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(1998/02/11 Wed)
人間のクローンの研究を全面禁止
文部省の学術審議会で決まったそうです。でも、畜産動物については規制をもうけないそうです。ヒトの個体組成研究は禁止。ヒトの受精卵や胚を特定組織に分化させることも禁止。細胞や組織クローンの培養研究だけを容認したそうです。どこまで拘束権があるのでしょうね?もしやぶったら犯罪扱いなんでしょうか?といっても私はそんな恐ろしい?研究はしていないので念のため。
事実上科学技術研究費の申請や、他の予算申請書類には人間のクローンに関する研究は予算をおろさないと書かれていましたから、いまさらという気もするのですが。
私自身は反対派の意見を聞いてみたいのですが。いたんでしょうか?研究者として末端にいる私、生物ではなく化学分野にいる私にはそういうことは伝わってきません。
前にエヴァンゲリオンは遺伝子操作やクローン技術のバイオホラーが一つのモチーフになっていると書きましたが、このような研究に親しんでいない研究者以外には遺伝子操作やクローンというとどこか恐ろしい響きをもっているのではないでしょうか?
普段ホラー映画とか宇宙映画をみるのは好きではないので広範囲にわたってこのようなおそれがどのように描かれているか、ということに対してはよくわからないのですが、私がSFを読んだのは10年以上前のことだし、ここらをリファレンスにするのは古すぎて面白くないですね。
エヴァンゲリオンに潜むこのような恐怖感として描かれていると指摘できるのは遺伝子操作をうけたエヴァが使徒に対して凶暴な殺戮をすること。使徒の分析コンソールでは遺伝子情報がながれていること(にもかかわらずミサトには何もわからないわ、とリツコは報告した)。したがって遺伝子操作をほどこせば怪物が生まれる。たとえ、ある目的のために操作をしても予期せぬ失敗により人類は滅びる。といわんばかりです。
クローンについては、チルドレンのひとりレイは25話前後の心の補完計画では、なんと「生の哲学」を展開し強固な自我を見せるが、それは、あなたはコピー、かわりがいる、偽りとせめぎたてられることで揺れ動く。ここでは主題は他人との関わり合いでレイ(=クローン技術)が否定されるのではなくレイ個人が自我意識で悩むのです。つまり、クローンによってヒトが作り出されたらヒトはコピー、まがい物と自ら悩むと結論できます。ナイーヴです。社会的なことを全く描かず内向的に描こうとするあのアニメにぴったりの主題です。(ああ、かわいそうなレイちゃん)
補足として、生の哲学自身はディルタイ、オルテガ、ウエーバー、マンハイムとのつながりがあるそうです。また標語的にはサルトルの実存主義とも関係あるかもしれません。この後の構造主義のタイトルは社会を形作る無意識があるのでそれを分析し尽くさなければ個人の環境を知り、人生の決定を下してもそれは空しい決定になってしまう。というのが結論の一つのようなので、いささか古い言辞ではあるのですが。
このような遺伝子ホラーものをもうすこしいろいろ見てみればいろいろ言えるのかもしれませんが、そんなことをする気はこれっぽっちもございません。この作品では監督が描いた(前面に押し出したわけではないですが)恐怖は我々のイメージ通りではないでしょうか?
このような最新テクノロジを適用した恐怖を描いた不朽(普及)の名作としてはフランケンシュタインがぴったりでしょう。原作と旧来の映画は全然ことなり、最近の映画版では原作に忠実らしいのですが、これも見に行きたかったのに、いけなかったのです。このストーリーもフランケンシュタインが「悩む」ようです。そうそうパラサイトイヴ、原作は面白かったですが映画どうだったのでしょうか?ってビデオ屋でかりてみればいいんでしょうけど。。。。
ちなみにクローンができたとしても、人間はいきる環境からの刺激によって生成するタンパク質が異なってきますから違いができてくるようです。一卵性双生児だってちゃんとわれわれは別人と認識しているじゃないですか。それより、クローンをつくって、ほしい臓器をとってくるというのは病気が直せていいかもしれませんがやっぱりどこか怖い。特定の組織だけフラスコ内でつくれると多少はそう思わないかもしれませんが。そういえばどうしてクローンというと液体のなかでごぼごぼとやってるイメージなんでしょう?なんかそういうゲームもあると聞きました。
(1998/02/12 Thr)
シューベルト、マーラーの歌曲のCDのリストと評価をしているページを日比さんを通じて自己紹介いただきましたので紹介します。これらの歌曲が好きな方は要チェックです。
吉田さんのHP/Wunderhorn
このドメインニフティのものですね。私もNiftyのIDもっているのですが、、、私もそろそろ月額固定制にかえようかな。
注意:ストーリー書いちゃったので、見に行くつもりの人はやめた方がいいかも。でもストーリーがわかっちゃったら面白くない映画なんて消耗品なわけで、もともと見る価値ないんだけどね。
基本的には英雄の悲劇の物語なのです。物語は時間に沿ってシンメトリカルに進行します。緩やかに死に向かう妻と死を迎えざるを得なくなっていくヒーローのビートたけし。暴力に対して絶対的な強さを見せます。生がますます花咲くもう一人の主人公。わかりやすすぎる。白魔術師はガレージ屋のおやじ。黒魔術師はやくざ。妻はお姫様としての岸本加代子。
まさにロールプレイングゲームそのものです。そしてgetしたアイテムとして金と二人の時間。片方は絵。事件は「起こる」のでなくたけしが「起こす」ものとして描かれていきます。
ほとんど会話らしい会話はありません。妻はガンに直面し恐怖しているのかどうか、ビートたけしはそれをうけいれているのか、そういう感情にもとづく映像はどこにもありません。ただ淡々と時がすぎ、たけしは事件を起こしていきます。感情を表す役は絵を描き始めるもう一方の役者だけが引き受けているようです。この元同僚で画家に変身しようとしている男は静かではありますがビートたけしの絵の創作動機をわずかながら見せてくれているようです。ただ、いささか花をみて涙をながし、花を頭部にもつ動物の絵を描き出すというのはパターン化されすぎている気もしますが。インスピレーションというのはそういうものといえるのかもしれません。
銀行強盗をして逃げたあげくに、やくざにおわれ、それをふりはらい、同僚がやってくると観念します。
この銀行強盗の企画と成功のエピソードがこの映画の陽性の極を形作っています。素直に笑うのが○。この後のお寺参り、花火とかつりのシーンでは言葉のないシーンがわれわれの悲しいことに直面して現実を受け入れられないようなときにありがちな沈黙をあらわしてたいへん美しくなっています。
雪道でのドライブから妻がトイレに行きたがるシーンではやたら台詞がおおく全体の均衡を破っています。声もどこか親密ではなく吹き替えの不自然さがありました。パンフの制作日記を後で読むとここのシーンを一番はじめにとったそうです。このシーンの後台詞を減らしたのかもしれません。
やくざに追われるシーンでは英雄戦うの図。かっこいいという共感の仕方はできないですが、ここでやられてしまって、ふたたび復活となるとハリウッド系の映画の作りになってしまうので彼が勝たざるをえません。ただし、この戦闘がさらにラストにおい込んでいくのですが。
最後のシーンでは元同僚の二人が浜辺で海を見つめる夫婦を見つけます。このときたけしはタマを2発つめる。まさか同僚を?なわけはなく心中することをにおわせます。
ビートたけしと岸本加代子夫婦の間の子はなくなっていると冒頭で台詞のなかで明かされるのですが、この最後のシーンではこの亡くなった子が二人を看取るべくよみがえったようでもあります。ここでの悲劇的な様相を帯びたシーンの中でタコをあげようとするのですがここでもたけしによる、ギャグが仕組まれています。ここも素直に笑うのが○。より悲しさが増します。ただし、映画館では私も含めてだれも笑えません。なお、この子はビートたけしの実の子だそうです。あの空に揚がらない凧はビートたけしの部下の死、同僚の事故、妻の病への行き場のない怒りのようです。
私はつかれたりすると海をみるのが好きです。広くて波のある海が好きです。日本海の暗さはそういう暗さにはうってつけです。もう一人の主人公も海をながめるシーンが多数あり、海には彼らの想念が投影されているかのようでもあります。画面作りの関係からは海のシーンも画面の透明感を引き立たせるのに一役買っています。それで、まさにそういう海が最後は目の前に広がります。あたかも松竹映画の開始のようにパターン化されています。銃声。ずるい。私の一番好きな風景で悲劇のクライマックスを作るなんて。涙をおさえました。
映画館では残念なことに終わった後に「だからなんやねん」という声が挙がりました。たしかに自暴自棄の一つの現れですが、わたしとしては「これが悲劇やねん」と答えてやりたかったですがだまってました。
たけしの絵が生を演出するのに透明な叙情を放って○ということは申し添えておきましょう。無言の、笑えないが、悲しみという運命と結びあわされたギャグもよかった。フランス映画風の映画が好きな方はどうぞ。雰囲気を楽しめる方ならいいでしょう。技巧派の映画ではございません(きっと)。画面の解釈になやまされるような難解な映画ではございません。雰囲気はにているのですがね。ハリウッド系のロードスタームービーがすきなかたはよほどのたけしファンでない限り×でしょう。そして、考えさせられる映画だったというおきまりの台詞をはき、それ以上何も考えないタイプの人は見ない方がいいでしょう。
むかし「さよならをいわないで」という超メロドラマのイタリア映画がやっていたのですが、それは男が使い込みをして刑務所にはいるも逃げ出して、脱走中に警官を殺害してしまいます。その途中でガールフレンドと落ち合い、逃走します。楽しい二人の時間。二人に結末はわかっています。最後のシーンからふたコマ目が印象的で「私、花嫁ドレス着たかったわ」「ブルジョワ趣味さ」。やはり、最後は銃声2発です。せつない。
この映画はフラッシュバックを多用し、時間を絶えず進めていきます。その結果、切ない時間を持続させるのに成功しています。この物語にはたけしの物語の生の物語に対応するものはありません。Hana-biでは絵を描くことを覚えていくシーンが「自決」というカリグラフィを映し出したとき、生と死は密接に結ばれていることを見事に喚起させます。生の中から死を見つめるか、死により近い中から生を見つめるか。ありきたりな接続かもしれませんが物語の両極を結びあわせるのに見事だったと思いました。
コメディアンとしてのたけしのでている番組はほとんど見たことなくって、今年最初のインタビュー番組のたけしはみました。それぞれの芸術家の制作モチーフなどをひきだして好感が持てました。私にとってはたけしという人物はその程度のことしか知らないので逆に楽しめたのかもしれません。
この映画は日曜日に見に行きました。大した原稿ではありませんが、推敲には思ったより時間がとられ、今週の前半の原稿の執筆予定を狂わせた原因の一つです(ということは複数の原稿がぼつにしてあるということです)。
(1998/02/13 Fri)
MacOS 8.1が1月間のローカライズで完成したそうです。Mac weekの記事
楽しみですね。ってここを読んでくれている皆様はwinマシンのようなので関係ない話題でした。
哲学の舞台 (M・フーコー+渡辺守章 朝日出版社 1978)は今読むと面白い。
すこし引用しよう。フーコーの講演から。
以前からいわれていたのは
1、ギリシャローマの古代社会に<一夫一婦姓>を強制したのはキリスト教である
2、<性>に唯一絶対の機能として<生殖>の機能だけを認めたのはキリスト教だけである。
3、性的快楽に価値を認めず、それはできる限り避けるべき悪だとした。
ところが、古代ローマ史の研究者ポール・ヴェーヌという歴史家によるとこれはキリスト教出現以前にローマには存在していた制度であるという。
むしろキリスト教は、一人一人の魂を救う支配=権力を導入したとフーコーは仮説として述べています。
3〜4世紀以降キリスト教を通じて実現していったのは
・・・<牧人=司祭制>という仕組み=装置を通じて、告解という手続きを踏んで、自己の弱さ、誘惑、肉体について絶えず覚醒状態にある自己の意識を形成することによって、<主観性>を形成していった。
・・・<肉体>とは身体の主観性に他ならず、キリスト教的肉体とは、この<主観性>であり、個人が個人に隷属する行為の内部で捉えられた<性>に他ならず、この<主体化=隷属>こそが、古代ローマ社会への<牧人=司祭型権力>の導入の第一の結果・・・
では<個>とは?
・・・近代社会ほど個人に注目している社会はないのだ。近代社会ほど個人の配置に関心を抱き、個人を監視、管理、訓練、矯正の仕組みから絶対的に逃れられないように取り込んでいく技術の発達した社会はないのだ。兵舎、学校、工場、監獄、すべての規律・矯正の大きな仕組みは、個人を捕らえて、個人が何ものかであり、何ができ、また何に用いたらよいかを知り、どこに配置したらよいかを知るための仕組みなのだ。
フーコーの思考は、真実とは?という形而上学的な問いを、真実をかたるのはだれか?真実が成立する過程は具体的にどうなのか?真実が分類される過程はどうなのか?ということに転換することをめぐっているようだ。
私はこれをもとに、美とは?を、美を語るものはだれか?美が成立する過程は具体的にどうなのか?美が美であると分類される過程はどうなのか?に転換することに興味がある。
なぜこれに興味をもつか?手抜きとどう違うんだといいたくなる絵画、映画、小説でもひとたび前衛芸術と目されると正当化され、うやまわれるのはなぜか?抽象画にはあきらかに子供の落書きと同じものがあるではないか?子供が書き散らした絵とか習字との違いはなぜか?どうして素人がとったビデオは映画でなく、ウオーホールがシカゴセンターの前で回しっぱなしにした映像は美的体験としていまだにリファレンスとされるのか?あるいはジョナス・メカスの映像。そして聞くに絶えない現代音楽のあるもの、騒音音楽。これらが芸術とされるのになぜエンターテイメントは消耗品として一蹴されるのか?なぜ消耗品に時間をとられるのはいや、という私がいるのか?作品がただ存在している以上にそこにはなにかあるのだ。
という私としては健全だと思う疑問なんですが。単に、はだかの王様を指摘した少年になれないだけでしょうか?それとも私の感受性がすでに囲い込まれているために受け入れられないのでしょうか?現実には芸術家の頭の中はさっぱりわからん、けど、なにか奥深さを感じる(ように)と皆はいうではないか?(芸術は爆発だ!ほんとか?)これはむしろ狂気のメカニズムの観点から捉えるべきなのだろうか?具体的になにから考えればいいのかさっぱりわかりません。ボツ原稿復活版です。混乱しているでしょ?
(1998/02/14 Sat)
さあ、今日はバレンタイン。私はこの一週間毎日義理チョコをたべて、チョコがないと生きられない体になってしまいました(泣)。高校生のころは憂鬱なバレンタインデーでしたが、大学生のときは男しかいないから気にもならなかった(それが不幸のはじまりなんだってば)。
昨晩は思考の散乱をお見せして恥ずかしい限りだが、こういうページ(おたくweekly)あるのご存じ?
ほらほらエヴァの制作スタッフはゴダールを見てる。引用をしようともしてます。
エヴァとゴダールがどうこうということがいいたいのではなくて、やっぱり製作者はいろいろみて研究してるのね。ということが分かって納得。ゴダールに限らず、私は自分の好きな製作者が見ているものくらい見ておきたいと考えますが、オタクなあなたはどう思います?
私がこのweeklyのページを見て思うのは、
1エンターテイメントとしてのアニメ、作品としてのアニメという、一つの作品(商品)にこれまではうまくいかなかった価値を見いだそうとすること。現代美術という言葉に権威があって笑える。「現代美術」はダダイズムとかの乗り越えがあって今があるのに。
2アニメはアニメで処理され、映画という範囲までは広がらない。せいぜいSF映画である。
3現代思想化したアニメというが、見かけ難解なだけで、テーマ設定とそのsolutionというかstrategyもない。
4基本はギャグとしかおもえない。やっぱり、これにはついていけない。
日比さんにアルバン・ベルクのドキュメントをおくっていただいた。ディレクTVを録画したものだそうだ。大変面白かったです。ありがとうございました。ベルクの最高傑作オペラ「ルル」は娼婦の物語だが、あの人のよさそうなベルクがなぜ?で始まる。ABとHF。私はなんといっても叙情組曲が好きです。あの無調の響きに潜む不倫の恋とは?今ならドラマにしたらヒットするかも(笑)。
(1998/02/15 Sun)
アップルのことなど(関係ないかたごめんなさいね)
この一年アップルのシェアは下がるし、人にはすすめられないし(従来、学生君にはWinマシンよりもMacを使わせていたのだが、卒業までにMacよりwinの使い方を覚えてもらうほうが得策と考えるようになっている)、Jobsがかえってきてもろくなことにならないし、やってることは前任者のアメリオの路線をすすめているように見えるだけだし、だが、まあ、いいニュースとしてはOSのアップデートを無事約束どうりはたし、MacOS8と8.1がリリースされこれは満足。8.1では8よりもさらにきびきび動くようになることを確認。なかなかよし。システムも安定だ。先週末のニュースではMPEG4の共通規格にはクイックタイム3.0が採用されたとのこと。クイックタイムが業界標準というのはうそではなかったのね。と一安心。でも私はテキストと絵ぐらいしか扱わないので関係ないけど。
MacOS8.1のアップデートは数分ですみ、とても好調だ。起動ディスクを書き換えようとそのディスクから起動して書き換えたら、とても不安定だったので、外付けのメディアからアップデートしたらとてもよくなった。ソフトの起動が速いことが確認できたし、コピー速度も速くなった。仮想メモリについてはディスクに今スワップ領域がないため試していないのでわからない。そろそろハードディスクのメンテも考えなきゃ。IMのことえりも多少賢くなった気がする。
アメリカではペンティアム2より最大2倍はやいPowerPC G3と宣伝しているらしいが、私に言わせればペンティアムの方が10倍広い機種選択性があり、特に軽量のnotebookと10万円前後のデスクトップマシンにはその差が大きい。一番軽量のMacで2キロあるのだ。いいかげんにせーや。とはいえ軽量のノートパソコンが完全にコンピュータに対する意識を変えた。これで全部すんでしまうのがやっぱりいい。もし、appleが軽量のnotebookを継続してだしていかないのならwinに移行することも考えなければいけない。appleは最速noteパソコンとしてPowerPC G3の250MHzを出しているようだが、これなぞ、3.3キロある。持ち運べないぞ。と文句をいっていたら、4キロダイエットしたら体にもいいし、同じ重さじゃない、とチャチャをいれられ、なにもいえなかった。昨年の秋から4キロ太ってしまったのだ(笑)。
私の友人がPenIIのDos/Vショップオリジナルを買うという。win98が満足に動くかどうか気になるという。win98って昔ゲイツ君、マシンをアップグレードする必要はない、っていってなかったっけ?とかおもいつつ、大丈夫だよと答えておいた(なんでしってるの?)。それなりにお金を投入するようなので、私はnotebookをすすめておいた。最近はnotebookとデジカメ。これにつきる。グラフィックデータを外からその場で入れることでコンピュータはコンピュータでイメージするものではなくなるのが不思議だ。デジカメデータは多くはプライベートであるとか、ここには関係なことばかりなので、あえて、のせてませんが、以前作ったヴァイオリンのアイコンなんかそうですね。
というわけで今日は超軽い話題で(しかもMacに関係ない人も多いというのに)失礼します。
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