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(1997/11/10 Mon)
ホイジンガの「中世の秋」(堀越孝一訳、中公文庫)には中世の詩人兼音楽家ギョーム・ド・マショー(1300-1377)の「真実の物語」の簡単な紹介がある(上、IX 愛の作法、pp243)。なんとマショーはすかさずこの物語に曲をつけている。作曲までしてしまったとはホイジンガは教えてくれなかった。
それはCDで手に入る。Naxos 8.55 3833, マショー ノートルダム・ミサに録音されている。もちろん全曲ではなく抜粋ではあるが。
この物語はホイジンガがいうようにゲーテとベッティーナの物語によくにている。60近いじいさんになってしまった詩人兼作曲家のマショーにペロンヌという18歳の少女が詩をおくり往復詩書簡を編もうとする。マショーはすっかりその気になる。
ホイジンガはエピソードを彼女の肖像画、サン・ドニへの巡礼旅行での一室、彼女からのお別れのときの彼の態度、桜の下でのチュー事件などを紹介している。
ホイジンガは書いている:
当時の風紀、生活感情について教えてくれる点において、「真実なる物語の書」の右に出る恋愛文学はない。この若い娘が、だれはばかることなく享受し、しかもスキャンダルをひきおこすことのなかった自由気ままさ。義妹だろうが、侍女だろうが、秘書だろうが、だれがいようとあたりかまわず、どんな内密のことまでも平気でさらけ出す、てんでナイーブな無邪気さ。
この物語がありきたり?になってしまうのはその後彼女は結婚相手をみつけてバイバイしているのだ。
そしてさいごにホイジンガはきっぱりとしたいささかシニカルな口調でいっている:
・・・なにか私たちを感動させるものがある。・・・ただ、彼と自分自身の心とをもてあそんでいたにすぎなかったのだということに気付かなかったゆえんなのである。
CDの曲のタイトルだけ書いておこう:
泣いてください、佳き人よ 星を数えられないように 心なく苦しみ 希望のレ 私はあなたに忘れ去られたので 十七、五、十三、十四、十五NaxosのCDは1000円弱。でもこれは歌詞カードがフランス語と英語です。
どんな曲かって?ようかけません(笑)
ゴシック期の音楽については以前書きました。
こういう具体的な愛の物語がともなうととたんに私は興味がでてきます。でばがめじゃないのか?という突っ込みはなしね。
ああっ!ホイジンガの年表を見ると1935年の講演は「アベラール」だという。全集に収められている。日本語訳されてるのだろうか?
というわけでは今日は半日かけて中世の秋の半分ほどをよんで楽しかったけどつかれた。
学会の準備もしないとそろそろやばいな。
(1997/11/9 Sun)
そういうケージは比較的初期には楽譜に固定的な音符をかきこんでいた。
その貴重な曲はプリペアードピアノのためのソナタとインターリュード、弦楽四重奏などがある。
どの曲もセンスは都会的である。曲のただよう雰囲気はビルの谷間からのぞく青空であったり、徹夜あけのコーヒーでみる街の景色がにあう。
どの電子音楽よりもそう言う雰囲気がするのですがいかがでしょう?
パンフレットにはケージのこの作品の序文が訳されている:タイトルの<<4部の弦楽四重奏曲>>とは、四季のことである。ただし前半のふたつの楽章は、季節ばかりでなく、場所とも関連している。すなわち第一楽章はフランスの夏を表し、第二楽章はアメリカの秋を表現しているのである。第三楽章、および第四楽章は曲のテーマとも関係しており、冬がカノンとして、春がクォドリベッドとして表される。全曲を通してテンポは一定だが、演奏時間は楽章ごとに異なる。この作品は、いわば無伴奏の一本の旋律からなるもので、個別音、複音、三和音、音群が音響音階を形成する。そのおのおのの演奏には、ひとつ、ないしは複数の楽器が用いられる。弦はヴィヴラートなしで奏すること。また、どの弦がどの音を奏するかは、精確に期してある。リズム構造は2 ・1/2-1・1/2、2-3、6-5、 1/2-1・1/2である
この曲のノン・ヴィヴラートのひびきは漂う感覚をかもしだすのに成功している。メロディらしいものはない。ただメロディのきれっぱしがくりかえし生命を演じ最後は息を吹き返す。
ケージのいうように”無伴奏の一本の旋律からなる”というように、たしかに一時になる音はひとつである。このようにいってしまうとウェーベルンのような音楽を想像してしまうが彼の音楽のとはちがって音と音の間隔はつまっておりぽつぽつとした曲ではない。また、どぎつい音色はここでは聞かれない。また弦楽器それぞれの音触を強調するようなこともない。
季節感の表現に成功しているかといわれたらたぶんわからないと思う。いったい夏からはじめる四季があるだろうか?これはケージが東洋的な季節にこめた意味合いを表現しためかもしれない。春は創造の意味が込められているのである。従来のR.シュトラウスのような西洋の表題音楽だったらその季節に関係のある事柄を音にかえて表現すると考えられるが、そのような具体的方法はとってない。
冬の楽章の瞑想的雰囲気は10分以上続くのでこちらの集中力が欠けがちだが、最後の春の楽章のもつ生命力の充溢をおもわせる雰囲気はケージが(記譜固定式の)すばらしい作曲家であることをしめしている。
このCDのなかで一番やすらかに聞ける曲なのでこの曲がききやすい曲だとか静かな曲だといままで信じてきた。しかし、これをシンポジウムの休憩中のホールで流していいか、というつもりできいたみたがやっぱり流せないと判断した。この曲のもつ瞑想的なしずけさがみせかけだけで、ときおりみせる表現への欲求がそれを破っているのかもしれないとかんじた。ただ、このCDの他の曲は脳味噌がとびちるような激しい曲ではある。このCDの最後の曲にしたのは正解(笑)
来月はソナタとインターリュードを買おう。
御批判、コメント、情報はこちら。
いつもアップは午前零時〜3時にしていたのですが、昨日、爆睡のため当日のお昼にあっぷしました。
カノッサさんが中世ヨーロッパにおける公と個についてこたえてくれました。いつもありがとうございます。
(1997/11/8 Sat)
ジョン・ケージという作曲家がいるが知っている人はどれくらい?20世紀の中盤の音楽家で彼の影響をうけなかった作曲家はいないともいえるくらい。かのブーレーズも影響をうけて”管理された偶然性”なんてへんてこなものをこしらえた。
一言でいってしまえば音をならす。そのことを意味づけるよりはなっている音を美しいと思いましょうという感じ。なぜ鳴っている音が美しいか?それはものには神様がやどっていてそのものを叩くと神様が音をだすという考えがあったため。これは東洋思想である(いったいどれというつっこみはさておき)。音楽的な側面はエリック・サティのようなある意味で異端な作曲家の結果を取り込もうとしていた。
音楽はコンサート会場できかれるものか?BGM的な音楽の到来がいよいよ可能になった。これはもちろんコンサート会場以外で再生できるメディアが可能にしたのだけれど。
しかしこれは逆にいうとかかっていてもいなくてもどうでもいい曲をつくることにならないだろうか?私自身はよくわからない。ではモーツアルトやベートーベン、これを聞きながら新聞をよんだり御飯をたべたり、ひととはなしたり、そういうことが可能だなんてかの作曲家達は思いもよらないだろう。ついでにいえば、自動販売機でジュースをかうとシンセサイザーでモーツアルトがきこえるのをかれがきいたらなんとおもうだろうか?たぶんあらたに作曲してくれるだろう。それはきっとトリルが魅力的なモーツアルト節だろう(笑)。
ケージが有名なのは4分33秒という、楽器をいっさい演奏しない曲のせいだろう。
演奏者は舞台に出るそして楽器をかたずけ、4分33秒したら楽器を演奏できる状態にして演奏をおわる。
これは初演がピアノだったために、ピアノのふたをしめ、4分33秒したら、ふたをあけるという曲になってしまった。
この曲はなんなのか?これは楽器を演奏しなくても音がなっている:椅子がきーきーいったり、ひそひそいったり、せきばらいをしたり。これらの音を音と認識しましょう。なぜなら物の音とは、ものの神様の存在をあらわす音なのだから。
そうだろうか?
このこたえはだれにもだせない。ただこういう音楽はすでにケージによってつくられてしまった。
あるときはラジオを10台だか用意して、コンサートの時に譜面通りにラジオをつけたり消したりする曲をつくった。もちろん、えんそうするたびにラジオの内容が変わるのだから曲はかわる。
これってインターネットのHTMLタグの引用の世界だよね。今気がつく。
というヘんな曲?をつくったのだがポピュラーで評価されているブライアン・イーノの環境音楽のさきがけである(とおもう)。
(1997/11/07 Fri)
Site Norioさんの筆が冴えている原稿を発見:ベスト版の流行について
この原稿の中には私も共感するやるせなさをうまく表現している。たとえばこの表現(引用させていただきます)
・・・自分の凡庸さ加減には、いい加減、高校生になる頃には誰もが気がつく。繰り返される試験の点数、繰り返される体力テストやさまざまな競争が数でそれを示してくれる。
・・・「協調性」は今や押しつけられたのではなく、自ら選択されたのだ。
下のパラグラフの結論のまえに小室ミュージックへの言及があります。その種の表現は故尾崎 豊のような歌手でも同様な感覚だったと思いませんか?私自身はフーコーによってうまく折り合いがつくとおもうのですがいかがでしょうか?おさえておくという現象への警告はアドルノのバッハへの敬愛にも表れている。みなさまはバッハ氏の音楽を聴くでしょうか?そのときどのようにバッハを聴いていますか?このバッハ氏の音楽についてアドルノはこのように述べています。
”信じることも自分で決めることもやめ、あるいはもうその力がなくなって、権威を追い求める人々は安全に守られているのはよいことだというわけで、すべてバッハによりかかる。(バッハをその愛好者から守る/プリズメン/渡辺&三原氏訳)”
ところでカノッサさん:ヨーロッパ中世には公はなくて個しかないというのをほりさげていってほしいなと思うのですが>自分で本をよめって?
昨日&今日は職場でシンポジウムモード。私はビデオ撮影&会場ライトがかり。で、会場の休憩中はモーツアルトのクラリネット5重奏。エンシェントミージック。オワゾリール。美しい。なぜこんなにハッピーな気持ちになれるのだろう?ただソナタとフーガ(カノン)の入り交じった不思議な音楽であると認識してモチーフをおっかける必要があって、縦の和声で曲をきいてるだけじゃだめ。
(1997/11/6 Thur)
今日の原稿は昨日の続き
アベラールとエロイーズがどのように愛しあっていたか、その欲望もまた語られる。
アベラールからエロイーズへの手紙:・・・あなたも知っている通り、我々の結婚の誓いの後、あなたがアルジャントゥイユの修道院で修道女達と居を共にしていたときに、ある日私はこっそりとあなたを訪れた。そして、其処で、私の制しきれぬ激情があなたと共になにをしたであろうか。しかもそれは、他に隠れる所がなかったままに、実に修道院の食堂の一隅においてであった。敢えていう、当時のこの厚かましい行いは、童貞女マリヤにささげられた最も尊厳な場所においてなされたのであった。・・・
どうですか?これが12世紀のお寺で、しかも知性のはるか高みにいる二人によってなされたことですよ!不埒な妄想を巻き起こさずにはいられないでしょう(笑)。これの映画化はなぜされないんだろう。そしてなぜ岩波は絶版。
この書簡集は後半は急展開し修道院の規則だとかキリスト教の教義だとかがわんさかでてきて、聖書の引用や4世紀ころのヒエロニムスの引用がでてくる。わたしがここでこれらを引用したからといって全編こういうことばかり書いてあるわけではない。逆にそういう理屈をくどくどかいているところにこのような場面がわりこんでくると面喰らってしまう。
中世ロマネスク教会の彫刻のホームページを作成しているわたしにはとても興味深い物語である。私は人間が何をみて何を考えたかとかどう考えたかにものすごく興味があるのです。さらにいえばなぜそう考えたか、そう感じたかがわかるとさらに楽しい。
(1997/11/05 Wed)
アベラールは12世紀のお坊さんで実在の人物。エロイーズのみもとははっきりしないが、パリの参議の叔父をもちそこに住んでいた、それ以前は修道院で育てられた。アベラールは当時のキリスト教神学を理性によって裏づけようとした人物で自分の師匠をも論破してのしあがった天災。あ、いや、失礼、天才だった。これまで研究一本やりだったかれはふと快楽に身をひたしたくなる。そのターゲットとして、エロイーズがねらわれた。なぜ彼女か?
があげられる。手始めに彼女の叔父の家に下宿させてもらった。その叔父は教育熱心だったのでかれは家庭教師をかってでる。もちろん先生の教えをまもらない悪い子には折檻してもいいのである。
アベラールは冷酷かつ合理的にストーカーを演じたのである。
しかし運命的な出合いをした二人はこうなる。二人はどんどん愛にのめりこみ愛のあらゆる相をあじわったという。知らぬは亭主ばかりなりでようやく叔父の知るところになる。叔父は激怒する。愛に狂ったアベラールはエロイーズと結婚するという。ところがこれを秘密にするというのである。いったんこの条件をのんだ叔父は二人の結婚をみとめる。しかし彼はこれを口外するようになる。この結婚は二人にとって不名誉であるためにふたりは世間体をとりつくろうためにエロイーズを修道院にやる。ここら辺は釈然としないがこの理由はこれだけで本の1〜2章がかけてしまう(アベラールとエロイーズ、E、ジルソン、みすず書房)ので次回に送る。
アベラールがエロイーズをすてたと勘違いしておこった叔父は下男にアベラールの寝込みを襲い急所をdeleteさせる。
ここで一貫していたのはアベラールもエロイーズもお互いに愛しあっていたことだ。アベラールはエロイーズと結婚したくてたまらなかった。エロイーズは逆に妾で娼婦と呼んでほしかったという。・・・その方が甘美だから・・・
今日はここまでにします。断片的に書いていって最後にまとめます。それがあてにならないのは、毎日読んでくれているあなた、がよく知っています(笑)
ラサールカルテットのルトスワフスキ、ペンデレツキ、黛、ケージのCDでてきました。うれしい。CDケースの奥にちょっとずれてはいっていたので気が付きませんでした。ラサールのこのころの演奏はめちゃくちゃ光ってますね。弦のシャープな音色。さえたリズム感。全体の曲づくりのうまさにおいてこのカルテットの演奏はすてがたいですね!!もうすぐでケージが始まります。ケージの曲についてはあした書きましょう。(ばりばりの現代曲です)ケージのプリペアドピアノとインターリュードもほしいなあ。どのピアニストがおすすめ?
(1997/11/4 Tue)
12世紀の愛の記録である「アベラールとエロイーズ」は時々どきりとする愛の表現をふくんでいるが、それだけをとりだして強調するのは物語の性格をねじ曲げているのかもしれない。フロイトの夢判断にでてくる女性よりはダイレクトに語っていてよしとしよう。それよりもなによりも甘美なのでお許し願いたい。
第4章にはエロイーズの独白があって、
・・・ところで、私たちが一緒に味わったあの愛の快楽は、私にとってとても甘美であり、私はそれを悔いる気にはなれませんし、また、記憶から消し去ることも出来ないのです。どちらの方へ振り向いても、それは常に私の目の前に押しかかり、私を欲望にそそります。眠っている時でも、その幻像は容赦なく私に迫ってまいります。他の時より一層純粋にお祈りをしなくてはならぬミサの盛儀に際してさえも、その歓楽の放縦な映像が憐れな私の魂をすっかりとりこにしてしまい、私はお祈りに専心するよりは恥ずべき思いに耽るのでございます。犯した罪を嘆かなくてはならない私ですのに、かえって失われたものへ焦がれているのでございます。
と、今どきのマンガのプロットにさえできそうなほどの激情が込められている。これを書いたのは12世紀の修道女である。アベラールとのわずかな愛の期間をへてふたりははなればなれになっている。しかも事情があって、男(アベラール)は大切なものがない。
最近気がついたのだが遠藤周作氏の「私がすてた女」はこのアベラールとエロイーズの変型である。もちろん後者は往復書簡ではく、完全に同一なわけではなく役割の割り振りもことなるが、類似性が高い。mireiさんの情報によれば遠藤周作氏はカトリックらしい。この物語を知らないわけはないと思う。どこまで意識しているかは別としてこれをモチーフにしていると考える。たしかにあの小説は信仰への一縷ののぞみというものがこめられていてただの筋書きプロット小説ではない。
書簡文学としては宮本 輝氏の「錦繍」が懐かしいが、読んだ方いるだろうか。あれは浮気した男ともとの奥さんとの数年ぶりの文通で、浮気した当時のこととか二人の現在についてがかたられる。この小説にはちょっとした思い出があるのだがそれは内緒にしておこう。
今日聞いたCD
いまは最後のバッハ。ジャンルめちゃくちゃ (笑)
(1997/11/3 Mon)
かぶとやま交響楽団の第18回定期演奏会@伊丹アイフォニックホールを聞いた。曲は
ベートーベンの交響曲第8番ヘ長調作品93 スメタナ「我が祖国」より第4曲 「ボヘミアの森と草原から」より第6曲「ブラニーク」 シベリウス 交響曲第5番変ホ長調 作品82オーケストラの編成はヴァイオリン4プルート、2管編成
で私の好きな第二ヴァイオリンが舞台に向かって右にでている配置方法であった。通常の配置から見てチェロと第二ヴァイオリンの位置が入れ代わった配置である。
ベートーベン(1770.12.16-1827.3.26)の交響曲第8番は1813年に作曲された。初演はヴイーン。この頃ヨーロッパではナポレオンをエルバ島に島流しした後の領土配分についてヨーロッパ列強(ロシア、プロイセン、オーストリア、イギリス等)でヴィーンで会議がもたれていた頃である。
この曲は交響曲第7番と第9番の間に挟まれて曲の時間も短いせいか地味な印象を受ける曲だ。かぶとやま交響楽団のパンフレットによるとベートーベンはこの第八番に第七番以上の自信をもっていたそうである。
その内的秩序における集中力と凝縮力はまさにベートーベンならではの考える音楽に仕上がっている。ベートーベンの交響曲はどれも第一楽章がすばらしいがこの曲も例外ではない。第二楽章のリリックで楽しい雰囲気はパパハイドンを思い起こさせる。第三楽章もまた楽しい楽章だ。第四楽章ではふたたびデモーニッシュな側面を見ることができる。
ベートーベンの交響曲がまさに古典派だと言えるのは基本モチーフが組み合わさってどんどん展開していくところで、その展開のしかたがロマンティックな感情面での展開ではなくて統制された美しさを感じさせる点だ。
演奏終了時にはあらためてこの曲はいい曲だと思った。
他の曲も楽しくきけた。どちらの曲もはじめてだった。スメタナの曲が元気のある曲だった。
ヨーロッパ中世の歴史ものをweb上に展開しているカノッサさんのページインタネットの雑誌「NetN@vi」に載ってること確認しました。さすがですね!!あしたは「アベラールとエロイーズ」の事書きますね。
CD屋さんによる。ブーレーズのメシアンがでていた。欲しい。いまなら安い。七つの俳諧、鳥の目覚めともう一曲がカップリングされてました。ブーレーズもそろそろレポンを完成させて欲しいですね。メシアンのキリスト誕生の20のまなざし、ピーターゼルキンのものがでてました。ほしい!!でもがまん。今週は中世のものにしてみました。これで中世ものは全部で5枚。ブレーズのメシアンはやっぱ買おうかな。。。。ケージの弦楽四重奏みあたらない。こんどに見送ります。あのCDどこいっちゃんたんでしょうね〜。シェーンベルクの「ピエロ・・・」書こうと考えていますが、なにから書いていいのやら。
1997/11/2 (Sun)
昨日は京都の鞍馬寺に行ってきました。京都の出町柳駅から10/4登場の新車両「きらら」にのっていきました。
鞍馬で下車して鞍馬寺へ。愛山料200円。砂利道をあるいて門を2つほどくぐり由岐神社へ。この神社は新しい建物だが彫刻などしてあってなかなかよい。九十九折りの坂道をのぼる。この坂道は清少納言が「近くて遠きもの」としてとりあげたらしい。
本殿は新しい鉄筋建物。ちょっとがっかり。ここには有名な狛犬ならぬ狛虎がいる。いままであまりやったことのない護摩木なんぞ書いてみた。もちろん心願成就。もう一枚書いてホームページ毎日更新と書こうかとおもったが仏様はホームページがなにか知らないと考えてやめた。:-) 結構まじでお祈りしている方がみえて、わたしなんぞ適当宗教適当信者だなあ、とおもいつつ、仏様をさがす。見えない。まあいいや。
少し歩くと宝物館があった。当然入る。
などをみた。前者は額に手をあて遠くを見張っている。これは困っている人をさがして助けるためのパトロールをしているよ。というほどの意味である。もちろん困ったときに表れてくれたことなんぞ一度も無い。平安期末期の作。やや硬質な表現。平安末期には布の柔らかさをだそうとするのが多い気がしたが毘沙門天だからいらないか。
服のドレープが全体の美しさを引き立てていたのは聖観音像。鎌倉時代。
ここの宝物館にあったものはいずれも表情がやけになまなましい。
他に与謝野晶子関係の資料がある。こういう人にはコンピュータがあろうがなかろう著作するパワーがあるのだなぁ、と妙に感心した。彼女の所有した源氏物語の木彫り版の源氏物語の本をみるが草書のため全くよめず。パリ外遊時の写真帳なぞも展示してあった。
奥の院へ。
注意書き:最近剃髪して作務衣をきた男が僧侶のふりをして馴れ馴れしく話し掛けてくる男が出没しています。鞍馬寺にはななんの関係もございません。とくに女性の一人歩きには気をつけて下さい。
しばし、う〜む。
木の根道にでる。ここは木の根が下に岩盤があるためにもぐりきれず地上をのたうちまわっている図がみれる。
奥の院の魔王殿には650万年前に金星より地球の霊王として天下った神だそうだ。
もはや黙るしかない。
山道をくだって川にそって貴船神社へ。灯篭のならんだ参道が美しい。ここは平安遷都以前からの古神社で、遷都後は加茂川の水源にあたるため水を司る神としてまつられてきたそうだ。この川は恋の川でもあるそうだ。和泉式部のが旦那とうまく行かなくなったときここへきてうたったら奥からきこえてきてそんなにシリアスになりなさんな。と神社のおくからいわれたのち、旦那となかがもどったという。6月には螢の乱舞をみることもできるという。川にそって料理旅館がある。喫茶店でコーヒーを飲み、貴船口へ叡山電鉄で帰った。
最後に:紅葉はまだでした。来週くらいですね。
第二次世界大戦前にはファシズム批判としていくつも名著がだされた。どれをご存じだろうか?たとえばホイジンガの「朝の陰の中に」や、スペインでのオルテガの「大衆の反逆」、そしてエーリッヒ・フロムの「自由からの闘争」がある。最後のフロムのレヴューはSite Norioさんのsiteにある。これを是非読んでほしい。我々はあることがらにであったときはたして自分の意思を尊重した行動をとるかどうか?このような指摘がすでに第二次大戦前に指摘されているにもかかわらず、われわれはそこからほとんどなにも変わっていない。
Siteさんはオタクのことにも言及されている。この定義によれば私はほぼおたくといってよい。野球を見ないし、相撲もみない。オリンピックがはじまってもほとんど興味をもったことがない。さすがにオリンピックのときには興味を持ったふりをしようとはするが。まわりの心得た人たちは私がそういう性向の人間であることを知っているのでもはやなにもいわない。
私に限らず情報を制限して、オタク化しているのは、今日情報が多すぎることにもよるとおもう。20世紀初頭の社会論では情報論の概念はない。それどころかいまだに多すぎる情報をどう整理していくかは解決されていない。もちろん重要な情報かどうかという質の判断も問われている。あたかもプッシュ型のサービスも本格化しようとしている。もちろんこれら大量の情報を処理するマシーンは出来てきたけども、それを受け入れる我々のほうは全然かわっちゃいないのだからどうしようもない。
オタクを専門化と置き換えてしまえば大衆論と同じ結論となる。これこそ文明社会の小児病であるとホイジンガがよび、文明の中の野蛮といったオルテガの主張である。その状況は変わっていない。趣味層は決してプロでもないし、第一オルテガにいわせればプロこそ大衆人の見本である。無知な大衆というイメージはこのころすでに塗り替えられようとされた。プロは社会的需要があったためにまがりなりにも蔑称では呼ばれなかったが、エコノミックスのサイクルにはいらない趣味人ゆえにオタクは蔑称のひびきもあわせもっている。皆様は、オタクだね君は、といわれたら、いえそうではありません。と即座に否定したいのではないでしょうか?最近はマニアということばにそのニュアンスは置き換わったような気もするが。
今年の2月ごろに書いたブラームスについては閉鎖する。今読むとあまりのくだらなさに憤激する。もっと早く気がつけよ>自分。出直します。しかしやっぱりブラームスの季節である。クラリネットの曲が美しくひびいてます。ブラームス後期のクラリネットといえばクラリネット五重奏曲とクラリネットソナタの3曲です。クラリネットのおすすめは自らクラリネットふきである重信さんのサイトでお勧めを見つけることができます。今私の部屋ではHarold Wright (Clarinet)とPeter Serkin (piano)でBoston RecordsのCDがかかっています。ウラッハ&ウイーンコンツェルトハウスのクラリネット5重奏曲も素敵です。一番よく聞くのはNAXOSのものです。ブラームスがこの曲を書いたそのときマーラーやシェーンベルクはと考えると、いかにあのころのウイーンの文化が成熟していたか納得できますよね。