Tenebroso 飯田のHPにもどる | 過去の新着情報

今日の分はもっとずっと下。

(1998/02/01 Sun)

山本君の手紙 その2

<<科学的の認識の起源はスコラ学の唯名論(nominalism)に始まる>>

こういった歴史主義的言説を目にすると君はいつかのようにやれやれといった面もちで哲学の帝国主義的還元のやぼったさをぐちるかもしれない。しかし私はなにもここで歴史的出どころをふりかざして話を展開させようという意図はない。18世紀的な意味での全人的認識体系を志向する哲学に対し近代以降に発展した個別領域の専門学の総称として科学という語を提示したいだけである。私が自然科学、人文科学、社会科学などと門切り型にあえて分類してみせたのもそうした意図があったからである。(もっとも人文学 humanitas [フマニタス] という伝統ある美しい呼称に科などという無粋な字をはさみこんだのは別の意味での皮肉をこめていたからだが)

「専門化は結果ではなくすべての研究の進歩の原因」であるとするHeideggerの言葉を信じるならば、現代におけるこれほど細分化した学問の形態は必然であったともいえよう。さて”自然科学以外は科学と思っていない”という君にとって方法論的問題に関してまず自分の学問は一個の学問として成り立つという議論から始めなければならない人文・社会諸学における客観性とは自然科学の純然たる客観性からは区別されねばならないのであろうか?

ではその純然たる客観性とはいったいどんなもので何によって保証されているのか?こういったことを問い直すことから始めたい。

(つづく 2/9 その3へ

(1998/02/02 Mon)

ゴダールの「新ドイツ零年」をみた(ビデオ)。この映画はゴダールらしく引用が盛んに行われている。引用は音楽と映像間にもまたがり、これを見過ごすと多くの暗示に富む映像の効果をだいなしにしてしまうようだ。私が気がついたのはウエーベルンのラングザマーザッツが使われたことだ。モーツアルトの弦楽五重奏からの巧みな場面変換ととに、ウエーベルンの音楽に切り替わる。ウエーベルンはアメリカ兵にあやまってうたれたと場面での説明がかなり後におこなわれる。これは映画のはじめの重要な台詞「なぜ冷戦が終わったのにアメリカ人にならなきゃいけないのか」との台詞と呼応している。ウエーベルンは音楽すなわちヨーロッパ芸術の象徴である。それをアメリカは踏みにじったのだ。アメリカには同化したくないのだ。

   ウエーベルンの生涯

 この映画はストーリーらしいストーリーはなく、むかし東側に潜んだスパイが西側に戻る行程で想起するイマージュを過去の映画やナチの映像でフラッシュバック的に差し込んでいきます。ベンヤミンを思い出す。そして、多量の文字を読まされること。しかも背面真っ黒で白文字のゴシック体でのうちぬき。新聞らしき記事。ドイツ語。意味がとれません。セミナーでのドイツの歴史をドイツ語のテキストを朗読する行為とフランス語で記述するせめぎ合い。そして二つのことばで同時にナレーション。ききとれません。テロップにはどちらか一つの言葉しか表示されていないのではないでしょうか?

 こういう行程はたぶんギリシャ神話のオデュセイアーからの旅行記の伝統に沿っているといって良いように思います。ただしこの物語では主人公はあくまでも傍観者ですが、映像の絵柄そのものも引用しているふしがあるのですが、アンゲロプロスの「コウノトリたちずさんで」のシーンが散見されているように思います。また、いまさらヨーロッパの没落が2度もテロップで出てきます。シュペングラーか?だとしたら古い。

 引用するヨーロッパ芸術はゲーテ、シラー、バッハ、アンナ・マグダレーナ、モーツアルト、ベートーベン、ウエーベルン、リスト、セルバンテス、現代ではブライアーズ、シェルシ、ショスタコーヴィッチあたりか。ここではショスタコーヴィッチが体制側の音楽として描かれています。

 ドンキホーテのお供のサンチョパンサは車に乗っています。でも車はこわれて自分で押してる。ドンキホーテ自身は風車に向かうのではなく採掘マシーンに向かっていきます。あの物語は中世の騎士道が古くさくなってきて価値観の変化が起こってきているのにそれにわからないバカどものがいるという物語ですが、それが今ヨーロッパに起こってきているということでしょう。冷戦の終焉とドイツの壁の崩壊。

 テーマは歴史の孤独。かれはナチの行為を理性のなかの非理性と位置づけています。だとしたら理性を追求した結果がナチスだとするアドルノやフーコーの世界にはいない。ドイツの壁の崩壊はゲーテ=シラー=ベートーベンの世界観です。だとしたらヨーロッパの理性の勝利ということか?選ばれる音楽はすべて静かな動きをもつ音楽。モーツアルトの弦楽五重奏が美しく陰影を深めるのに役立っています。ベートーベンの交響曲7番の第2楽章の挿入はさしずめ勝利への予感か。汎ヨーロッパ、さまよいをテーマにするならマーラーも使ってくれたら良かったのに。それに音楽の前衛への考え方が東と西では全然異なることのせめぎ合いを音楽で演出してもらえば私にはよくわかったと思います。ショスタコーヴィッチの対局としての前衛音楽。

 ただ、この歴史の孤独というテーマについては私は納得のいく共感はできませんでした。なんども見なければわからないのかもしれません。時間のながれは主人公が想起する時間ですので特に現実の時間とは関係ありません。こういう断片的な描き方はなれればいいけど、引用しているものがわからなかったらはっきりって面白くない映画です。引用は引用されるものがちらりと頭の中にひびいたときにその世界と現在の進行しつつあるイマージュが重ね合わされるから面白いのです。(とバルトとかはいってた)そういう意味では日本ではマニアな映画でしょう。良い意味でも悪い意味でも審査員とかには受けそうです。あと私がここでやってるように、これだけわかったよ〜んなんてやってるディレッタント、訳知り顔のオタクにも受けるでしょう。私はあまり、映像がわからないのでくやしいのですが、エイゼンシュタインなぞも引用していそうですね。これらを要求し、さらに西洋音楽のひととおり、しかも現代までの知識を要求するとなればそうとうひろく見ている必要があります。私にはお手上げです。歴史の孤独を具体的にかたる引用がいくつも映像で示されているのかもしれません。みたかたどうですか?

 上で出てくるアンゲロプロス。私はコウノトリが一番好き。そして「ユリシーズの瞳」の彷徨が好きです。アンゲロプロスの作品はコウノトリの一つ前の子供二人で旅をするものがたりから見ています。でも海の中から指がでてきてヘリコプターにのっていってしまうのはよくわかりません。アンゲロプロスも解釈がしきれない作家ですね。パンフ見てもこいつらわかっとんのか?という解説しかかいてないし。

そしてエヴァねた。20話まで見ました。16話あたりからどんどん話が暗くなっていきます。映像は各人のモノローグ(とくに主人公)が著しくなります。生と死と境目。人に嫌われたくないというおもい。トラウマを刺激。僕は活躍したんだからもっとほめてよ。人と人は分かり合えないんだ。という抽象的な語りかけ。ちょっとこのテーマにもってくためにあちこちで強引な前ふりがされますが、とにかくなぜこんなことにとか、なぜ怖い思いをしてエヴァにのらなければいけないんだ、目の前で友人を殺そうとした。がフィードバック、大量の文字の割り込み(これはあきらかなサブリミナル効果だ)、などで描かれていきます。このやり方、上のゴダールの映画。見た目にはそっくりです。エヴァの映画編では実写も出てくるそうです。虚構と現実。これはちょっと前にたしかに文学や映画ではやったネタじゃないでしょうか?それを戯れとみるか、ある主知的なコントロールの視点でみるかでまったく評価はかわっていきます。ではエヴァはシリアスドラマか?という点ではそうは言えません。もしそれがテーマなら夾雑物が多すぎます。私としてはロボットモノの映画に飽き足らなくなった監督が詰め込んで肥大化させていった結果だと思います。

 20話まででエヴァという人工生命体は世界を救うヒーローというイメージは完全に払拭されむしろ野蛮で荒々しい生命体となります。20話ではエヴァの本性がでてきたときのぎらぎらした目。まるでシェーンベルクの自画像みたいです。このような絵画は表現主義といわれ、第一次大戦前に出現しています。このエヴァは人間がつくった人工生命体だと物語では説明されています。このことは我々は生命を創り出すと世界は破滅するかもしれないというアイデアが下敷きであることを示しています。こういうSFは遺伝子操作をネタにした物語にくくることができます。もっと巧妙にしたのはパラサイト・イブなわけですが。たぶんそれが人類補完計画といわれるものではないかとおもうのですが、いまのところはっきりしません。

 遺伝子操作への潜在的な恐怖。例えば、今話題の遺伝子食品。これはアメリカから入ってきていますが遺伝子をいじることによって食品の持ちがよくなるようにしてあります。遺伝子をいじったものが口にはいるのです。それから遺伝子治療。これはウイルスをつかった人間の遺伝子の書き換えです。私はこれらは危ないというつもりは全然なくて、社会的コンセンサスを十分取っていく必要があると考えています。また、環境ホルモンという、生物に作用する本当のホルモンのそっくりさんが最近問題になっています。これは従来なにげなく使ってきた洗剤などの薬品が女性ホルモンと形がにているために作用していてマスのオスが生殖能力をいちじるしく下げている結果がイギリスで発表されています。これらは物質はまだはっきりしません。発ガン物質と危険物質の間だの濃度できくようです(1/31分サイエンスアイ)。日本では川にすむ鯉の生殖能力がいちじるしく落ちています。

 映画だったら私としてはブレードランナーを思い起こさせます。人間の遺伝子の不完全なところをいじって、そのかわり5年の寿命にしてクローンをつくり外惑星での労働をさせる。かれらレプリカントの反乱と地球への帰還。そしてレプリカントを作成している会社にのりこみ5年の寿命を遺伝子をいじってなんとかするようにせまるが、だめと知り研究者を殺害。それを追いかける刑事。ただしこの刑事もレプリカントなのかもしれない(ディレクターズカット)。エヴァでの使徒といわれる破壊マシーンの役割りはこんなところみたいです。ブレードランナーでは最後の闘争で、ルトガー・ハウアー演じるレプリカントが刑事(ハリソン・フォード)を助けます。”生命の大切さがわかったのだろう”とさすがルトガーハウアーという演技を見ることができますが。

 でもこのアニメ、かわいい女の子をあれだけ用意して、前半では謎をしかけた楽しいロボットアニメを繰り広げてきたのに後半は一転してくらーいくらーいトラウマ刺激劇。こういうのが今はやりなんでしょうかね?他のアニメをみてないので言えませんが。監督に怒りの手紙を出した人もいるようです。ゴダールの映画をじつはあとから見たのですが、ゴダールをみながら、「エヴァとスタイルが一緒!!」と思いました。たぶんエヴァの監督はいろいろ映像作品をアニメに限らず研究しているのでしょう。ゴダールの引用は作品外からですが、エヴァでは作品内で頻繁に自身の映像の再解釈がなされます。これの割り込み方とかその方法を好むやり方はたぶん庵野監督がまねているのでしょう。また、文字への好み。大量の文字、認識されない程度の言葉の洪水。いずれにせよ、成功しているにせよだめというにせよ、そういう心理的な指向性があり、多分そういうところはアニメオタクたちは映画ではもう使われている手法ということをしらないのではないかと思いました。ハリウッド系の映画じゃこういう手法はとらないからね。むしろヨーロッパの映画。エヴァで私が見つけた直接のSFからの引用は2001年宇宙の旅、エイリアンかな。あまり最近SFもみないのでわからないけど。

 エヴァがマニア度が高いのはその映像をコマ送りしていくとよくわかります。一番はじめに気がついたのはそのオープンニングソングと映像。重要な画面がはじめの映像にまとめて提示されています。エヴァの腕が紫の腕と20話にでてきた人間のうでと両方現れます。はじめの方ではシンクロしていることをあらわしていると思ったんですがね、あれは人間の遺伝子をもった人間ですからね。冒頭で重要なシーンを予告するというのはオペラでは物語のキーをあらかじめ音でしめしているのとおなじです。そして物語も2度みると、あとで問題になってくることがすでに提示されています。例えば荒々しくまがまがしい生き物、自己修復をするとき人間として再生される人造人間としてのエヴァは第2話ですでにでています。コマーシャルベースの手抜き映像とおもったら大間違い。これは劇中でも駒送りで見る必要のあるところがあります。とほめてばかりですが、私にとっての夾雑物はロボット。あれがいいのかもしれませんがガシャーン・ガシャーンとあるかれると僕にはちょっと気恥ずかしい。女の子も14歳なのにとってもグラマー。なんと20話では女の子の方から空想上ではせまってきます。ちょっとなんだか、居心地がわるい。もうすこし年が上の設定なら、、、それも2次元コンプレックスか。そしてキリスト教。死海文書にそってはなしを進めているようです。これを選んだ理由はなんだろう?ヨハネの黙示録に出てくる怪物の特徴がいくつか出ています。セブンというちょっと前にやった映画、あれはブレードランナーとエイリアンのぱくりが随所にみられましたが、あれはミルトンの失楽園の7つの大罪がベースなんですが物語の中でその謎解き自身は解決されません。そういう見せかけだけの提示は好きではありません。また、どうして戦闘を子供がしなくちゃいけないのか?もしそうしないと番組が売れないというのであれば、敵をやっつけるかっこいい大人というのはフィクションにもならないと子供たちが絶望しているのでしょうか?

 とながながと書いてきましたが、ゴダールは前ふり。ゴダールとエヴァ、二つでセットです。エヴァはアニメオタクだけでなく映画の好きな人にビデオでリモコンをもって見てほしいですね。でも基本はエンターテイメントですからね。まあ、でもエンターテイメントとシリアス芸術の違いをアドルノさえうまく説明してないしなあ。なお、エヴァの歌で「残酷な天使」と頭に刷り込まれてしまったので、リルケの「ドゥイノの歌」の一行目、「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?」を読むのに頭の切り替えがうまくいかない。。。こまったものだ。いやあアニメも難しくなったものだ。勧善懲悪にしておけばそれでいいのに、そうしたら無視するだけですんだのに。このあとさらに暗い場面が用意されていて精神錯乱のシーンも用意されていると聞いています。きっと成熟してきたアニメファンが満足できないんでしょうね。そういう人はみるもののジャンル変えたら?(大きなお世話か)

 最後に。主人公シンジ君(14歳)の女性関係(ビデオ20話まで)。レイちゃんを、お母さんみたい。といったり、部屋をかたずけてレイちゃんに「ありがとう。感謝の言葉、あの人にもいったことない」とかいわせちゃうあたり、どんかんなんだけど結構口説きモード。アスカちゃんはちゅーしたのもつかの間、あのシンジにまけるなんてとライバルモードが強まります。どちらに転ぶんでしょう(笑)。案外僕の興味ってここしかなかったりして。オタク全開だしね。ヒヒ。

1998/02/04 付記 SNさんからコメントをいただいた。ありがとうございました。書いた甲斐がありました。フェティッシュの指摘はさすがです。ラブ&ポップは名古屋では終わったようですがなんとかして見てみたいと考えています。そうなんですか、劇場版には現実に帰れというメッセージがこめられているのですか。それはまた皮肉な。ここまで見た以上もうすこしつきあってみるつもりです。

(1998/02/03 Tue)

山本君からの手紙 その3

君は自然科学者とは”したこと”や”あったこと”のうちに真実を見いだす人々であると定義し、人文学者を”言説のなかに真実を見いだす」人々として見なしているようだが、それが「言説」であるにせよないにせよ、ある著作、絵画、彫刻、建築、音楽を創り出すということ、そしてそれに感動するということは”したこと””あったこと”とはいえないのだろうか?君の方法論からすれば、人間の精神的文化的活動とはすべて言説というものにくくられて”したこと””あったこと”ではないことになってしまう。すなわち、世界とは物理法則という抽象観念のみが立ち働く場所であり、それによって説明されうるものが”したこと”や”あったこと”になるわけだろうか?こういった存在論的理屈をこねずとも君のいうことには十分反論することができる。たとえばある美術史学者がある作品の制作年代、作者を数々の実証(たとえば、制作契約書の発見)によって完璧なまでに証明したとする。このことは”したこと””あったこと”を証明したことにはならないのか?それは「言説」であって主観的なものであり、君が言うところの「ものの見方でいくつも結果がでること”なのだろうか?シャンポリオンがエジプトの象徴文字を解読したという事実を君の論法で疑いだしたらそれこそエジプト文明は地上に”あったこと”ではないことになりかねない。実証という客観性が自然科学の独占物であると考えるのは大間違いである。むろん、人文・社会諸学の目的とは本来こういった実証なのではない。しかし、”ものの見方でいくつも結果がでる”として”言説の中に真実を見いだす人々”と人文・社会諸学をわりきるのだけはやめていただきたい。少なくとも実証によって基礎を構築した後に人文・社会諸学の本来の考察が始まるということを忘れないでほしい。

(つづく 3/9その4へ山本君の手紙

(1998/02/04 Wed)

フーコー。あなたはなにをよみとるか。

ミシェル・フーコー1926-1984 編集=桑田禮彰ら 新評論より

フーコーとのインタビュー

p34

インタビュアー:科学は「真理」を生産し、私たちはその「真理」に従属するわけですね?

フーコー:そのとおりです。真理とは権力の一形式である。といったっていいでしょう。まさにこの点では、ようするに西洋哲学が「なぜ私たちは真理にひかれてしまうのか。なぜ嘘よりも真理に、なぜ神話より真理に、あるいは、なぜ錯覚より真理に」という問いをたてるかぎりで、私は西洋哲学の根本問題の一つを取り上げているだけのことです。・・・ニーチェがつきつけた「具体的にどのような具合に私たちの社会の中で「真理」にこんな特別な価値が認められるようになり、そうした価値のせいで「真理」がわたしたちにとって絶対的な強制力をもつようになったのか」という問いを、深刻にうけとめなければならないと思います。

p65

フーコー:哲学の問いは長いことこんなものでした。

「すべてが滅びるこの世の中で移ろいゆくことのないものは何なのか。死なねばならぬ我々は、移りゆくことのないものとの関係からするとなんなのか」

19世紀以降は

「現に過ぎ去っていくのは何なのか。そして、われわれ、現にすぎさって行くもの以外のなにものでもなく、それ以上の何ものでもないわれわれとは何なのか。」

フーコー:哲学の問いとは「我々自身であるこの現在」についての問いなのです。だからこそ、哲学は今日、完全に政治的であり、完全に歴史学的であるわけです。哲学とは、歴史に内在する政治であり、政治に不可欠の歴史学なのです。

フーコー:かつてキリスト教の初期の数世紀の思想は、次のような問いに答えねばなりませんでした。「現に過ぎ去っていくのは何なのか。われわれ人間のものであるこの「時間」とはなんなのか。われらに約束されている神の再来はいつ、いかにしておこるのか。余計なものとして存在しているこの「時間」をどうすればいいのか。そして、われわれ、この移ろいゆくものでしかないわれわれとは何なのか。」

そのうちまたなんかアイデアがまとまるまでここに寝かせておきます。一番最後の文はもちろんアベラールとからめてみたい。まあ、フーコーの文章って本人が具体的にというほど具体的でないよね。ちょっとグチモード。

(1998/02/05 Thr)

フーコーが語るバイロイトのワーグナー 

フーコーはブーレーズがバイロイトでふったとき招待されて聴きにいった。バイロイトといえばワーグナーである。ワーグナーといえばニーチェである。ニーチェといえばフーコーである。このブーレーズが演出家パトリス・シェローとくんでやった「指輪」はいまだにオペラ界の語りぐさになっている。CDはでているはずだ。

以下 哲学の舞台 (M・フーコー+渡辺守章 朝日出版社 1978)より(この本はこの二人の対談集である)p 55より

W:指輪の感想はいかがでした?

F:第一に「指輪」の上演はこれまで常に西洋文化が演劇の価値に対して抱いてきた蔑視の態度がそのまま見られて、ワーグナー作品の音楽的次元のみを強調して、演劇的な部分を極力切りつめようとしてきた。ワーグナーを聴くがワーグナーを見ないのです。・・・シェローは演劇としての視点を主張したわけですが、ここで見事だと思ったのは、ブーレーズが(ブーレーズといえば現代屈指の作曲家だし、大指揮者でしょう)この賭を、ルールどおりやることを引き受けた、という点です。

 第二に19世紀の<反ヘーゲル主義者>の問題で、ニーチェとかワーグナーとかは、彼らが西洋文化に姿を現して以来、いささか曖昧な役割を演じてきたのです。

 ヘーゲル思想はあまりにも左翼思想と結びついていたため、、反・ヘーゲルというのは右翼だ、とされてきた。もちろん事態は変わってきているのでニーチェはそういうものではないことぐらいはわかってきている。・・・・ワーグナーはニーチェとの確執がどうあれ、本質的にはアナーキストだったと思う。シェローはこういうことを理解した上で、その演出ではワーグナーのテキストそのものに立ち帰ることを可能にしたのです。ワーグナーのテキストは、単に音楽の支えであるような、いささか退行的な神話的朗謡などというものとは違う。それは重要な劇であり、歴史的な意味をもつ劇なのです。それをみごとにシェローは舞台化した。

 第3にワーグナーはショーペンハウアーやニーチェとならんで<主体>の問題をデカルト的ではない観点から提出した数少ない一人なんです。すなわち、彼は<主体>の西洋的概念が、やはりきわめて限界のあるものであって、思考にとって無条件な根拠の役はなさないということを見て取ろうとした。それが東洋とのであいだった。ヨーロッパ的な主体=主観性の解体、我々の文化が幾世紀にもわたって我々に課してきた強制的桎梏である主体=主観性の解体、それは現代における闘争の一つの目標なのです。

まあ、ショーペンハウアーというのをショーペンアウアーといったんだろうということぐらいしか私にはわかりません(爆)。

疑問1 演劇が強調されたということは具体的には何があったんだろう?

疑問2 ワーグナーの「指輪」ってどーでもいい大河ドラマだと思っているし、音楽もマーラーのハリウッド映画用音楽処方と表現主義期の絶叫を聴いてしまっている以上ドラマ用音楽としてあまり面白くない。あのとんちんかんな劇のどこが重要なのだろう?

疑問3 ワーグナーの劇のどこをどう見たら西洋的限界が見えるんだろう?東洋とのであいって当時から東洋趣味がさかんになってきただけじゃあ、、、、

渡辺先生もうすこし聞き出しといてくれたらよかったのに。。。それはそうと、こんど見ることがあればこれらの疑問は解けるのかもしれません。シェロー/ブーレーズの「指輪」ってCDはあるの聞いてますがレーザーディスクででてましたっけ?私がみたのはレヴァインのです。

なぜ、ここでフーコーを取り上げているかというと、私にとって重要な思想家なのでコアになるところをここに切り出してみたいのである。そして、何をいってるかさっぱりわからない文章からなんとか意味を切り出してみたい。が、また、中途半端になったらごめんさい。とくにフーコーは中世キリスト教社会の言説の地平を分析しているので-特に修道院生活での告解および瞑想-それとアベラールをぶつけてみたい。はたしてフーコーはどれだけのことをいっているのかその裏をとってみたい。

 そしてフーコーのインタビューや講演集を引っぱり出しているのはとってもわかりやすいからだ、かれは第一には、とか第二にはとかいっている。しかし、彼の本ときたら、、、

アドルノがベートーベンという本の中でかいていた:

  ベートーベンは彼の音楽を聴いて泣いて感動している人をみると叱りつけていた。

ほんとかどうかしらないが、納得できる話ではある。そして私はベートーベンの音楽に限らず他の作品にもそうありたいのだ。

ベートーベンの弟が「土地所有者」という名刺を誇らしげに兄貴にみせたら、兄貴は私は「頭脳所有者」だとこたえたらしい。私はさしずめ「書籍所有者」というところか。

ショーペンハウアーは「読書とは他人にものを考えてもらうことである」というが、こんにち、「テレビを見るとは他人に殺人の動機を考えてもらうことである」といいかえるべきかもしれない。

シェーンベルクは自分の真実をまげて売れるであろう音楽を書くことは聴衆をだます恥知らずなことだと考えていたが、こんにち、音楽はデートコースの一貫であるからお金をはらって来ていただいたお礼にその後のレストランでのワインがおいしくなり、しばしば女の子がお酒を飲み過ぎるような音楽を書いてあげることこそ彼らの義務なのだ。

(1998/02/06 Fri)

山本君からの手紙 その4

「したことやあったことに真実を見いだす人々ではなく、「したこと、あったことについて一つの説明を試みる人々」として自然科学者は自らが語りうる限界を自覚すべきであろう。次に、一部の無反省な科学者がおのれの客観性のほとんど唯一の拠り所としてすがっている(?)いや、その目的としているように見える実証について(少なくとも人文・社会諸学にとって実証は基礎であって目的ではない)検討してみる。君は「物理学者はある一定の事象を選択し、条件付けることによって定理など導き出さないし、それは物理学者の嫌っていることである。」と述べているが、物理学の門外漢にすぎぬ私はそういわれてしまえば、そうですかとしかいいようがないが、あえて質問してみたい。では古典物理学においてその方法をなしていた実験という行為をどう説明するのであろうか。実験とはある一定の事象を選択し、条件付けることではないと言えるのであろうか。

 落下という事象を選択し、真空ポンプというもので空気を抜くという条件付けをしなければ例のガリレオの推測した法則は実証されないのではないのか?

われわれの生活世界における自然では物理法則そのままの現象など私には考えられない。科学の法則とは自然をある特殊な環境に人工的にへんかさせた時のみあらわれるものなのではなかろうか?

 世界は物理法則に従っているのではなく人間が限定した条件において一律に変化させられているのではなかろうか?

(4/9おわり その5につづく

この手紙の冒頭にもどる 山本君の手紙

今日は古本屋の前をとおりかかったのでついはいってしまった。

マラルメ論 A・ティボーデ 沖積舎 7000円→3500円

ゲーテとの対話 岩波文庫 上中下 700円 ファウストがわたしにはさっぱりだったのでちょっと研究したい。なんたってマーラーだって引用してるしね。

クセジュ文庫で象徴主義、神秘主義。

最初にマラルメを読みたいですね。おもしろかったらレポートします。今日はフーコーのことをすこししか考える時間がありませんでした。もうすこしお待ちください。

(1998/02/07 Sat)

[詩なんてわかんないよ]

 このページでは面白くないながらいくつか詩を解釈したりしてきた。それで私のことを文学青年だと思っている人もいるんではなかろうか?たとえば私が高校生の頃は詩集をもちあるくようなイメージ。ところがこれはまるで当てはまらなくて、普通に小説はもちあるいていたけども詩集なんて読んだこともなかった。それはごく最近までそうである。詩への接近はクラシック作曲家が歌曲を作っているので詩を理解しようとおもってはじめたのである。私にはイマジネーションがないのでぜんぜんわからん。むしろなんとか読み解いて「理解」しようとする。野暮天なのである。それはまちがいない。本質的にイマジネーションの飛躍であるはずの詩をきりきざんで詩に向かう時間よりは詩について語られた本を読むのはばかげてないか?だから詩に限らずそういう本を読まずに理解できる人がうらやましい。

 詩を理解するのにnative言語でやらなきゃというのは永遠の真理だが、ドイツ語やフランス語を学んだ後にそこにたどり着くのは私の場合永久にやってこないというのも私に限っては永遠の真実でもある。それは我々の言語でかかれた傑作はやはり言語表現として高級な部類に属していることを思い出せば十分である。外国語を普通に勉強したくらいじゃどのみちわかんないんではないか。私は日本語で意味を取りながらなるべくその詩の言葉で発音してみるのではあるが。

 詩的表現というのは大変幅広いことが最近理解しつつある。シューベルトのころの歌詞をみるとまじめに読む気なぞうせてしまうし、ドイツ表現主義のゲオルゲやデーメルなんてぜんぜんわからん。これがシェーンベルクやウエーベルンの歌曲を難しくさせている一つだとも感じるくらいだ。

 想像するといい、いくら前衛音楽でも日本語が発音されていたら(そういう場合たいてい聞き取りにくくなっているだろうが)かすかに聞き取れる言葉から意味を再構築しようとしようとするだろう。こと日本語で歌われている限り音楽そっちのけで音声に意味を見いだそうとする。だから私は外国語の歌曲を聴くときはおなじように聴き取りたいのだ。そしてジャンルとしては声楽の地位をもっと上に上げねばならないのだ。

 シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」というストラビンスキー、ラヴェルにも影響をあたえ、ブーレーズすらモデルにした曲の歌詞。以前はさっぱりわからなかったが最近なぜそれらがわからなかったがうすうすわかるようになってきた。だがまだ完全ではない。詩の内容にともなうエクスタシー。使われる言葉の官能性。シェーンベルクの「架空庭園の歌」が頭にある。だがどこにもあからさまな言葉はないのだ。

 私の理解できる詩的体験(あるいは美的体験)は大変限られている。いったいどれだけの内容と形式をもつ作品が私の目の前にあらわれるのか?そして私の目にはなぜこれまでこれらの詩作が目にはいらなかったのか?そしてこれらの本がたしかに本屋では手にはいるのに、滅多に日常生活では言及されず、こちらがそれについて語ろうものなら浮き世離れしたしたやつだと見なされるのはなぜか?にもかかわらずそれらが傑作として継承されていくメカニズムは?

 いずれにせよ詩の理解について突破口になったのはリルケであり、それにコメントしたホイジンガであり、ミラン・クンデラである。だから私はますます詩に共感できるようにそれらの解説書を読むしかないのだ。じつはマラルメ論の本が面白かったので少し紹介しようとおもったのだが、ながくなったので止める。そのうち始めるでしょう。きっと(笑)。

[シェーンベルク][ウエーベルン][ホイジンガ]

ゴダールの映画史からの引用がmireiさんのサイトで読めます。ゴダールの映画の引用を読み解くのは謎解きでしょうか?きわめてメッセージ性の強い監督ならば、ゴダール抜きでゴダールを分析するのも手ではないでしょうか。本当にすばらしいクリエイターならばどれだけ分析されてもなお、美的体験が枯渇するなんてことはありません。それどころかますます美しくなるのです。

SNさんのサイトで1996/12/19の日誌でアレクセイ・リュビーモフというピアニストについて述べてあって、ジョンケージの「プリペアード」を演奏するためにプリペアしているところから立ち会ったことが書かれています。ジョンケージが気になる人は必読です。SNさんはストリートミュージシャンとしてデビューしたいとも書かれていました。著作もあるそうです(これは読んでみたいです。)。

なぜか上に詩を読み始めたことのいいわけを書いてしまった。それで、フーコーについて書く時間をなくしてしまいました。今週はちょっち疲れているので、命の洗濯をして寝ます。(これもこのページで述べたある作品の台詞を引用しているのですがおわかりですか?)

(1998/02/08 Sun)

フーコーはいささか人を幻惑するようにはなしたりかたったりするので彼のテクストに深いなにかを見いだす人は多いのかもしれない。しかし、それは読み物としてはそうかもしれないが、ある種の結論をもとめようとすると、結論をだすような体裁になってないのではないか?かれは具体的なやりかたでと、いつも語るのだが彼のかたりはいつも具体的にではない。私がインタビューアーだったら、もうすこし、「よくわかりません、もうすこし具体的に話してください」といったと思う。

 それでそれを私がもう一つの著作とだきああせて補ってみた。この二つの著作をつなぎ合わせることで、多少はフーコーのいうことがわかるのではないだろうか?だが、問題はこのような裏取りは、通常とても難しいのだ。もうすこしわかりやすく(具体的に)書いてもらいたいもんである。

メンデルについて、そう、あの遺伝学者のメンデルについて、はじめはフーコーから、後半はクロッツという分子生物学者から。後者はノーベル賞をもらったっておかしくないような仕事をした人だ。

M・フーコー 言語表現の秩序 (中村雄二郎 訳、河出書房新社、1981)

・・・人々はよく自問しました。19世紀の植物学者や生物学者は、どのようにして、メンデルの所説の真なることを見ずに済まえたか、と。しかし、それは、メンデルが対象について語り、さまざま方法を用い、或る理論的地平に身を置いていたからであり、これらのことは彼の時代の生物学とは無縁であったからであります。・・・メンデルはそれまで絶えて活用されたことのなかった選別を用いて、遺伝的性格を、絶対的に新しい生物学的対象として構築する。すなわち、かれはそれを、種からひきはなし、それを伝達する性からもひきはなす。そして、かれがそれを観察する領域は、それが統計学的な規則にしたがって現れ消える諸世代の限りなく開かれた系であります。新しい対象が新しい概念用具を招き、新しい理論的基礎を招くのです。・・・やがて彼の命題が正確なものと思われるようになるためには、生物学において、どうしても、およそ尺度の変化、対象の新しい平面の展開、が必要であった。

アービング・M・クロッツ 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか (四釜慶治 訳、朝日選書、1989)p54より

・・・この研究が35年もの間、完全に無視されたのは、一つにはまったくの見落としによるものであった(その研究結果は、ヨーロッパの片田舎の無名の雑誌に発表されたから)。しかし、それはまた、現代風にいえば「科学界のエスタブリッシュメント」がメンデルの発見の重大さを十分に認識できなかったことにも起因していた。

・・・メンデルはウイーンの大学院で数学、生物学そして古生物学を聴講した。彼はそこで、数理・数量的な実験技術を身につけたが、それは19世紀半ばの植物学者にとってはきわめて異例だった。そしてこのことが、その後の彼の実験研究と解釈に、間違いなく影響を及ぼした。

・・・雑種の子孫があらわす異なる形質の数を決定し、それらの形質を各世代ごとに確実に配列し、それらの統計的関係をはっきりと確かめることができるやりかたで。

・・・このような形での設問は、それまでに一度も発せられたことはなかった。したがって、どのような統計的規則でも発見できるように、実験計画は立案されなければならなかった。

・・・この研究は1866年に印刷された。そこでは、組み合わせの統計数学が用いられていた。それは今日の目で見れば単純であり、行列代数学の初歩的原型ともうけとれるようなものだが、しかし、19世紀半ばの植物学者達には、講演の形にせよ論文の形にせよ、とてもアピールするものではなかった。

・・・1900年までにこの仕事の重大さを評価したものはいなかったのである。

その後の顛末

論文の別刷りのうち2部は当時の有力教授2人に送付された。そのうちの一人、ケルナー教授は封さえ切っていなかったという。もう一人の教授はフォン・ネーゲリで、かれは雑種学の著名な権威であったがあきらかにまったくメンデルの仕事を評価できなかったという。しかし、彼はメンデルにヤナギタンポポをもちいて実験したらどうかと提案しはげましたそうだ。ところがまったくこのヤナギタンポポの種子は減数分裂の後に受粉して生じるものではなく、単為生殖に似たアポミクシス(無胞子生殖)と呼ばれる過程で生じるため、メンデルの結果とは無縁の種である。このことは当時まだわかってなかった。しかし、メンデルはこの種でも実験を進めた。その結果失意の袋小路を歩いたという。この後、核酸とか遺伝子という概念がようやく整ってきてその時点で、1900年にようやくメンデルは認められるようになったそうです。

 どうでしょうか?前者は講演のを文字におこしたものですので多少割り引く必要があるかもしれませんが、著作だって、クロッツほど具体的ではないと思います。

 いずれにせよ、当時なぜ理解されなかったかを具体的に語るのは難しいですね。

 まあ、それはともかくフーコーを不定期に続けましょう(あ、逃げをうったな、とおもったあなた、あたりです)

(1998/02/09 Mon)

名古屋も雪がつもりました。デジカメにおさめようと思ったのですがもう溶けてる。

中山 元氏の「フーコー入門」(ちくま新書)を購入660円。安い。安すぎる。本屋でちょっと中を見るとフーコーに誘われてずいぶん具体的なことを述べている。また、フーコーは哲学や思想を具体的な日常のなかでのツールと考えていた。と紹介している。すごくいい。僕がひかれたのはそういうところなのだから。

岩波文庫で「生命と地球の歴史」がでていた。丸山茂徳・磯崎行雄 著。光合成にもふれられているので買う。最近は生命の進化が地球にどのような変化を引き起こさせ、その結果両方の進化がどうなったか?を問うのがはやり。ほんとはこういうのここで書くべきなんだろうな。。。。皆様に共通の話題が提供できたら書くことにします。

今回はホイジンガの補遺を書き始めて、まとまらず、ではフーコーでいこうとおもったのですがこれも読み切りではまとまらず、時間切れで持ち越してしまいました。つまり、原稿を「落とした」わけですね。言い訳するなって?ごめんなさい。

今週中にはアップできると思います。能力以上の難しいテーマばかりを選んだせいですね。

(1998/02/10 Tue)

mirei&minamiさんのページに映画Hana-biの批評が載ってました。

あなたはワイン好き?私は好き。すこしアルコールがはいってからの辛口のフルボディの赤ワインときたら。。。。でもなぜかしらふでワインは飲めないの?それは贅沢?それでも私の飲む量なんてしれてます。ボトルに半分くらいで限界に近いです。まあ、それはさておいて、私の同僚が東海地方にお住まいのワイン好きのあなたのためにメーリングリストを立ち上げました。興味ある方はどうぞこちらを見てください

今日は地下鉄でリゲティのピアノ協奏曲にはまる。面白すぎる。帰りはブーレーズのル・マルトー・サン・メートル。これも面白すぎる。なかなかはまる。是非どちらもコンサートで見てみたいものだ。

今日(2/9)は家人がプレゼントにシャツを買いたいというので(私にプレゼントなわけではない)パルコへつきあった。ところが、そこで私がみたものは、、、、茶色と白のコンビのストレートチップの靴。ちょっとサイズが大きいのが難点。でもバーゲンで現品限りなので買ってしまった。予定外の出費。ちゃんと皮底で、グッドイヤーウエルトでしあげてある。こういう革靴が大好きなのでもう何足もっていることやら。でもこの手のデザインの靴なかなかないんですよね。ほんとはウイングチップでつま先にはメダリオンが入っているのが好みなのですが。コンビの靴なんてなかなかないのでちょっと自慢したい感じ。

 上に書いたように皮底の靴が好き。でもソールにはゴムを張ります。これで、ソールをほとんどかえなくていいので安上がりです。通気性が悪くなるという方もいるかもしれませんが、私はそれほど変わらないと思います。それより、滑らなくてずっといい。ときどき雑誌でこういう靴の特集があって、いわく毎年履きつぶす靴を履くより、気に入った高価な靴を複数履き替えて長くはくほうが結果として安上がりとかいうタコ記事に出会いますが、あ〜いうのは無視。コスト計算すれば安い靴をたくさんもって履き替える方がはるかに安くつきます。単に私はデザイン重視です。でも、長いのはたしかに7年くらいはいているなあ。でも、かかとをかえたり、それなりにお金はかかります。そうそう、2万円以上で皮底の靴ならきっとアッパーの皮は磨くととても気持ちがいいですね。

今日も軽い話題ばかりでした。

メール

過去の「今日の話題」

前の日記へ

ホームページにもどる