新着情報 飯田のHPにもどる
| 過去の新着情報
ここは古いです。表紙から新着情報にどうぞ。
1997/10/09
歴史に興味ある人ようのメモ(つまり私用)カノッサさんへのリンク
うーん私のページのしかるべきところにはいちせねば。
フロワサールの自筆稿はのこっているんだろうか?このころは羊皮紙だったのだろうか?
昨日アイヌ神謡集のことをふれましたが、いい解説ページみつけました。
アルバンベルクカルテットのベートーベン大フーガのレーザーディスクをみる。うーんすごい。カップリングはラズモフスキーNo2この曲はあるいみで表現主義をさきどりしている。それだけ心のなかに沈溺する内向性をもっている。そしてそのはげしさ。
今日は高校の同窓会の役員会の発送作業におわれています。webつくりまで担当している。
今日は昨年度の私の教え子が研究所にやってきてくれました。それで飲みにいきました。彼のデータで論文を書いているのです。卒業した人が私を覚えていてくれたのはうれしいかぎりです。
アベラールとエロイーズ、岩波の文庫にオリジナルがあったらしいが今は絶版。解説本ならあった。
だかで古本屋情報を検索したらなんと1500円だったので注文したのだが売り切れと連絡がはいたった。残念。
秋田大学でマルクスアウレリウスの「自省録」を買ってつらつら読んでます。
人が考えたこととかを共に味わえるというのが私の読書のよろこびです。
自省録なんて、なんと2000年近く前の本!
アベラールとエロイーズも900年前のどたばた刃傷劇、で後半は敬虔なカトリックな話らしい。このころ日本の文学事情は、、、枕草子、源氏物語とかですかね。
(カノッサさんへの手紙のエディットです。)
アベラールとエロイーズをさがしていたとき「アイヌ神謡集」をみつけた。ひだりにアイヌ語(?)がローマ字でかかれ右に日本語標準語で訳がかかれている。日本語をいまちらりとよんでいた。日本語がやけにうつくしい。と感心していたら金田一京介もおわりにそうかいていた。著者の知里幸恵さんは20ぐらいで病気でなくなったそうだ。この本はすごい。(ちょっと絶句してしまってこれいじょうかけない。)
マックの話題
サイバードッグ2.0Jを使用後システムを再起動したり、終了するときエラー10がでたりしてうまく再起動ができなかった。
なぜかシステムを立ち上げてすぐサイバードッグをたちあげるとよくおこります。サイバードッグを終了したあともfinder errorがでまくりで1年近くつかったサイバードッグもこれまでか〜と諦めかけていたのですが。
ところがシンプルテキストとかワープロを立ち上げてからサイバードッグを立ち上げればサイバードッグの終了後の操作も、システムの終了、再起動がスムーズになることがわかりました。環境は:2400c MacOS 8J RAM 48 M virtual memory ON +1
このときはじめにたちあげるソフトとしてスティーキーズはよけいに不安定にさせるようです。
2日間ためしましたが再現性はよかった。わたしの場合7.6.1でもHP製作につかうpagemillとsitemillがサイバードッグとともに立ち上がると不安定になりがちだったのですが、まだ、7.6.1の方が安定と感じていました。
MacOS8上のサイバードッグ環境には絶望しかけていたのですがこれで一安心というところです。
え?なんでそんなに不安定なサイバードッグをつかっているのかって?不安定だけど一番フィットするから、です。
fj.usageなんかの超有名人void氏のヘミネコを第三者がまとめたものがある。しってるひとは爆笑できます。私の属しているMLのメンバでもあります(きっと)。
私はpowerbook型のモデムカードパナソニックの56Kのもの(TO-CAF56K)をノートにさして外出時に使用している。
アナログモデムをつかって
からアナログモデム288の同一のものに接続した。
すると速度はそれぞれ
となった。報告おわり。
#ちなみにこのページは地下鉄での帰りのときに30分程で書いている。
##今日はメールをエディットして書いた。
カノッサさんのサイトのクレシーの戦い・なぜフランス軍は大敗したのか?が面白いです。とくに兵器である長弓のレポートがたいへん興味深いです。こういう当時の記録はどこに記録されているのでしょう?王宮に記録係がいたんでしたっけ?それともお坊さん?
アベラールとエロイーズ、岩波の原本はよんでないけど、みすず出版からでているフランス人の解説本がとりあえず手に入った。ますます、オリジナルを読みたくなる。映画化されてもよさそうな話なのに、あるんだろうか?薔薇の名前よりきっと一般受けするぞ。
引っ越ししました。これからもよろしく。
1997/10/6
秋田からかえってきて、お土産できりたんぽと大吟醸のこびんをかってきた。明日にする。
フランスロマネスクシリーズ「モワサック」見て下さい。彫刻がきれいなんですよ。
芸術作品にどう接するか、それはいまだに私の中ではすっきりしない問題である。山本氏は以下のように書いている。
”芸術を生活世界から切り離し”「リッチな気分」を味わうための手段と見なす人々、彼らにとって美術館とは格好のデート・コースとなりうる。芸術に関する情報をファッションと同一視する彼らが”通”化するといわゆるディレッタント(教養俗物)というべきものになる。
もしこの指摘のとおりであるなら、私は間違いなくディレッタントである。芸術は生活空間と結びつくものなのだろうか?壁には有名な画家の絵がかけられており、自らも絵を書いたり、詩をかいたりすることが芸術が身近となっていることの証なのだろうか?
・・・・まず第一に作品の構造分析を中心に展開せねばならない。・・・
・・・・芸術的体験理解においては作品は条件ではなく対象なのであり作品分析を深めることでより深い価値を持ったさらなる芸術体験成立が可能となるのである。・・・
分析がふかまりより作品に感動できたとしても、それこそまさにディレッタントに括られてしまうのがオチなきがする。ディレッタントとそうでないものの第三者的区別はあるのだろうか?なんとなく製作者でなければ、それは全てディレッタントに括られてしまう気がするのだが。主観と客観との不整合さをアドルノ流に拒否するのも手かも知れないが、そうだとするとますますあいまいであるだけだ。
いったいどのように鑑賞すればそれはより深い鑑賞で、リッチな気分を味わうだけでない芸術鑑賞なのか?
・・・・<<芸術とは相対的なものである。しかし、芸術作品固有の価値とは時代、地域、個性による差異の発見がこの交流の意味を涸らしてしまわないところにあるのだ。>>・・・・
たとえばこういう芸術を体系的あるいは厳密に知ろうとすればささいだが重要な問題がある。本を買ったり、それを読む時間が必要である。それに多くの価値を見い出さなければいけないほど、われわれの生活は価値のないものばかりなのだろうか?
わたしにとっては芸術作品鑑賞は現実逃避である。ただし、それらの逃避は私にある種のパワーを与えてくれる。
シェーンベルクのすばらしい曲をきき、私はまた自分の仕事をきちんとせねばと思う。それこそ不純なのではないのか?
小林英雄がいっていた、美術品がいいかどうかは自分の金をだしてでも手にいれたいものかどうか?という基準がだいじであると。
だが芸術作品を資本主義的体制内での等価価値交換にのっけたところでみることもまた変なはなしだ。それは職人仕事により、つくられたものか?それは芸術作品であるのか?
ここまでくると現代美術のマルセル・デュシャンなんかの話のほうが似合っている。
そもそも芸術作品という概念こそが歴史の中の狭い一つのタームなのではないのだろうか?ヨーロッパでは芸術家は工房での職人であったという。たかだかルネッサンス以降の概念ではないか?芸術概念の変遷を追うべきなのだろうか?
結論はでないのでここでやめる。中途半端でごめんなさい。
1997/10/5
昨日の発表は3人程きてくださって、いずれも濃い話題ができて一見さんとはちがった話ができました。私が発表したのは生体、医用工学とかの分野でなかなかオーバーラップする分野がないのですが、脂質のコレステロールの相転位とか、デキストランを担持した磁性流体とかの話を興味深く聞くことができました。ひとり、演者で、だらだら説明する人がいて時間をとられてしまった。
今日は秋田大学の膜タンパクを研究している先生と楽しくお酒をのんだのでもうねます。あしたは朝一で飛行機だ。
宿泊はホテルラグーンというでっかいホテル。名前からエッ*ホテルだったらどうしよう、と思ってたらすごいおっきいホテル。おどろき。これも学会でとってもらったやつ。
教訓:ホテルは学会にまかして、自分で手配して、とれたら、学会分はキャンセルすべし。飛行機は自分でとる。(いままでは自分でとってました)
マックのページにMacOS8のきにいらないところを書いておきました。ファイルナビゲーションとかポップアップウインドウとかはお気に入りですけどね。
応用物理学会にきて自己組織性膜(SAM)なんかの話をきいた。この分野については原理的な話がおおく(応用物理という名称にかかわらず)、硫黄の上にアルカンチオールをのっけたあとの評価をやっていた。この分野に関しては日本化学会とか高分子学会の方が応用に向いているんじゃないだろうか?
そうそうフタロシアニンをアルカリハライドにのっけた研究が多いが、基板に伝導性の透明電極をもちいた研究はほとんどないらしく、ITO上にフタロシアニンをのっけている人がいた。フタロシアニンは色素なので当然機能性色素の話になるかとおもったらいがいとここでもそれはほとんどでなかった。不思議ではある。
発表は明日。ポスターセッション。みんな壁新聞をつくってきて張り付けるというのりだ。一週間前に見た悪夢ではだれもひとが聞きにきてくれないというものをみた。正夢にならなければいいが。
インタネット情報コーナーがあったので自分のホームページを見てみた。結構速くアクセスできた。カノッサさんのHPはおそかった。mireiさんのHPもおそかった。私の職場のサーバにloginしてメールをよもうとしたがlogin画面まではいったがとてつもなくおそく、password を入力時にTime outしてしまった。acドメインからコマーシャルドメイン(?)へは線が細いのでとてもおそいらしい。
Power Mac 7300/166があったのでそれでやってみた。なんとメモリが16 M。これでははなしにならん。netscapeとtelnetをむりやり立ち上げている。OS はKT7.5.5
WindowsマシンはNECでwin 3.1うーん懐かしい。といってもWin NT 3.51をしばらく使っていたのでそれほどでもないか。テラタームでアクセスした。名こ*大には素早くはいれる。でもそこから職場にいこうとしてもとてもおそい。
けっきょくグレ電で接続。ああテレカの度数がどんどん減っていく。。。。
昨日も述べたように学会は秋田市だが宿泊地は大曲である。電車で1時間、通勤時間帯に1時間に一本。それをのがせば3時間ほどないというしろものだ。2両のワンマンカーだが私の乗った時間帯では実際は車掌がいた。
大曲の駅はとてもきれいだ。でも大曲ではどこで食べよう。。。。おなかすいた。
1992/10/3
現在秋田に行くべく名古屋空港にいる(10/2)。国内線の飛行機にのるのははじめてである。たしか飛行機にのるときは携帯電話とノートパソコンのスイッチはオフにしておかねばいけないはずだ。
搭乗すると離着陸のときはパソコンをオフにせよといっていたが、先日の報道で計器がおかしくなっていたのがパソコンのせいと聞いていたので、離着陸以外にも使うのをやめた。
飛行機の中はがらがら。
なかでマルテの日記を読む。クリュニー博物館にある6枚のつづれ織りはいまだ再会できない。リルケはここで静まり返った構図の中での美しい動物達の動きについて記述している。
ひときわうまいと思ったのはつづれ織りのなかの女が考え込んでいるのでそこに近付くのにそっとちかづこう。というくだりだ。わたしにはそんなデリカシーはなかった。もう一度是非みたい。
クリュニーはフランスの中世で教会の改革をおこなった勢力のひとつだ。
せっかく秋田にきているので秋田の話題に戻ろう。
秋田の駅前にはセゾン、イトーヨーカ堂、Forusなんかがあってぜんぜんどっかよそにきた気がしない。せいぜいどこか名古屋か大阪、東京のどこかにいるのとかわらない。
秋田にきたからといってそこが大きく田舎であることを期待したわけではないが。
学会の行事で秋田大学の学生さん達による”かんと?”をやっていた。人間の頭4つ分くらいのちょうちんを帆船の帆のように竹ざおに30個ひろげ、秋田大学とかいたハッピをきた学生さん達が片手で手のひらでもちあげたり、おでこのうえにのっけるのをみた。竹ざおはビル3階くらいまでととくくらいはある。当然重いので竹ざおはしなる。かぜがふくとよろめく。大太鼓がどんどこどんどこ、ふえがぴーぴーぴーひゃらら。うーんすごい。ひとつたおれたけど。ちょうちんのなかのあかりはちゃんとろうそくを使っていたようだ。太鼓がすごくリズムがよくてよかった。あれがなかったりかるい音だったらぜんぜん違うだろうな。
あような太鼓のおとは5線譜にリズムをかくのはひどくむずかしいらしい。かけないことはないのかどうかしらない。西洋音楽は基本的には演奏者のリズムは同一だが民族音楽といわれるおおくのものはそれぞれの演者によって異なるものがおおいらしい。西洋音楽では現代音楽といわれるものはポリリズムを使うようにはなってきている。あらあらしいリズムで一躍有名になったストラヴィンスキーでもリズム細胞は演者でいっしょである。ブレーズがつめたく分析しているが。これらのことが西洋音楽になだれ込んだのはまさに西洋の帝国主義のなれのはて万国博覧会である。ガムラン音楽などにドビュシーやラヴェルは影響されたはずだ。
今日は大曲市にとまるのでそちらに移動する。
この大曲市は秋田市から一時間かかり電車代が950円もする。そんな〜きいてないよ〜(死語)状態。ホテルはJ*Bが手配した。
大曲市では10分ほどあるいてオリ*ンタルホテルにとまる。周りに飲みに行くところもない。自分の発表終わったら一人で乾杯もできんじゃないか。。。
大曲市の観光ポイントも車がないと不便だし学会の会場までが遠すぎるのでぬけだしてどこかに行くということもできない。
そろそろ学会の準備をしておこう。
アクセスポイントは名*屋なので電話代がかかるのでいつも巡回するHPもみにいけません。残念。
でも mireiさんがHPにグリーウエイの枕草子の感想を書いていたのは知っている。たくさん見てますね!映画。私は最近かなり減りました。
ビスコンティの「若者達のすべて」私の一番好きな映画の一つ。あれはビデオ化されていないだろうか?
日比さんの「ベートーベンの森」、どのくらいの人が理解しているのだろうか?ベートーベンのピアノソナタを32曲聴きとおしたしたまれだろうし、リファレンスになっているような概念はさらにフォローするのは難しいと思う。
日比さんはつぎのように書いている。
「モーツァルトやメンデルスゾーンとは異なり、彼は即興を殆ど信じなかった。綿密に正確に真剣に創られた音楽こそ彼の作品だった。にも拘らず作品一〇六の『ハンマークラヴィア』以、来彼の音楽は想像も付かぬ処に飛躍するようになった。聴覚は失われ身は老いさらばえても彼の頭の中の音楽はその時、彼の心臓辺りに迄下りて来ていた。」
そう、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番ではソリストの名人芸を披露する伝統的なカデンツァすら書き込んでしまった。
ベートーベンの音楽が考え抜かれたものとはいえ、音楽そのものは人々に時間はかかったが受け入れられたために、逆説的に、考え抜かれたものであるという面は受け入れられなかったのではないか?そのわずか100年後の12音音楽のときには、そのシステムによって音楽を考えたものであると認識され、それが理由で非難されたのとは大きな違いである。
ベートーベンの音楽のフーガの部分、第9交響曲では最近の古楽器の演奏ではメトロノームを守ろうとするため、かなりはやく、それは狂ったような進行をみせる。よく聴くといい、あれだけの2重フーガが破たんせずに進行していくのである。ロマン的な音楽観、では全く理解できない音楽ではないか?かれは偶然モーツアルト経由でバッハを知った。バッハの時にすでに時代遅れのフーガをロマンの香り炊き込めてベートーベンは蘇生したのである。弦楽四重奏の大フーガ。しかし、フーガはロマン派にはいり使われなくなる。
ロマン派の音楽、とくくっても、19世紀はなにより天才概念の発明された世紀である。一発ひらめきの天才。天才とそうでないものとの区別。そのなかでブラームスの交響曲第4番の第4楽章、あのストイックなコードをパッサカリアでまとめるあの精神はやはり古典派の構造への視点の大きさを感じさせる。天才のひらめきとは感じられない。もちろん彼こそ天才だが。だれかが、天才とはまずもって勤勉であることだといった。モーツアルトの自筆譜は2万ページあるそうである。2万ページのHTMLうーん。
ヨーロッパがヨーロッパたるゆえんは全体と部分の有機的な統一感を求めたためである。音楽も絵画も文学も、微視的な領域を拡大すればそこには全体のひな形があり、全体の統一された概念がすみずみまで微視的な領域にあると考える。
極端な例ではウエーベルンの音楽ははじめの数個の音の組み合わせが曲の構造からなにからなにまできめているいったものだった。12音によるトータルセリエリズムの発想はそこからきている。
それはありそうで、ない世界だ。トータルセリエリズムの曲はほとんどないはずだ。
今日から秋田で学会です。このページの更新もネットがダウンしているのでできません。たぶんつぎの更新は月曜日の夜になるとおもいます。Au rovoir!
199/10/1
メールサーバが不調です。しばらくメールは読めません。悪しからず。
もう9月も終わってしまった。10月である。気分一新。先月できなかったことが今月できるかもしれない。
昨日から私のアクセスするネットが都合によりシャットダウンして頻繁にアクセスできないし、web更新ができない状況にある。
日比さんの「ベートーベンの森」ヤフーに登録したらとてもアクセスが増えた。なんでそんなことがわかるかというと、アクセスログを読むのが好きだから。
アクセスログで不思議なのはいきなりマックのページに飛んでくる方が多いということだ。ただ、私のページにはマックの情報なんてしれているから、そういう方はすぐでていかれる。私のようにどうでもいいことしか書いてないマックのページにアクセスがあるということはよほど、マックを検索して調べているのだということになる。
マックの新着情報は以前はMacweekなんて読んでいたが、そのうちクライアント環境の私が将来のこととか、新製品情報とか読んでいるうちにバカらしくなってきた。でもいまでも読む(笑)。
幸いにしてこのページはリピーターの皆様以外は読まれていない。
アドルノやフーコーが私の関心領域だが、アドルノは私が興味を持っている音楽についていろいろ調べたりすることができる意義深い宝庫なのである。また、フーコーは権力の分析においても興味深い。私はあまり立ち回りがうまくないからだ。人間関係は苦手な方である。なぜ苦手かというと断わるのが苦手だからである。いいカッコしいなのだ。だから、断わる必要のない状況にはじめからいればいいのだ。
アドルノもフーコーもドイツでのホロコーストには敏感である。フーコーの権力メカニズム分析はそこにも目が向けられていた。インタビュー集を読むとよくわかる。おつむは極上だがふつうのおっさんである。こんなんなら、ヘーゲルインタビュー集とか、カントインタビュー集とかあったらずいぶん話が早い気がするが、残念ながら知らない。
哲学者は形而上学の説明をするときにりんごの譬え話をしてしまうのがいる。いわく、皆さんが見ているりんご、これはどういうものか考えたことがありますか?(くったらうめーんだよ)りんごということをしらない人にはりんごを説明しても分かってもらえませんね?りんごの味とか歯触り、どう言葉だけで説明しますか?(あーん、りんごはくうためにあるんであって、説明するためにあるんじゃないぜ?)
私の心理学の先生は皆さんが見ている机、これは机じゃないかもしれませんよ?(This is a dddddddesk!) ということがあった。かっこ内は私の独白である。こんな話につきあうのははっきりいってつかれる。話を単純化するために問題意識を捨て去るからである。数学ならこれでいいけど。
この手の話はマルクスが見た資本主義社会、ケインズが見た資本主義社会、同じヨーロッパのものを対象にしてもなぜこれほど認識がちがっていたのか?という問いに膨らますことができる。とどこかで読んだ。これなら面白い。片方はもうすぐ資本主義社会は革命を迎えるといって説いたおっさんだ。もう片方はいやいや修正資本主義で、ここのお金をここにまわして、ってやればばっちりだよーん。(ごめんなさいくわしいことしりません)というくらいちがう。
というわけで私もそれほど浮き世だってないことがわかった(爆)。そんなこんなでアドルノやらフーコーやらごちゃごちゃかいてもこの程度ということでした。ふたりのホロコーストへの取り組みをしばらく考えていこうかと考えているが、あまり自信はありません。