1997/9月分

新着情報 飯田のHPにもどる | 過去の新着情報

1997/9/30

いっけね〜、表紙の日付け変えるのわすれてた。ひょっとして更新してないとおもってここにアクセスしてもらえなかったかも。

9月も今日が最後がんばっていきましょう。

学会の準備中です。応用物理学会は秋田であるのですが、今回はポスター発表です。ポスターのデザインに一部自分のwebデザインをパクってみました。

カノッサさんのフロワサール年代記の訳出進んでますね。きちんとした内容でいつも感心します。


1997/9/29

日比さんの投稿手記、最近アクセス急増中です。ぜひ御覧ください。今週は第13章

十三 「僕はベートーヴェンの黙する故に美しい此の神聖な音楽を
    己の声に歌いたい。」

弦楽四重奏のアルバンベルクカルテットについて書き足しました。


1997/9/28

昨晩はつかれていてばたん、と寝てしまいました。おきたのは昼の11時。


1996/9/27

昨日はMacOS 8を午前零時に買いに行こうとあるショップに電話をした。電話の答えでは、予約分のものだけで、それ以外のものは3、4本しかないとのこと。「いや〜そんなに物好きな、あ、いえいえ、急いでいる方がそれほどいるとは思わなかったので、、、」といわれた(笑)。このお店はMacお宝鑑定団のサイトで知ったところである。それで残念ながらてに入らなかった。

私の現在のOSは7.6.1だがマイクロソフトインターネットイクスプローラーMSIE 3.01をインストールしたらシステムが腐ってしまった。しょっちゅうハングするし、システムの起動がやたらとおそくなった。それでシステムを早く入れ替えたかったが、やはり入れ替えを始めるとソフトの配置まで自分のもとのところまでカスタマイズするには3〜4時間はかかってしまう。バックアップに30分、システムのインストールはせいぜい1時間、機能拡張を入れなおして30分〜1時間、LANがらみの設定、モデムの設定、それぞれの確認、ブラウザ、メールソフトの確認、で1時間以上。これであっとゆうまに3時間以上がとられてしまった。それぞれのソフトも確認をする。あ〜つかれた。

インストールの楽さはやっぱりマックならではのもので、以前Windows 95, NTWをインストールしたときはロールプレイングゲームそのままであった。しかも、うまくいかなかったりネットワークの設定がおかしかったり、何度終電を乗り過ごしたことか。NTWは3.51と4.0どちらもやった。どうも苦手意識がさきだちあまり触っていない。マルチタスクなのはいいと思ったが、メモリが足りなくなると不安定になり落ちてしまうのはマックと変わらないし、なにより再インストールが大変だ。上書きインストールしてもなおらないことが多く、ディスクの初期化を要求される。なぜなら、適当にディスク上のシステムを削除してしまうとMS-DOSモードでいじり始めることになるからである。もうこのシステム管理はやーめた。とWinのお守は学生君にまかせた。その学生君は家にFMVを持っているそうだがエクセルで保存すると必ずシステムごと落ちるそうだ。私はディスクの初期化からインストールを始めることをすすめたのはいうまでもない。

NTサーバは企業の基幹業務をリプレースする戦略があるが、まだ、システム管理者やコンサルタント会社はそれを見合わせているところも多いようだ。初期費用、や、GUIは魅力だがメンテに手間がかかる。また開発環境もかなり高い。せいぜい部門サーバといったところだ。インタネットサーバとしてはUnixが勧められている。私自身システム管理者でもないし、プログラマでもない、さらにはUnixなんてメールを読むとき以外には使わないのに、これらのたわ言をついいってしまうのは、私の回りにはシステム管理者がいて私のネットワーク上の願いを聞いてもらっているからだ。そのときそれなりにこちらも知識を仕入れこんなことをしたいというと、やってくれる(笑)。かれらはLinuxのred hatを使っている。

また、webページの製作者も知人にいたりする。このかたのホームページはすでに4つのメディアでとりあげられたそうだ。最新は10/12大阪方面での番組「デジタルネバーランド」で取り上げられるそうだ。その方には私のホームページはデザインが悪いとか、分かる人にしか分からんページといつもおこられている(爆)。高校時代の先輩でお世話になってるんすよ。仕事頼んだこともあるし。その方はマックでサーバを立ち上げるという。それでMLで質問して解答を得たのでこんなページにまとめておいた。

私のホームページは中途半端で光合成にしても専門的かというと論文よりはやさしく書いてるけど、ブルーバックスのようにかいてるかというとそこまでやってない。ロマネスクについては私自身のメモだったりするのでさらにわからん。自分の吸い上げた知識で何をアウトプットするかという戦略が足りないのである。まあ、それはよしとしよう。最近は光合成のページをよんだというメールもこないし、ロマネスクについてもそう。音楽のページだけはなぜかメールをいただいた。ありがたいことである。たわごとが長くなってしまった。おちもない。失礼。


1997/9/26

以前紹介したサイトにこんなのがあった。当分アドレスを変えんように。mirei&minamiさん。ボルヘス『七つの夜』

http://www.age.ne.jp/x/mirei/minami/forever.html


1997/9/25

昨日は愛知県の研究会にいっていた。トヨタ自動車のトヨタ会館でおこなわれたので豊田市線にのっていってきた。わたしの家のそばの地下鉄がこの豊田市線に直接乗り入れているので、ぼーっとすわっていればついてしまう。後はバスにのるだけ。かくいう今もじつはノートパソコンで帰りの電車でこれをかいている。豊田市で目についたのはコギャル文化が名古屋でももう終りかけていたのに、まだ健在ということだ。短いスカートとルーズソックス。とりわけ後者が名古屋でのそれの一年前ぐらいのすごさだ。こんなこと書くとマニアな人間だと思われそうだから、ここでやめよう。

女の子の装いといえばまた、青いアイシャドウがはやっているようだ。そうエリザベステーラーのクレオパトラである。これは60年代までの化粧法だと思っていたが、レトロブームという言葉が消滅し、レトロが定着した今、復活しているようにみえる。ちなみに通常は肌色の少しこい色やオレンジの暗いのをぬったりする。なお、ネイルは茶色の濃いのが流行りもしたようだ。ちなみにわたしの周りの男達は化粧をする女性を”けばい”というが、デートの時とかに女の子が化粧をしてくると、けっばー、といってやめるように通達を出す輩もいるらしい。女の子はきれいにしてきたつもりなのでそんなことをいうのはたぶん大きなお世話なのだ。むしろ少々ひどくて、濃くても、今日の化粧にあうねーぐらいいってやるべきだ(そのこが普段しない子なら、特に)。君のことを思いながら化粧をしてきたのだから(きっと)。こんなこと書くとさらにマニアだと思われそうだがなんのことはない、わたしの実家は化粧品屋なのだ。

服については昨年”かすり”がはやっていたと思っていたが、なんと今年はなんでもかんでも”かすり”である。どうやらミッソーニのミメティックらしい。ちなみにミッソーニのきれいなセーターの糸はスイスで染めているらしい。染色は過去の大産業で、大学でもそういう講座があったし、公設機関にもあった。なにより有機化学は染料の化学でもあったのだ。話を元に戻そう。服は市場に大量にあるようだが、実はほとんど似たタイプのものが際限のない差異を経て置かれているだけなのだ。なんのことはない、ちょっと違ったタイプのものはありはしない。個性の時代とか多様化の時代は、本質的ではない。同じ様なもののちょっとずつ違ったものが大量に存在し、それらのコードに合わせるのがファッションである。なお、私はだからファッションがくだらないとか、そんなことはこれっぽっちも思わない。そのなかからどういう選択をするかこそが大事なのだ。

今は服にぜんぜん関心がないが、以前はもう少しあった、うん年前には3つボタンのジャケットがほしかった。理由は簡単である。マーラーが着ていた(1900年代)のをかっこいいと思ったからだ。ちなみに写真をみる限りウエーベルンはかなりおしゃれである。わたしが欲しいと思った年にはまったくそんなものはなかった。唯一あったのはブリティッシュトラッドのもので一番上のボタンは通常おりかえしてあるタイプだった。おまけにベントもはいっている。こういうタイプではなくて襟は折り返してあり襟元の面積が小さいものがよかった。当時はビギというブランドにあることは確認したが名古屋の店にはなかった。おまけに普通の学生にそんな高価なものは買えるはずもなかった。で、次の年、すさまじい量の三つボタンのジャケットがでてきた。どうやら、前のとしは仕掛けの年だったらしい(笑)。また、ある年はカウチンセーターを欲しいと思った。当時は通信販売でしか売ってなかった。が、ある店で見つけた。しかも格安。当時の通販で46,000円だった。もっと安く手にいれた。しかもバイトでボーナスがわりのおこずかいがでたときだった。速攻でかった。次の年はブレイクした。なぜかわたしの欲しいものと流行りが一致したことが他にもなんどかあった。別にわたしが高感度人間だなんて思っているわけではない。偶然どころか、きっと欲望が雑誌によって作られ、それがたまたま一致していただけであろう。

で、今はなにがほしいってシルクのジャケット。映画「キャリントン」でリットンストレイチーが着ていたから。これも20世紀初頭のデザインで実はウールなんだけど、俳優の感じを実物にちかづけるためにウールツイードをシルクでわざわざ作ったのであったらしい。昨年だか一昨年だかの冬、通常のジャケットの値段で一点だけみつけた。はたして今年ははやるか!?まあ、これに期待するのはよそう。

しかし私の選んだコンピュータ(OS)はいまや落ち目である。少なくとも今私はMacOSを人にすすめるのはためらわれる。だが9/26のMacOS 8は楽しみだ。

そろそろ人が電車の中に増えてきてこれを覗き込んでいる人もいる。そろそろしお時か。いったん終了、パタン。


1997/9/24

パソコンの雑誌を読んだらスチュワーデスさんたちが飛行機内にノートパソコンを持ち込んでいるひとが多いけど、あれ、仕事してると見せびらかしたがってるのかしら?というような話題が出ていた。かくゆうわたしも先日の京都ファインアーツブラスのコンサートの合間にこのノートブックをだして書いていた。なにを書いていたかというと、9/22日分のこのページの記事を書いてた(笑)。うしろから、”あの人パソコンやってはる”と子供に指摘されたときはちょっと冷や汗。パソコンやってるんじゃなくて、ホームページ作っているんだよ。とか、手紙書いているんだよとか、いってやりたかったが、社会的な常識人だと思われたいので、なにもいわなかった。十分ノートパソコンを人前で広げていたら変人だって。いや、それはわかっているんですが、四六時中さわっているとさわってないと何か不安で、、、、不安だから毎日こういうページを更新しているのか、不安だからメールを書いているのかもうわからない。今日も日記だけになってしまった。それでも更新したことにしよう。

じつは明日は愛知県科学技術財団の”光がもたらす「生命・地球」共進化系研究会”に出席ついでに論文の共著の先生と打ち合わせをするのでいままでデータとにらめっこしていたところでちょっと余裕なかったのです。


1997/9/23

最近現代曲をきかなくなってしまったが(前と比べて)、ラサールカルテットのことをなんか書くかと、思って、リゲティの弦楽四重奏第2番をきいた。聞きなれたこの曲を”なんじゃこりゃ!?”と思ってしまった。もう現代曲を聞けなくなってしまったのだろうか?

リゲティは東欧出身の作曲家、その音楽で一番有名なのはトーンクラスターをもちいた音楽だろう。トーンクラスターは音を出すときに周波数を連続に近い形で出すときのことで、通常の音は振動の倍成分が重なるような音を重ねて和音を形成するが、トーンクラスターではそうでないために、ほわーん、とした不思議な音になる。リゲティはその曲、アトモスフェール、などで、1960年代にこれをオーケストラに適用したが、そのとき、四分音といわれる半音の間の音を弦楽器の半分に出させている。また、連続に周波数を出させるときに、それぞれが、各自の音をずーっとコンスタントに出せば簡単にトーンクラスターが出せそうであるが、もちろんそんなことはせずに一人一人にメロディ(というかモティーフ)を与えた(ミクロフォニー)。それらはカノンかなんかだったはずだ。で、集団になるとそんなものはなにも聞こえない。ほあーん、ふえーん、ぽーん、という今でいうシンセの音を聞くことができる。これは12音技法などのモチーフによる技法を発展させても、それがまったく聞こえない、したがって、音列による曲の統一など意味をなさなくなってしまう皮肉としても、受けたようだ。それはともかくこの技法もよく使われた。今でも使う人がいるくらいである。なんと名画「2001年宇宙の旅」の最後にも彼の曲は使われている。


1997/9/22

日比さんのベートーベンの森、今週は10〜12章をおとどけ。

十 「音楽は思考か行動か、そうだ音楽は生身の肉体の健康な心臓の音であり、
     その純潔なる魂の告白である。」

十一 「現状を生きよ、彼は厚い唇に唸るように呟くと大きな目を見開く。
     そうして又ピアノは力強くなり響くのである。」

十二 「ベートーヴェンの沈黙の歌は今宵、はっきりとした言葉となって
     僕の耳元に囁いている。現状を愛せよと。」

日比さんはベートーベンの音楽を聞きながら想いをめぐらす。

これは健康なるものへの大いなるあこがれであり、純粋なるもののよろこびである。

ベートーベンのピアノソナタ「告別」では次のようにのべている。

『つまり僕等の体験した別れの瞬間は作品八十一のベートーヴェンのピアノソナタを通して又新たに僕等の懐に帰って来る。僕は今掌というものを媒体に再び体験して居る。』

日比さんはリルケ好きで私とはそういうところでも気が合う。以前いただいたメールでは

『リルケはいつも僕らの真横に座っている友達なのです。真横にです。』

と賛辞を送っていた。そう、20世紀初頭の詩人と心を通わせるというのは考えてみたら奇妙だ。彼がちがった書き方をしていたらそうはならなかったのだろう。音楽でもそうだ。200年、300年を飛び超えて魂のふれあいを実感できる。それはきっと心の一番深いところでおこなわれるのだろう。

 古い本を読めばたちまち今とは描かれる対象が違うことがわかる。

ジョイスの「ユリシーズ」にはあさ腎臓を買いにいくシーンがある。冷蔵庫がないのである。あたりまえである。20世紀初頭なのである。ちなみにそのあとトイレのシーンであるが当時は水洗なわけないと思うがどうだったんだろう?

昨晩はPB2400c/180にUS robotics社のモデムXJ3288Jを接続したのですがうまくいきませんでした。CCLファイルが古いようでした。ハードがソフトか原因不明ですがパナソニックのTOCL-CAF56はうまく接続できました。US ROBOTICS社のHPではCCLファイルを配布してませんでした。

京都ファインアーツ・ブラスの第六回演奏会を聞きにいった。(9/21)曲は、バッハ「主よ、人の望みのよろこびよ」ヘンデル「水上の音楽」、バーンスタイン「ダンス組曲」ジョプリン「イージー・ウィナーズ」など。楽しく聞かさせていただきました。


1997/9/19

チェコ出身の指揮者クーベリックのマーラーのライブ版がでまわっているという情報を得た(クーベリックのHPより)。大地の歌はグラモフォンのマーラー全集には含まれていなかっただけに楽しみである。でも正規盤かどうかが気にかかる。今日CD屋さんにいこうかとおもってるけどいけるかな?

↑行ったのですがありませんでした。そのかわり、クーベリック指揮、ブラームスの交響曲3&4、ウイーンフィル、1956-57録音、Londonをgetしました。ブラームスはアンビバレントな作曲家なんです。はじめて聞いたのは高校時代、4番の出だしで泣いてしまった。音楽を聞くなり泣いたことなんて他には覚えがない。あの、クライバーの指揮。でもそんなに感動したのに、好きで嫌いという状態がいまもつづき、素直に聞けない。それで好きな指揮者でブラームスの曲が好きになるように聞く練習をしているのですが、、、、そのインスピレーションはまだきません。

fjでクーベリックは無難な指揮者だと思われていて悔しい。再現芸術である演奏をCDに収めてそれでもって指揮者や、作曲家を判断するのはおかしい。わたし?もちろん生なんてきいてない。じゃ、なんでクーベリックにそんなに肩入れするのか?それはこちらこんなページもあるんですよ。

カルテットのページも工事中ですが、はじめました。弦楽四重奏団はやっぱりラサール!っていうひといる?

今週金曜日と土曜日の分は日曜日か月曜日にまとめてアップします。週末はつなげないときもあるんです。。。。


1997/9/18

 光合成のセクション、やっぱり職業にしていると適当に書きたすのは気が引けてすすんでない。というかここをかくなら論文書けよという。。。

 10月4日に応用物理に発表するのですがそれは直線二色性スペクトルを用いたものです。

でも自分の研究をちょこっと紹介したところのリンクを強化しました。

しばらくメンテナンスモードです。

 fj に投稿したけど、リルケのドゥイノの哀歌、アベラールとエロイーズ、日陰者ジュードがない。古本屋いくか〜。

 リルケのマルテの日記にクリュニー美術館のタピストリー「貴婦人と一角獣」がでてくる。ここの記述はこの本のなかでもとくに美しい部分だ。

リルケは家を出た(古いもの[信仰]から逃げ出すために家出した)女の子のことに思いを巡らし(当時多かったのだろうか?)そして、

「女は何百年も愛の仕事を一人で引きうけ、愛の問答に一人で二役をつとめて来たのである。」・・・「男は散漫と無神経と、やはり一種の無神経である嫉妬とによって、女の愛の仕事を困難にしたのであった。」

 この一番いいところで、エロイーズがでてくる。11世紀ころかかれたお坊さんと弟子の女(修道女)。エロイーズはアベラールの子をやどすのである。

 もうすこしページをくだったところではアベローネがでてくる。そしてそれはこの記述どおりに進行する。

 今フランスの古いお寺(ロマネスクね)モワサックの記述をすこしずつしています。来週くらいにはアップできるといいな。このお寺の彫刻はとてもきれいです。すでにわたしのHPにおいてるものは、

  •  預言者イザヤ
  •  回廊
  • これらの解説がまだないので執筆中。旅行記はよんでね。


    1997/9/17

    今日はいくつかリンクをはった。シェーンベルクとかで検索すると私のHPは結構上位だったりする。ロマネスク教会とか、モワサックとか、リルケとかマイナーなネタでふるとかならずみつかる。E気分だ。リンクはまとめてここに置いておくが関連ページにも張り巡らした。


    1997/9/16

    ゲストブックを作りました。メールを下さるときに転載可と書いていただければこちらで加工して転載します。

    「7つの大罪」をご存じでしょうか?映画「セブン」のなかでものありげにでてきて、この映画に対しては、わたしはこれら素材のクオリティに負けた映画(リドリースコットを意識した画面造りはとても好感をもっている)という評価なんですが、それはおいておいて、これらは中世に列挙された概念です。

    傲慢、嫉妬、吝禀、婬楽、貪色、忿怒、怠惰 です。思い浮かぶものはございませんか?

    このうち、傲慢吝禀婬楽、はコンクという教会の彫刻のモチーフとしてとりあげられました。詳しい説明はこちら

    Akko@オクラホマさんがふっかつしましたね。おめでとう。日記読みにいきます。

    日比 工さんの本を手にいれた「言葉在る風景」新書館。なぜ日比さんと会うなり意気投合できたのかよく理解できる。不思議と音楽とか文学への好みがものすごく似ているのだ。感想はまた後日書くとしよう。


    1997/9/15

    日比さんの「ベートーベンの森」今週は第7〜9章

     「ベートーヴェンの青春も恐らく「ハイリゲンシュタットの遺書」の苦悩の中に
         始まったのである。若き日の彼はそれに気付かず天使に祈った。」

    八 「僕の遥かな恋人との距離に、純白の雪はやがて積もるだろう。」

    九 「静かな冬の雪降る夜、僕は或る野心に身を焦がして居たい。
         故に僕は満足して居る。」

    ぜひご覧ください。

    「美術・現代思想について(山本君にささぐ)」をこぎれいにしました。考えてみれば全文検索だったら、突然そのページにはいるわけだから、わたしのHPの場合、書き手が3人いるからできるだけ明確にしないとね。アドルノとかニーチェ、バッハ中世ヨーロッパとか興味ある方はどうぞ。なんでこんなページがあるのかはこちらこちら


    1997/9/14

    私はアニメのオタクといってもだれも疑わないくらいオタクなタイプに見られるらしいが、残念ながらアニメオタクではない。私の場合、コンプレックスを刺激されすぎて私の精神がもたないのがその理由だ。アニメをみる。アニメのデフォルメされた場面で考える。このデフォルメの根拠は何だろう。いや、起源はなんだろう。たのしければいい?そんな考えはじつは歴史のなかからみるとつい最近だけの考え方なのだ。そしてそれをしらなければそこから出ることなどできない。”ものごとに驚き、不審を抱くことが理解への第一歩である。”(オルテガ、神野敬三訳、角川文庫)しかし、オタクは周りにいる。最近コミットしたので、もののけ姫とエヴァンゲリオンはみたかった。でも、どうにも気はずかしくてまだ、エヴァンゲリオンはいってない。もののけ姫をみたあと、さっそくインタネットで検索してみた。レヴューを書いて、他の方の評論にリンクをはろうとおもったのだが、すごいすごいとしか書いてないHPを10まいほどよんだら、どうでもよくなってしまって、やめてしまった。ほとんどが失語症なのだ。

     とながい前ふりをかいたが、それを打ち消してくれるページがあった。昨日紹介した、MireiさんとMinamiさんというなぞの魅力的な人物。どちらもおとこ?それとも「僕」を使う女性?(ウテナを思い出すぼくはすでにだいぶオタクにそまったかも)彼等の文章は、そう、蓮実重彦を意識している。(はずしてたらごめんなさい)

     歴史といえば、カノッサさんのHPのケンブリッジ中世史がだいぶ進行してきた模様。お疲れさまです。年表を見ながら読みました。こういう戦争の歴史を読んでいると、人間の命はなによりも重い。とか平和が大事だと思いました。とかいう発想もごく最近であることがわかる。マキャベリを持ち出すつもりはないけど。また、生き残ることはどれだけ代償をはらうかも歴史は教えてくれる。そして、生き方そのものもいろいろあることがわかる。でも私は私。あるべき私とそうではない今の私を分裂させて生きるのも近代のディスクール。

     マーラーのCDなにがいいか?というのがfj.music.classicalで話題になっていた。このオーケストラこそ、形而上学的といえると思う。原曲にたいして演奏されたものという二項対立で、原曲がすべてという思考方法もそのままだ。とくに聞くだけのひとにとってはスコアをみるわけでもなく、演奏をあれこれいいあう。私も同じ穴のむじなだからいいたくないが、スコアをみてもわからぬ人間が演奏のプロたる演奏家の演奏(CD)を批判するのは傲慢である。”・・・はよくない。”私はじかにあったときにそれを本人にいえるか?といつもおもう。”あなたのマーラーはあまりよくないので、私はこちらをきいてます。”と。想像するだけで愉快だ。当然根拠をきかれるだろう。まあ、いやー録音のせいでしょ、といっておくのが無難かも。(笑)よい・わるいこととすき・きらいは別の次元のことなのだ。しかし資本主義制度のなかではこれらは容易に一緒のものとみなされた。ということだ。

     クーベリックははっきりと”初夜権はわれわれにある”といいきる。どれだけスコアをよめたらいいかとおもったか。私はピアノのドの音すらどれがキーになるのか知らないのだ。僕はクーベリックシノーポリのマーラーがすきだ。

     先週テレビで”なぜ人をころしてはいけないか?”というのをやっていたらしい。出演者はうまくこたえられなかった。と中日新聞にコラムが出ていた。つかまるから、でいいじゃん。親にも迷惑がかかるし、ろくなことがない。でいいじゃん。それが、なぜかを問うなら私はフーコーの「性の歴史」第一巻の「死に対する権利と生に対する権力」をおすすめする。これ以上に冷徹に見通したものをしらない。

    「権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。・・・・・他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺しえるのである。」ミシェル・フーコー著 渡部守章訳、性の歴史1、知への意思、新潮社

    ただしここまでを理解するのにかなり時間はかかる。

     ようやくグリーナウエイの枕草子をみる。ストーリーはどうにも”コックと泥棒・・・”を思わせる。音楽はあっけからんとポップスまで使うようになった。これが映画の雰囲気を楽しいものにしていることはまちがいない。マイケルナイマンやバロックでの音造りも好きだったが、軽さの要素は今回はじめて。

     テクノロジに大きく傾いた画面造りで、すこしこれには共感できない。画面にちいさなウィンドウがひらいたり、画像が重ね合わされたものが動き続けたり、インタネットづけになってるわたしにはコンソールをみているような気になり、なんだか落ち着かない。これは前作”プロスペローの本”の完全化にほかならない。これはどうにも、パソコン操作をみているようでおちつかない。前作のときには画期的だったが、いまやどこにでもある技術。ただ、画面の美しさはプロスペローを上回る。書と平安時代と現代の重ね合せ。

     キャスト。ヴィヴィアン・ウーが魅力的。パンフで浅田彰氏が述べていたように、奔放にふるまっていたという指摘はただしいとおもう。プロスペローのミランダときたら。そうそうプロスペローの前衛バレイにあたる役がちゃんとでてきた。英国式殺人事件の不気味なピエロ役にあたる役もでてきた。これまでの画面造りの再統合、悪くいえば自己模倣になっている。本を作る工場、雨のシーン、本を燃やすシーン。復讐。パレード。死体の加工。もそう。日本人を多く起用したことによってなじみが増えた気もするが、日本人はそんなことせえへんで〜ということもフィクションだからと納得できる以上に気にしてしまう。

     ストーリー自身面白みがあるわけではないのが彼の映画。それはジョイスがユリシーズを書いたときにギリシャ古典を下敷きに主人公を描いたようなものだ。ユリシーズも物語がおもしろいか?といえばおもしろくない。この映画もマニアックにしらべれば調べるほど面白いと思う。

     今回の映画は今までのなかで一番軽量。わたし自身は「コックと泥棒、その妻と愛人」が一番好きだ。

     局部にぼかしがはいるので局部にかかれた言葉が読めん!!映倫このえいがだけはゆるして〜。はだかがめちゃくちゃ出てくるのになぜかぜんぜんエロティックでない。不思議だ。どうやってエロティックさを消しているのだろう?

     とはいえ、あっという間の2時間。時間としては20分ぐらいしかたってない感じ。はじまって5分ですでにわたしはいってしまっていた。

     グリーナウエイは枕草子をなんと好きなもののカタログととらえた。そういやそうだな。でもいままでそうは考えなかった。なるほど。わたしもカタログ化してるのですよ。このHPに。

     画面の最後は彼女のエクスタシー。


    1997/9/13

    Mireiさんにリンクを張った。うーん。わたしはこの人にとても親近感を感じます。とだけいっておこう。あ、男性ですよ。ってなにをあわてているんだ?昨日の新着情報をよんで、メールで、ボルヘスのオリジナルをフーコーが引用した部分を送ってくれました。どこかわかる人いる?センスいいよな〜。

    ロマネスク彫刻シリーズ コンクのタンパンの彫刻の写真をいれました。ぜひご覧ください。この時代のユニークな彫刻をみることができます。

    アニメをみるひとをオタクという狭義の意味ではなくて広義の意味でのオタク。インターネットにはオタクがいっぱい。かくゆうわたしもそう。(アニメはほとんどみない)

    日比さんの「ベートーベンの森」読んでくれてるかしら。更新は週末日曜日のよるの予定。


    1997/9/12

    このホームページを3つに割ってしまおうかと考えている。なぜなら、全然別の内容が集まっている。苦肉の策としてkeywordをならべた。これを階層別にわけてもいいのだけれど、ふとジョンケージが「辞書にはMusicのつぎにMushroomがある。」といっていたのを思いだし、すべてならべることにした。このキーワードは私の語彙のスペクトルである。これを、つきつめて「あいうえお順」にしようかと思ったけど、今回はパス。こういうことでもだいぶ時間をとられる。これで表からは距離の遠いDocumentも素早くアクセスできる。

     ことばには階層があるが階層は上下の階層の言葉を想像させない。このためリンクをたどると情報があるかどうかわからない状態である。HTMLで文章の書き方が変わってくる気がしている。普通にワープロをうっていてもリンクはれないんだよな〜と思うようになってきた。このため、ワープロではなくHTMLエディタがいつも立ち上がっている。だからぼくのメモもWebに上がってしまう。

     光合成についてすこし以前のwhatsnewからエディットして付け加えた。遺伝子をいじってアンテナの水素結合を証明した文献を紹介。(私が書いた文献ではない)

    1997/9/11

    分子素子の紹介なんかもしていきたいのですが、とても多く、断片的な文献情報になると思います。光合成なんかもトピックス的に取り扱うつもりです。すでに専門的論文を入れはじめています。

    片一方で専門人として光合成を研究しているので、ロマネスクのものでもきっと論文にするにはきっととても細かいことを論じていかないといけないだろうなと思ってしまいます。方法論は異なるとは思いますが、基本的には新しいなにかがみつからないと論文なんて通らないだろうな、と想像します。なんせ10世紀ごろからの文献があるんだもの。おそろしい。オリジナルペーパーよまなきゃ専門としては意味がないでしょう。おっとラテン語をやれということか、、、、

    今日は私と共同研究している学生君たちの就職お祝いで飲みにいきました。例のDonJuanさんです。名古屋のかたはいかがですか?おすすめですよ。

    1997/9/10

    わたしはキリスト者でもないのにフランスロマネスクの教会とその彫刻を紹介しようとしている。自分ではキリスト者でもないのに、ということばはずいぶんひっかかっていて、もう一つのLocalを優先事項と考えればなぜ日本美術じゃなくてフランス?ということでもある。まあ、私の場合はなりゆきとしかいいようがないのだけれども、それと同時に宗教的敬虔さを傍観者的態度で蹂躙しているのではないだろうか?という気はいつもしている。さて、キリスト教内でもカトリック、プロテスタントがあって、それぞれくべつしあっている(マルテ先生へのリンク)とか。いろいろ事情があるのですね。用語とかも違うことがあるそうです。

     私のHPには名前がない。私のHPは人に見てもらうようなものではない。というかそこまで完成させていない。ほとんどが自分向けのメモだ。HPの名前がないということで指摘をうけたのだが、なにも思いつかない。例えばαヘリックスの部屋でもいい。でもなんだか知人(研究者)に笑われそうだ。サン・ジルの部屋とつける。私はキリスト者ではない。なのにその聖人の名前をつけていいのか?しょうがないのでシェーンベルク関係でアウグスティンはどうだ!と思ったのだが、なんかピンとこない。そのうちおもいつたら改称しよう。それまではIKでいいや。

    1997/9/9

    ロマネスクのページさらにかきたす。だんだん長くなってきた分割するときにきたのかもしれない。でもどうにも文書管理がなってない。とても同一サイトにsgmlのことが記述してあるとは思えない(爆)

    リンクを足す。chubu sake MLでであった灰猫さん。poemがなかなか。

    1997/9/8

    日比さんの連載第二回。4、5、6章です。ベートーベンを聴く人、ピアノソナタが好きな人はぜひ読んで下さい。

     「夜明け近くベートーヴェンはまだ動かぬ。そして僕もじっとして居る。
         じっとして故郷を想う。」

     「俯いて眼を閉じたベートーヴェンを囲む深い霧は果たして寒いのだろうか。」

     「ベートーヴェンよ、僕の冷え切った肉体をその真空の時間の中に暖めてくれ。
         音楽という真空の時間は僕にとって、唯一の温度在る場所なのである。」

    1997/9/7

    フランスのコンクの彫刻の説明を「ヨーロッパのキリスト教美術(上)」pp136-137(エミール・マール 著、柳 宗玄/荒木成子訳)にもとづき付け加えました。またロマネスクのページにも簡単にロマネスク期の建築と彫刻の説明を加えました。ロマネスクのページだけはコメントなどありません。コメント下さい

    1997/9/6

    ポストモダンの特徴をご存じだろうか?それはすべての価値が均等につぶれてしまった社会のことである。そこには価値の上下ではなくて、好みの上下こそが意味をもつことである。このことは20世紀初頭から続いてきたことであるが、それはニーチェにはじまる価値相対主義のことでもある。

     ニーチェは神は死んだといったがそれは神を最高に置いたヒエラルキーが崩壊したといったということで、物質科学的に説明される現象に神は関係ないといったたぐいのものではない。ただし、神の存在証明をしようとしたデカルトやニュートンのような科学者に始まるキリスト教内の科学は20世紀に入ってから、たしかに神の存在を否定する方向にでてきたことはたしかだ。その様子はホーキングのビッグバン、インフレーション理論の紹介の本にも自ら語っている。またカールセーガンもまた、宇宙の起源を神のような不明の存在に帰すならば最初からわからない。というべきだと彼の私に大きな影響を与えた本”コスモス”の中で述べている。私自身は神が存在するかどうかにはあまり興味がない。なぜか?考えても無駄そうであるからだ。

     ギブアンドテイクの神を信じるべきではないという非交換原理に基ずく宗教原理は古代ローマですでに発見されている。そういった膨大な宗教史をおさえていってもいかなくても、神の実在について論ずることは立場以上の意義があるとは考えない。相手の立場を理解するのは重要だが。私にとって、興味があるのは神をどのようなものと考えてきたかとか、神を信じて(信じたふりをして)人間は何を考え、表現してきたかということである。ロマネスク彫刻の紹介はその一環である。

     はじめに価値が並列になってしまったと述べた。それはindex.htmlを作成し、key wordとして並列化するときにもその意識はあらわれる。また、検索エンジンによるすべてのwebサイトを検索する際にもおなじである。すべての言葉は等価にあつかわれているのである。そして私の所有する言葉はたかだかこの程度のスペクトルでしかないのだ。

    1997/9/5

    SGMLの最近の動向を二人の研究者のやり取りのかたちでまとめておきました。リンクも豊富にあります。

    昨晩はchu-bu sake MLのメンバーのお店Don Juanさんでおいしいお酒をのみました。

    1997/9/4

    ポリロゴスではレヴィストロースのほかヴィトゲンシュタインなんかも取り上げられているんだけど、アドルノは取り上げられてないですね。むかしやったのかな?アドルノがなぜ重要か?もちろん否定弁証法をあみだしたことも重要なんだけど、その音楽への発言という点でおおきな興味がある。亡き山本君の手紙がアドルノに言及することと自らもとめて音楽をきくこととが出会ってしまい、おくればせながら、山本君からみたら10年後にアドルノに取り組む次第。アドルノはなやむ。なぜベートーベンは偉大なのか?と。その答えは、思いっきりはしょった形で、「アドルノ」マーティン・ジェイ著 木田 元・村岡晋一訳、岩波書店、同時代ライブラリー133、1992にのっている。ここでそれについて書くのはおそろしい。アドルノは音楽をシェーンベルクの弟子のベルクにならっているのだ。そしてかれの音楽評論は今はそれによってたっているといってもいいぐらい基礎になっている。いいかえれば彼はあの時点ではたいしたことはいってない。いまの僕らには常識となっているわけだから。だからこそ彼の影響力は重要なのだ。

    カノッサさんからのリンクでナポレオンのサイトにいく。うーむ。すごい。

    1997/9/3

     背景つけてみました。どう?谷口さん

     なんでこんなに毎日暑いんでしょう。私はぜんぜん鼻炎がなおりません。エアコンのせいです。

     なんか日記化した部分もあるので昔の新着情報もとっておこう。下のほう切ってすっきり。

     昨日もののけ姫のことをかいたのでちとwebをしらべてみた。そうしたら同じ論調があった。岡田斗司夫氏といえばオタク界では知れたひとのはず(Yahooのうけうり)。でもぼくはエヴァも攻殻機動隊もみてません。おやおやこのサイト終始についてこの調子。けっこうさめてる。

     ポリロゴスでレヴィ・ストロースの構造主義の誕生が語られています。またフーコーについても「知の考古学」をやってますね。

     日比さんのページ読んでくれてますか?

    1997/9/2

    [もののけ姫] 

     もののけ姫をみた。はじめに断わっておくが私はアニメなひとではない。おもしろいとおもうか?ときかれたら、おもしろかったと答える。おすすめともいう。アクションシーンが小気み良かったし、アニメーションもきれい。3Dも効果的に使われていた。「トイストーリー」もよかったが、その作品の持つアメリカ的、友情、団結が敵を倒すといわんばかりの物語よりも、ある面親近感をいだいた。

     物語的にはナウシカと同じ。ナウシカの登場人物が役割をすこしずつ変えられてあたかもリサイクルされているようだ。まあ、どうしたって物語を、しかも神話の入り交じる物語は、物語の一モデルに陥りがちで、話の展開自体もそういう展開だったんだけど、物語もナウシカとおなじと感じた。ナウシカの火の魔人はこんどは山の神様の役割となって逆の役割が与えられていた。ししがみのクライマックスと火の魔人のクライマックスはどちらの物語のなかでもクライマックスとして築かれていた。その終息。それらもすべて同じと感じた。メッセージは大変わかりやすく、「この世は辛く苦しい」「生きろ」「森と共存する道は?」にしぼれる。

     人間がより安楽に生きるにはテクノロジーが必須で、きっと癩病のものたちに仕事をあたえたあのたたらばの女頭領はそれをしっていた。テクノロジーの進歩は彼等をもすくうことができる。そのような人間の前に森の自然がどのようなものだろうか?いくら自然保護をしても目の前の人達をすくえまい。もちろん彼女には森よりも、彼女の組み込まれた権力の網の目の中のずっとターミナルの天皇(?)の命をはたすこともそれ以上に重要だったにちがいない。スクリーンにむかって進んでいく女頭領。彼女の放つ火による山火事。そこにじょじょにアップで現われるアシタカ。まるで学園紛争の新聞の構図そのもの。あのころ、はじめ新聞は学生の方からとっていたという。その後新聞の撮影は機動隊側にまわったという。このばあいはアシタカがアップで描かれることでそのような報道とは逆の効果をだしている。

     どうもネタばらしはwebで自主規制がかかっているようなのでそれにあわせてぼかせて書けば、最後は環境アセスメント型の社会を築きましょう。ということだ。恋愛物語としてはロマンスにはならないままのあわい初恋という体だ。アシタカには脇毛だってはえてはいない。(脇毛についてかたることでアニメのデフォルメのパターンとそこに潜む心理を分析することで多くがわかる。)かれは武術が長けているので旦那とよばれるのである。

     もののけ姫はあのような結末をとったとはいえ、人間からみれば相変わらず違法な存在なのだ。彼女を捕えに行くのが当時の警察の継続すべき役割ではないか?たとえ、アシタカがいても。権力ターミナルの観点からいえば、女頭領の存続は危ないだろう。いくら人間がのこっても全焼した村に明日はない。彼等の村は日本と同じだ。テクノロジーを売ってるだけで食料を生産していない。そういつもいわれる明日の日本。山の神はあるいはそれをうったえていたのかも。食料をつくりなさいよ。それには光合成がいちばん:-p

     自然との共存は可か?歴史的な問に変換して議論しようとすると、日本人は近代の公害をいわなくても過去何百年にもわたって自然破壊をしてきている。われわれが日々快適なのはまさに自然を毎日破壊しているからである。ただ、物語のなかでこのことについて結論をだせとは思わない。物語をみたひとで、共感するひとがいるならば、われら環境破壊者となのることぐらいできなければ私はその人を信用しない。

     メンタリティの側からいえば、自然に近い人間=純粋な人間、特別な能力をもつ人間であり、それがあたかもうしなわれてしまったかのような描き方がされているが、最近の中世史の研究ではそういった人々が非差別民になってきたとの説を聞いたことがある。だから失われた能力をうらやむのであれば同時に、権力の関係論でもって非差別民の創出がここにはじまることを悲しむべきなのだ。

     ピーターグリーナウエイという映画監督は4、5年前にベイビーオブマコンを制作した。その映画はメッセージとして幼児を大人たちが利用することに抵抗をしめしたものだ。具体的には胎内から生まれたばかりの胎児をベネトンが宣伝に使ったのだ。そのメッセージを14世紀のイタリアを舞台に、時間の経過に物語のシンメトリーを組み合わせ、虚構と現実を混じり合わせて表現した。そして、とてもメッセージの受け取れるような映画にはしてくれなかった。メッセージ性をこめても、あるいは、歴史物語をつくっても全然別の切り口があるのだ。どうように映画にはまだまだ多彩な表現がころがっている。いまとなってはわかりやすいフェリーニの8と1/2。ベルトリッチ、シェルタリングスカイ。ビスコンティ、若者たちのすべて。ルイ・マル、ゴダール、レオス・カラックス。パトリス・ルコントの初期作品。ピアノレッスン。

     このような書き方をするとけなしているようだが、それはちがう。私はこの物語を気に入っている。これが最後と聞いているが宮崎氏にはまた制作してほしいと思っている。私は手放しの賞賛はほとんどしないのだ。シェーンベルクのページをよめばわかる。私はこういう感情表現をする人間なのだ。

     こういう見方だってかなり根拠のないものだ。同様に自分の感じ方の根拠を疑うことはだいじなのだ。あなたはどうだろうか?

     新着情報でさらりと書くはずだったが、ながくなってしまった。私はたんにもののけ姫関連のリンクを張ろうとおもって書き始めたのだが残念ながらいいエッセイはみつからなかった。いいリンクやエッセイがあったら教えてください

     最後にひとつ。ネタばらしが禁じられているようであるが、ねたをばらされるとそんなに物語が面白くなくなるのだろうか?

    (1998/02/06 マイナーアップデート)

    1997/9/1

     いよいよ僕のHPにも投稿作品が!しかもプロ。ベートーベンのすきな貴方是非読んで下さい。「ベートーベンの森」ピアノソナタ32曲にそって著者日比さんの静謐な思考を読み取ることができます。連載で、15章を予定しています。コメント是非くださいね。

    8月分の新着情報