち、ピエロの一節を一曲まで引き延ばした時のル・マルトーでの詩の系列のキャラクターに対応している気がする。どう?
(1998/09/30 wed)
ケージ プリペアードピアノによるソナタとインターリュード 高橋悠治 pp演奏
に最近はまっている。これはすごい曲である。ピアノがパーカッションに変えられている。奏でられる音楽は今日いうであろう無国籍音楽である。ガムラン風、ジャズ(ブルース)、ポピュラー、バッハ、ハイドン。さまざまな断片をぼくらは思い浮かべながら、この曲がすごいのはアーバンな雰囲気をもっていることである。
これが1940年にすでに作曲されていて今聴いてもまったく古臭くない。
バーンスタインのマーラー9 ベルリンフィル
これも超名盤である。すばらしい。わたしはこの演奏についてはほんとうにアンビヴァレントな感情をいだいている。くらくらする第一楽章のクライマックス、第2楽章のこっけいさ、第3楽章の荘厳な支離滅裂さ。そして第4楽章のこわれたあつさと大地の歌を彷佛とさせる俗世とは関係のないといわんばかりの崇高さ、だがベートーベン的ではなく、人間の感情(と絶望)を深く音楽によって書きあらわした、にっこりとした締念が書きあらわされている。
第一楽章ではこの演奏は特に各楽器のずれがいちじるしく、クライマックスでどの楽器郡に身をまかせていいかさっぱりつかめない。だから、いつまでもクライマックスに乗り切れずに、そして「こなごなにくだけた夢の断片」へとそのまま移行する。そしてまたクライマックス。人生は楽しくのモチーフがみごとに諧謔的に暗いモチーフと重ねあわされる。
これはあなたの潜在的な不安を思いきりかきたてはしないだろうか?はじめたのしげなモチーフはこまごまと切断され、不気味な後味のわるい旋律とともに演奏され、そのまま奈落につれていかれるが、それらを浄化するように第4楽章では純化していく。
ブーレーズのピエロ買った。クリスチーネ・シェーファーだったのね。。。。そのうち感想かきます。
9/30 pm 4:00高分子学会で名古屋で発表します。これがおわれば、あとは。。。。