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今日の分はもっとずっと下。
(1998/01/21 Wed)
まじめに読んでいるわけではないけれどずっと気にしていた本「ドビュッシィ-印象主義と象徴主義」ステファン・ヤロチニスキ著 平島正郎訳音楽之友社をぱらぱらみる。ドビュッシィはご存じのとおりフランスの20世紀初頭に活躍した作曲家。この本には象徴主義についてのべてあって、中世のことも書いてある。
聖ドニの言葉「実のところ、目に見えるものは、見えないもののイマージュである。」
中世の象徴主義は、自然とはそれより高い秩序に属する現実の象徴にほかならない、という信条にささえられている。芸術家が自然から汲んで作品の中に描きあらわすすべては、人間の思考を超自然の方に向かわせることができる。だから聖堂という、中世人の霊的な並外れた生が感動に高鳴る場所は、形而上学的な意味作用をきわめて多様にになった象徴、寓意画、オブジェのたぐいを、あのように集めて、見せるのだ。
この本はドビュッシィは美術でいう印象主義とは全く関係のない音楽だよという結論なのだが、結構分厚くしかもかなりの知識を要求するのでいままで本棚にありがたく飾って置いた。そろそろ読めるかもしれません。
日比さんの更新は明日にする予定です。
(1998/01/22 Thur)
今日は日比さんのシューベルト「魂の野道」の新作アップの日です。F=ディスカーウという天才バリトン歌手について述べてあります。おもわずひざをたたいた表現。
比喩と解釈と幻想とF=ディスカウはシューベルトの歌曲にその三つのライトを当て乍ら、これを「出来事」として世に送り出した大思想家であり偉大なバリトン歌手である。
是非お楽しみください。今日はこの日比さんのページを作り直したら果ててしまいました。最近「健康のためにインターネットのやりすぎに注意しましょう。」を標語にしているのでここらでやめときます。でもここに私は一日(1時間)かけたので是非見てくださいね。アイコンを作り直してみました。
しばらく書くことも思い浮かばない(書きたいことはあるのだけどまとまらない)のと疲れ気味ですのでメンテナンスモードに入ります。来週には復活できるかな。とういうわけで今日もきらくなおしゃべりを。
私のカラープリンタはepson pm-700cである。pm-750が発表されるちょっと前にかったので750がでたときには号泣きした(笑)。
このpm-750はあのスピードが宣伝をしているのでうれたというコメントをどこかで読んだ。スピードの4人組が中学生になったばかりというのは紅白のときはじめて知った。紅白って勉強になるなあ(笑)。
それはともかく、中学生にああいう歌を歌われると、私はし〜んとしてしまった。と、えらそうに書くのは簡単だが、ふと思ったのが、オペラで愛だの恋だのを歌っているオペラ歌手。あれはそうとうにオバさんである。しゃれにならんくらい。10〜20歳の女の子の役に40後半のオバさんがやるんですよ?ちょっと最初はためらうものがありました。
だが!いくつかのオペラを見終わる頃にはすっかりそのおばちゃんのファンになってしまいそうになるんだな。これが。
パリのコンサートでベルクのルル組曲をハインツ=ホリガーの指揮で聴いたとき(なんかかっこいいよね。こうかくと。でもこれが最初で最後となっている。卒業記念で行ったの)、歌手(名前忘れた。パンフも見つからない)がオバさんやないかと内心いかっていた。そんなに厚化粧をして胸のあいたドレスなんかきるんじゃねーよ。とおもっていた。(ことば汚くてごめんなさい)だが、強烈なルル組曲の終わった後、私は彼女にもえもえ〜となってしまった。いやー歌の力ってすごいっす。レーザーディスクではヒルデガルト=レーベンスだかを気に入った。最近CDにも名前をみる。
あのごついキャスリーン・バトルもすごい。どうみてもかれんな美女にみえんぞあれは(笑)。でも美女になっちゃうんだなあ。皆様はだれをひいき?
そうそう、皆の目にはスピード4人組が成熟した大人の女に見えてくるのでしょうか?(爆)
結局今日もwebに2時間をかけてしまった(T_T)
(1998/1/23 Fri)
きょうはMIZUNO氏のウエーベルンをアップする日。今回は声楽曲です。次週最終回をむかえますが声楽曲についてはわたしが気長に歌詞を打ち込みたいと思ってます。
最近ようやくウエーベルンの良さをつかみかけてきたような。。。ってまだまだかな。
今日もメンテナンスモード ロマネスクの旅行記をちょっと作り直してみましたが満足いかず、現在これらを一日一枚のhtmlに書き換えています。そのうちできるでしょう。現在デザインを考えているところです。
SNさんのサイトで阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』の紹介がおこなわれていました。SNさんの表紙ってマックのexploreでいくとmidiがなるのですがnavigatorでいくと雪が降ります。
SNさんは新ウイーン学派は新ウイーン楽派としたほうがいいですよ。とメールで指摘してくださいました。ありがとうございます。さっそく訂正いたしました。いままでのはただのまちがいです〜(>_<)。こんな私が新ウイーン楽派のサイトを作ろうだなんて笑止千万ですね。
1988年11月6日
芸術のあきですねえ。風に落ち葉が舞う上野公園の今日このごろであります。博物館のだだっぴろい庭のベンチに腰かけて上をボケーと見上げたると青い空に羊雲が泳いでおります。西武が優勝したので西武百貨店へいったらけっこう安く服が買えた。ついでにレオナルドの素描展を見てきました。池袋西部へはアール・ビヴァン(美術専門業店)があるのでよく行きます。最近美学が面白い。哲学の一分野としてよりも芸術史の基礎概念としてよりも芸術史の基礎概念として美学はかかせませんです。アンディ・ウォーホールがこんなことをいっています。
「画家にとっての美学は鳥にとっての鳥類学のようなものさ」
確かにねえ、一面鋭いところついていますがそうばっかりとはいえません。ヴォリンガーの「抽象と感情移入」がカンディンスキーに影響を与えたことは事実だし、芸術家の中にも理論家の方はいますし、農家の人が問屋さんを通じて野菜を売るように美学者や美学史家、批評家の存在意義だってあるのだから。あっ、「海と毒薬」読みました。暗かったけど考えることのできる作品ですね。映画はイメージがくずれるから見ない方がいいよ。
DNA音楽って知ってますか?遺伝子構造の組み合わせにC(ツェー)だのDだのといった音をあてはめていくとバッハとかベートーベンに似た曲ができてしまうんだそうな。でもモーツアルトだけはできないらしい。やっぱり一代限りの天才なのか?
(1998/01/24 Sat)
今日は私の体のメンテナンスモード。このwebのせいで一日のベッドでの睡眠量が4.5時間なので週末にしわ寄せが来るのです。あ〜よく寝た。
ようやく以前から見たかったアニメ「エヴァンゲリオン」のビデオを入手。以前に書いたように私は中学時代にガンダムの爆発的流行を最後にアニメからは遠ざかっていたが、なぜ見たかというと私の職場にオタクがたくさんいて、私は人がおもしろいというと見てみたくなる性分なのですね。で、見たのは12話ぐらいまで。なんか目玉が山の上に落ちてくるのを受け止めるシーンで終わるやつ。
せっかくだから印象を書いておく。この印象は12話までのものなので、この先どうとらえ方がかわるかわからない。それにガンダム以降アニメはしらないのでまとはずれなことも多いと思います。お許しを。
使徒といわれるロボットというか未知の破壊者が新東京にやってきてネルフという国際防衛体?の基地を壊しに来る。迎え撃つはエヴァンゲリオンというロボット(人工生命体とウチのオタクは叫んでいた)。
そこでの構図はあたかもウルトラマンである。よくわからない怪獣がやってきてそれをウルトラマンがやっつけてくれる。
ウルトラマンも今ここで思い出してみるととても不思議な物語なのになぜ受け入れていたのだろう?なぜM78星雲からなんで地球を守りに来てくれたのだろう?
まあ、これはおいておいて
エヴァンゲリオンに描かれる新東京はわれわれの今の生活の延長線上にある。電話も緑の電話である。グレ電にモデムをよくつなげる私としてはグレ電にして欲しかった(笑)。
そういう意味でガンダムのように架空の社会を構築しているわけではない。ガンダムは人間どおしの物語だがこれは現実の物語を装っている。
女の子のセクシーショット(死語)がおおい。アニメの世界ではこんなに増えてたのね。胸、腰、おしり、足の各パーツのクローズアップ多数。戦闘スーツに着替えるとき女の子が下着を取るところまで見せてくれる。
各人のキャラクタリゼーションがはっきりしていて、彼らの過去や現在の行動のモチベーションを物語内エピソードとして述べたがる。
日本には高度な管理社会ができあがっていて、コンピュータ”マギ”が管理している。マギは3台のコンピュータでマギの礼拝ね。キリスト教タームがやたらでてくることが特徴でしょう。エヴァンゲリオンとはエヴァンジェリスムからきてるらしい。
情報は統制されていて、新聞にでることと現実に起こっていることは違う。あたかも旧日本の大本営だ。それはこの物語のなかではしょうがないことととらえられており、それに対して抵抗する市民団体の存在は描かれていない。なぜならネルフのやっていることは正義だからととらえられているからである。しかし残念である。
使徒がなぜ新東京にくるのかはいまのところ不明となっている。
ネルフには裏があり、日本の自衛隊が作成したJAという戦闘用ロボットはネルフの手によって暴走するようにしくまれていた。これを葛城みさとはしらず赤城りつこはしっている。
太平洋艦隊へエヴァを取りに行ったときには白人を技術や時代、あるいはお金に対する後進性の象徴として描いており、現在の状況の逆をえがいている。白人コンプレックスの裏返しか。
セカンドチルドレンはドイツからとどく。それにのる女の子もドイツ出身だが日本人とのハーフ?ドイツと日本。まるで第二次世界大戦の枢軸国を思い浮かべる。
メカに対する描写はこまかい。太平洋艦隊の船をマニアックに描き続けていた。それについては3バカトリオのひとりが強調する役をになっている。
ユニゾンで使徒をやっつけるシーンでは戦闘シーンでは戦闘音はとめられかわりにシンクロの媒介である音楽がなる。これはむしろバレエのシーンのパロディだ。
セカンドインパクトといわれる、大本営発表では南極への隕石落下は、実は人間がなにか実験をしていたために発生したもののようだ。だがそれもネルフ内では使徒との最初の接触といわれている。これ以降どうなるか知らないが私は使徒は人間が人類補完計画をしていた際に予期せぬ理由で生じた突然変異体で、自己増殖が可能なため次々とやってくるのではないかと考えた。また、それらが新東京にやってくるのはそこにかれらのルーツがあることを彼らが知っているため。たとえば里帰りをするような感覚か。
そしてたぶんエヴァンゲリオンもまたその計画のなかの産物である。
エヴァにのる3人組は男1人で女の子2人構成である。なるほど。あすかもえ〜とはこのことね(笑)両方にひかれていくシンジ君かれはどちらを選ぶ?
これ以降、見たらまた書くかも。でも、面白く作ってあって、ついつい次々とみてしまいました。なぞがいっぱい仕掛けてあるそうですが、それらは明かされぬまま最終回の映画を迎えるので、私の周りのオタク君(あ、私もそうなっちゃったかな?)は怒ってました。レベルとしては、物語内のなぞがすっかり明かされる、という最低レベルのほかに物語としてそれが面白くできたかどうか。I氏によると、「ひっぱるだけひっぱってなにもわかりませんでした」とのこと。かれは女の子よりもロボットが動いてうれしいそうです。なお、私がロボットというとかれは毎回人工生命体となおしてくれます。はいはい。人工生命体ですとも(笑)私は女の子見てる方がいいなあ。
そうそう使徒についてモニターに資料があらわれるとき遺伝子の塩基配列とミオグロビンというタンパク質の塩基配列の構造が示されてました。また、この原稿書いてる間にすすめたのですが、そこでディラックの海なんてでてきますが、あれは電子が真空に詰まった状態のことで、そこから励起した電子があると、エネルギー的に海に穴があくわけです。これが陽電子になるのですね。ただしファインマンの経路積分法では時間と電荷の符号をぎゃくにするだけですがね。といってもなんのことかわからないか。
物語内で科学科学といっていますが、あれらは科学ではなくて技術です。科学と技術は別物です。科学というのは通常自然の原理の探求のことをさします。科学を用いた技術とは区別する方は私にかぎらず多いです。
さあ、どこまでみれるかな。3月の公開版までは見れそうらしいですが。
というわけで私のサイトにアクセスするひとってこれを見る人いるのかしら。見ない人ばかりでしたらごめんなさい。
アップロード遅くなってごめんなさい。明日の分も昼以降になるとおもいます。あすはもうすこし本来のサイトの内容にそう内容を書きましょう。
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(1998/01/25 Sun)
ウエーベルンはキリスト教徒である。キリスト教関係のテキストによく曲をつけている。作品15に5つの宗教歌を残している。この歌詞を引用しよう。(CBS SONY ウエーベルン全集、ブーレーズ指揮他)第2曲はブレンターノの民謡集「少年の魔法の角笛」からとり、その他の歌詞は俗謡からとられたそうである。ウエーベルンについてはこちら
1 十字架
十字架、主はそれを
拷問にかかったその場まで
担いでいかねばならなくて、
マリアもその場に居合わせて
わが子イエスを悲しんで
涙さめざめ嘆き泣く。
「母上、もう泣かないで!
拷問などささやかなこと。
天国は私のものとなったのです」2 朝の歌
起きてごらん、子供たち、
明の明星があかあかと燃えているよ、
独りぽつんと英雄みたい、
世界の隅まで照らしてる。
ようこそ、おまえ、いとしい昼よ、
おまえがくれば夜は退散だ、
その天上の輝きで
やさしく胸を照らしてくれる。3 神の御名のもとに
神の御名のもとに起き上がろう、
神のみもとに近づこう、
神のみもとに歩み寄ろう、
かわゆい天使三人を
われらに授けたまえと、
天なる父にお祈りしよう。
第一の天使、われらを導き
第二の天使、われらを養い
第三の天使、われらを護り、
われらが身も心にも
災い起こらぬよう見張りたまえと。4 わが往く途も
わが往く途もはや尽き果てた。
この世よ、おまえのことも大事にしてるが、
私は天国のほうが好きなのだ。
あの世にそろそろ行かねばならぬ。
さほどの罪も負ってはいない、
門出の覚悟もっている、
神しろしめす平和と恩寵めざし
喜びいだいていざ罷らん5 いざ往け魂よ!
いざ往け、魂よ、汝が神のみもとへ、
無から汝をつくりたもうた神、
みずからの死により汝を救い、
天国の扉を開いて待ちたもう神のみもとへ。
いざ往け、洗礼によりて汝に無垢を授けたもうたかたのみもとへ。
憐れみたまい汝を
さらに良き生に受け入れたまえ。この歌詞はmizunoさんのサイト用です。
1/26 午前1:45(日曜日の晩)NHK BS第二でピーターグリーナウエイの特集をやります。短編集と「プロスペローの本」をやります。プロスペローの本は俳優ジョン・ギールグッド。監督はここでよく取り上げるピーター・グリーナウエイ。音楽はマイケルナイマンです。台本はシェークスピアです。お時間ある方はどうぞ。
リルケのドゥイノの悲歌(岩波文庫)を手に入れることができました。> minamiさん情報ありがとうございました。
(1998/01/26 Mon)
[酒と中世の修道生活 上]
あなたは酒が好き?私はビールと日本酒が好き。お酒のにおいのきつくないカクテルもすき。さて、では飲んだ後は?私は眠くなって、道路のベンチで寝こけたこともあります。さて、では中世の修道生活ではどうでしょう?アベラールとエロイーズ(岩波文庫 絶版)から抜粋。
酒は修道士にとって全然無用であることを、また、修道士たちはかつて酒をいたくおそれ、酒をまったく断つためにこれをサタンと呼んだことを、あなたたちのだれが聞いていないであろう。
アベラールはヒエロニムスの言葉を引用してエロイーズにのべている(302ページより)。
「・・・キリストの花嫁たる者は酒を毒の如く避けよと。酒類は青春に対する悪魔の第一の武器である。・・・酒と青春とは情欲の二重の竈である。なんで我々は焔に油をそそぐのか。なんで燃える体に燃料を供するのか。」
また、肉は食べない習慣だったらしいですが、肉を我慢して高い魚をたべ酒を飲むことが大事なのではなくて、暴食と酩酊に気をつけなさいということだそうです(ルカ伝21−34)。
「我々は現在肉を断ってはいる。しかし、他の食物を過剰に貪り食うとすれば、肉を断つことは我々にとって何の手柄となり得るだろうか?・・・食物ならびに酒の一定品種ではなく、その過剰を禁じ給うたのである」
というわけです。当時からフランス人はグルメだったのね。あすはこの酒効き方について。
今日もメンテナンスモード今日は結構お気に入りのアイコンを作ることができました。友人にヴァイオリンの写真を撮らせていただいたのです。音楽関係のページと読書のページの扉を整理しました。拡張を適当にしてきたのでもうぐちゃぐちゃでした。
クラシック音楽
シェーンベルク(1998/01/27 Tue)
このころから男よりも女の方が酒に強いと考えられており、その理由をアリストテレスの説として述べています。
女には水分が多い。
理由1:皮膚の円滑と光沢がこれを証明する。
理由2:身体から過剰な水分を排除する定期的浄化作用がこれを証明する。
それゆえ
豊かな水分の中にまじってその力を失い、その強さが弱められて容易に頭に影響しない。
「女の身体はしばしばの浄化作用で清められ、またその身体は多くの孔から成っていて、水分ははけ口を求めてそこからでる。この多くの孔を通して酒の蒸気は速やかに飛散する。」
間違いですね。酒は肝臓でアルデヒドに分解されます。だから肝臓の酵素の活性量で決めないといけません。実際はどうでしょう?そういう統計はでているのでしょうか?私は知りません。
もちろん今わかっているからといって当時のことをばかにするわけではないです。そうではなくて、このころの学問というのはこういうディスカッションだけで、物事を決めていくスタイルなんですね。いまだったらそういう仮説をたてたらそれを別の面から証明する必要があるのです。たとえば、最後の酒の飛散。これを測定しないと真実とは言えないわけです。もちろん当時アルコールの測定なんてしたとしても、におうとかそんなレベルだと思いますが。
それはともかくアリストテレスからこの先1000年以上たっても全然科学は進歩していないわけです。それに反して、19世紀後半からの科学、20世紀後半からの生命科学の進歩の速さと来たら・・・・もちろん科学がこの先キリスト教社会の中で黎明を迎えるわけですから、ここをけなすつもりは毛頭ありません。当時の学問の推論の仕方がわかって面白いのでここで、紹介したのです。
論文が掲載されます!
論文が二つ掲載される。一つはすでに掲載されていて、麻酔と蘇生, 33, 143-149, 1997. もう一つはColloid Polym Sci, 276, ページ未定, 1998. うれしいかって?そりゃもう、うれしい。学生時代の先生との共同執筆です。
前者は膜タンパク質である光収穫系タンパク質に麻酔薬を加え膜タンパク質の変成を検討したもの。麻酔薬はいままで、生体膜の脂質部分と膜タンパク質のどちらにきいていたかわからなかったのでそれをタンパク質だけで評価したもの。たしかに麻酔薬は膜タンパク質を変性させることがわかった。
後者は麻酔薬ではなくてアルコールを体系的にもちいてタンパク質変性との関係を調べたもの。結構時間がかかりました。現在修正中を一本かかえ、二本書き始めました。おやおや、偶然に上のアベラールのアルコールの話と一致しましたね、いや、出来過ぎですが偶然です。
(1998/01/27 Wed)
SNさんのページで高橋悠治氏に関する記述がありました。
先日エヴァンゲリオンについて書きましたが、私はまだ前半しか見てません。後半はとってもむずかしくなるようです。このようなページがありました。うーむ。はやく見てみたい。言葉だけだからおもしろいのかそれともアニメ映像で見てもおもしろくできているのか。
シンジ君の物語にロボットアニメの衣装をきせたものか、ロボットアニメにそれらしい内容を持たせるために未消化のドラマプロットをかぶせたものか。
もし前者ならロボット抜きの物語をつくって欲しい。シリアスドラマをやりたいならロボットはいらんだろう。。。。そして後者なら、、、みない。評判を聞くと「人類補完計画」だの「ぜーれ」だの「使徒」だの、くりだされた謎はなにもわからんらしい。
エヴァのいくつかのサイトをみると過剰解釈ですね〜。どうやらいろいろネタは明かされないようですがそれをいろいろ解釈しているようです。
批評の方法論としては、作品内に描かれていないことを類推していろいろ解釈するのは好きではないので、描かれてないのなら後者になるのではないかと。私がごちゃごちゃ書きたくなる作品はそれなりに描いてあって、それらの相互関連をどう形つくってあるか考えればわかるようになっている作品です。古風ですね。
ただ上に紹介したサイトは心理療法士だそうで、実際にシンジ君のような子供をあいてにカウンセリングされているようです。まあ、心理学用語がいかに危険かという意見もあるということをこのサイトをお読みになっている人はご存じだとおもいますが(ホイジンガによるフロイト批判)。
私としては批評論とかが存在してしまう今日、メタ批評できる人の書いた批評で読んでみたいものです。筒井康隆の一杯のかけそば批評とかね。あれは批評のパロディだったけど。
というのはアニメ系のかたの引用テクストってやっぱりアニメ(笑)もっといろいろあるのに。交錯するテクストの快楽っていうやつがないんです(意味不明)。
最近のたくさんある批評論をこれらにどう適用できるのだろうか?というのはやっぱりパロディとしては面白いよね。逆にパロディにしかならないのを悲しむべきだと思うのだけれど。
そうそう、オタク心をくすぐるのはアスカちゃんだとおもったのですがレイちゃんのほうが圧倒的に人気が高いそうです。だめだめ、シンジ君はかまってくれる人でないと。ぼくはよくわかる(笑)。
あなたはみた?
たまには専門分野のことを文献紹介として書き足しておきました。
(1998/01/29 Thur)
窓の杜といえば、マックユーザはすったもんだあったことを知ってる人も多いはず。年間ソフト大賞でMSIE4.0が選ばれたことについてマック系のサイトからコメントがでてました。
がんばれ!!ゲイツ君(外部サイト)
めのうさん(外部サイト)
ホイジンガの補遺を書こうと思ったんですが、特に、彼のオプティミストだという側面について「朝の影の中に」の序章と最終章を紹介したいと考えていたのです。今は興味が散漫になっているのと、時間をまとまってとれないため書けない状態です。ホイジンガ先生は文明史家として優れた先生でもあるわけですが中世史家としても知られています。ただ、最近は歴史学の進展著しく最近の歴史の本に必ずしもでてきているわけでもないようです。ここら辺はそこまでのコミットはないのでよくわかりません。
中世史家のホイジンガ先生は「中世の秋」という本を書かれているのですが、その本にでてくる画像を集めたものがカノッサ氏のサイトにあります。さすがに世界人物案内にはホイジンガはなかったです。え?たまには自分でかけって。。。
ところでカノッサさん最近更新ないですがお元気でしょうか?きっとまたなにかたくらんでいるのでしょう(笑)。
そうなんですよね(SNさんのさいと)。クラシック音楽と演歌の社会的違いで、クラシック音楽をきくのがすきですというと頭が良さそうとかお金持ちそうとかいわれます。演歌だったらそういうことはいわれないですよね。でも個人にとっては気晴らしだったら同じ役割ですよね。でもそれを批判ととらえるのか、ポストモダンの価値相対主義のなかでとらえるのか。もし批判ととらえるなら鑑賞者としてどのような選択肢があるのか。
>余暇と仕事が切り離されているのがそもそもおかしいんですよね。
アドルノのミニマ・モラリアにはニーチェを引き合いに出して余暇と仕事について辛辣に述べています。でも理想的な人間活動としての労働がなりたたないのが通常の職種ですよね。
そして実践というものをどうとらえるか。アドルノ以降実践に関してはとても慎重で、むしろプラチック(実際)の分析から抜け出せないでいると思いますが、最近の現代思想はどうなってるんでしょうか?ちょっと前だと、デリダ、フーコー、ドゥールーズといった面々の解説記事がでていましたが最近は見てないのです。
日比さんのシューベルトの「魂の野道」第3章その2をアップしました。どうぞ!
日比さん掲示板でブラームスについてコメント出しておきました。貴兄はブラームス好き?ではひとことどうですか?
(1997/01/30 Fri)
今日は水野さんのウエーベルン最終回。ウエーベルン全集と参考文献&関連リンクです。
1988年11月28日
まずは、導入としてF. Nietzscheの引用を許してほしい。
ー全体ではなく部分の中で強力な科学精神ー 切り離された最も小さい科学の領域は、純粋に客観的に取り扱われる。ところが一般的な大きい科学は、全体として見るとなんのために?どんな利益のために?という問いーいうまでもなく至って客観的でない問いーを口に出す。こうして利益を顧慮するために科学は全体としては部分の場合より非個人的に扱われないのである。
ところで知のピラミッド全体の頂点としての哲学の場合となると、思わずも認識に最高の利益があるものと認めようとする魂胆を潜めている。だからあらゆる哲学の中にはあれほど多量の天翔る形而上学があり、つまらなく見える物理学の解決に対するあれほどの毛嫌いがあるのだ。なぜなら生に対する認識の意義はできる限り大きく見えるべきものだから。ここに科学の個々の分野と哲学との間の敵対関係がある。後者は芸術の欲するのと同じこと、つまり生活と行動にできる限りの深さと意義を与えようと欲する。前者にあっては認識を求めるだけでそれ以上なにも求めないーたとえどんな結果になろうとも。
その手のうちで哲学を認識弁護論にしてしまわなかったような哲学者は今までのところまだ、一人としていなかった。認識に最高有用性を認めねばならぬという、少なくともこの一点では、どんな哲学者も楽天的である。彼らはみな論理の暴虐に服している。そしてこの論理というやつはその本質上楽天論なのである。
(つづく1/9
その2へ)
(1998/01/31 Sat)
SNさんにせがんでクリントンスキャンダルについて書いていただいた。ありがとうございました。ヨーロッパの反応、アメリカの大統領の象徴的役割など参考になりました。
私の疑問:なぜ、不倫したかどうか、問われていないのか?もちろん偽証を強要したのは犯罪だが、それよりももし日本人だったら不倫についての感傷的な報道がなされるのではないのか?これはアメリカから日本に入ってきたときマスコミにフィルターがかかっているかどうか?アメリカの報道はこういうものなのか?
ブレーズのマーラー交響曲第9番を購入。ウエーベルンのようなマーラーといえばいいのか。ウエーベルンが指揮したマーラーといったらいいのか。音の洪水の中で音は完全に沈黙している。
マーラーの交響曲を聴くときいつもおそわれるのはこれはなんなんだろうか?という思いである。
マーラーの第九交響曲はきわめて異例で抽象的に私の心の奥底を直撃する。いったい最初の音から最後の音まで心がこれほどふるえて止まらないのはなぜだろうか?
第九交響曲の直前に書かれた大地の歌。それすらここにはとりこまれすっかり消化されてしまう(第1&4楽章)。ヨハンシュトラウスの人生は楽しくの引用。
これほど地域性をはぎ取られ、ベートーベンよりも晦渋なレントラーがあったろうか(第2楽章)
第4楽章で料理されるまさに前座としてあばれまわる第3楽章。
異質なブロックが組み合わされもはや運命というものがそこにあるのだと思わざるをえない第4楽章。ベートーベンの弦楽四重奏の後期様式を思い出させないか?
音楽を聴く楽しみというものはすっかりはぎ取られている。あるのは音楽的な美しさであって、しかもそれは20世紀はじめを思い出させるのに十分な古くささを持ち合わせている。
第4楽章はなにより「大地の歌」の対局となるべき天上の音楽なのである。だがこの天上にあるのは喜びではなく厳しい美しさなのである。
指揮者ブレーズはかつての指揮法に戻ったような気がする。ここまでクールな演奏をCDで残したろうか?一音一音、音を慈しみんでいる様子がよくわかる。
考えてみればユダヤ人が19世紀の香りをたっぷりつめこんで20世紀にはいるころ作曲した曲をフランス人が好んで演奏し、アメリカくんだりでドイツグラモフォンというドイツ?の資本をたっぷりつぎ込み録音しているのである。わらっちゃうじゃないですか?
マーラーの曲は無国籍音楽ともいえる側面をもっている。マーラーはボヘミアの生まれでユダヤ系でありながらカソリックに改宗。音楽の都ウイーンをおわれている。彼には3重の意味(生活、宗教、音楽界)で祖国から切り離されている。
ブレーズは交響曲5&6番はウイーンフィルで録音しているが7番からクリーブランドで録音している。このことは7番以降真のインタナショナル音楽だと象徴的にいっているようなものだが、たぶんスケジュールとかのつごうだろう。
ブレーズは12音技法をルネ・レイボヴィッツにならっているが、最後に”いかさまやろう”といってレイボヴィッツのところを飛び出した後はメシアンの生徒である。
ブレーズはシェーンベルクが死んだとき(1951年アメリカ)、”シェーンベルクは死んだ”という論文を書いて物議をかもした。このことは”ブレーズは死んだ”という論文を自分が死んだとき誰かに書いてもらいたかったためではないかというのが私の説。
ブレーズは冷たい指揮をすることで有名だった。でもそれでいいのだ。音楽と一緒に精神荒廃を起こしたくなければ音楽に感情をこめるのはやめるべきだ。
ブレーズはテクノロジーが大好き。フランス音響研究所(正式名称わすれた)IRCAMのボスだった。でも作曲もつづけていたし、アンサンブルアンテルコンタンポラン(現代曲を演奏する団体とでも訳すのかな)を指揮して演奏活動もしていた。CD-ROMが教育に必要だといっていたしレポンではNEXT STEPをつかってリアライゼーションを行っていた。
ブレーズはマーラーの録音は正式にはほとんどはじめて。出世作はストラヴィンスキー春の祭典。だが彼の友人シュトックハウゼンは、ブレーズの指揮は正確なだけ。という。バーンスタインは彼が客演か後任できていたとき、半音階をききわけるブレーズを前に、オーケストラにおれはブレーズじゃないからな。と言い訳していたという。
ブレーズはIRCAMの所長をしていたぐらいで、とても勤勉。天才は勤勉だからこそ作品を残せるのだ。
ブレーズは渡辺護氏とのインタビューで、作曲と指揮両方やるこつは?ときかれて、才能でしょうね。としゃあしゃあと答えている。
ブレーズの笑顔はいまや好々爺。カラヤンかバーンスタインが生きていたらグラモフォンの中でやっぱり晦渋な顔をしていたと思う。
ムッシュ・ブレーズ。作曲をしてくれ。いい曲だけが次世代にきかれるのだ。ぼくはぽひょひょひょ〜んという音は嫌いだからね。使わないでおくれ。
マーラーよ。あなたの音楽は21世紀でもきかれる。あなたの時代はこずにすでにあなたは古典作曲家になってしまったのだよ。ぼくらはあなたの音楽にNeue Musikだけでなく19世紀を聴いてしまう。
ps. B. A. Zimmermanは私が行くことのできたおみせでは「兵士たち」しか売ってませんでした。それで今回はパス。
シェーンベルク、アドルノ、ケント・ナガノがかたるマーラー交響曲第9番