結論

 シェーンベルクの創作活動における1903年から1908年という時期は調性が拡大されていき、その必然的な帰結として調性が放棄される、という激動の時期である。

 この時期の両端の状況を再確認してみよう。1903年には《ペレアスとメリザンド》が完成され、この曲においてシェーンベルクは、それまでの後期ロマン派風でヴァーグナーの音楽をさらに発展させたような作風に終止符を打つ。1908年の春には無調音楽の最初の試みであると思われる《渚にて》を経て最初の無調音楽の傑作と呼ぶにふさわしい《ゲオルゲ歌曲集》の作曲が開始される。

 この5年の間にシェーンベルクはこれだけの変貌を遂げてしまうのであるが、この間に作曲された歌曲はこの変化の様々な側面が反映されている。従ってこれらの歌曲作品の分析のみによって、この時期でのシェーンベルクの音楽に対する考え方のすべてを説明することも可能であり、本論文の第2章は結果的に、シェーンベルクの歌曲以外の作品の作曲技法の説明にもなっている。無調期に至るまでのシェーンベルクは折に触れて歌曲作品を作曲しているので、これらの作品を年代順に聴いていくことでシェーンベルクの作風の変化を理解することもできる。

 同時期のマーラーやR.シュトラウスの作風の変化の様子と比べても良く分かるように、この時期のシェーンベルクの作風の変化の度合は桁外れに大きく、当時の聴衆が戸惑ったのも無理はないと考える。しかし、今比較の対象に挙げたマーラーやR.シュトラウスの両者が共にシェーンベルクの音楽に理解を示したことは重要である。シュトラウスはシェーンベルクのために金銭や職の工面をし(注1)、マーラーは明らかにシェーンベルクの音楽の複雑さに戸惑いながらも、彼への讃辞を惜しまなかった(注2)。

 現在シェーンベルクのOp.1の歌曲が作曲されて約100年になる。100年前に活躍していたシェーンベルクと同世代の作曲家、シュトラウス、マーラー、ドビュッシー、プッチーニ Puccini らの名は、多くの人にとって、もはや古典的な人物であろう。しかし、シェーンベルクの名は現代においても「悪名高い『現代音楽』の開祖」として多くの人々の憎悪の対象となっているのみである。

[Op.1を含む数曲の歌曲が]ヴィーンの声楽教師エードゥアルト・ゲルトナー Eduart G較tner によって1898年にある演奏会で歌われた。ピアノ伴奏はツェムリンスキーが受け持った。演奏後に会場でちょっとした騒ぎがあったことをエーゴン・ヴェレス Egon Wellesz が報告している。のちにこの時のことを回想してシェーンベルクはヴェレスに言った。「あの時から騒ぎはおさまっていない!」(注3

 そして、今もなお、その“騒ぎ”はおさまっていないのだ。

 これだけ音楽史で重要な位置を占めながらその音楽の受容が進んでいない作曲家はシェーンベルクが元祖であろう。間もなく20世紀は過ぎ去り21世紀はすぐそこである。「20世紀音楽」というと複雑で訳の分からない新しい音楽という印象をもつ人も少なくないだろうが、間もなくその20世紀音楽も前世紀の音楽となろうとしている。そろそろシェーンベルクの音楽が机上の評価だけでなく、実際に演奏されることによって再評価されても良いのではないだろうか。例えば、彼の初期の歌曲の演奏はオーケストラ曲などと違って、一人の歌手と一人のピアニストがいれば出来るのである。ベルクも述べているように、シェーンベルクの音楽の理解を妨げているのは無調性ではなく様々な音楽的要素の異常なまでの豊かさにあるので、これらの調性期の歌曲の演奏や聴取に際しても当然困難を伴う。しかしシェーンベルクはどのような音楽的革新も唐突に行ったことは一度もないので、彼の若い時期の作品から順を追って理解するようにすれば、彼の無調期以後の作品も必ず理解できるようになるのである。しかし、比較的初期の作品である《浄夜》や《グレの歌》は「不人気な」シェーンベルクの作品の中でも比較的演奏されているにもかかわらず、これ以後の作品が一部の限られた人の間でしか理解されないのは、1903年から1908年に至る急激な変化に順応できないからであると思われる。しかし逆にいえばこの時期の音楽を完全に理解できれば、それ以後の音楽も同じように理解できるはずである。

 従って歌手がこの時期の歌曲を積極的に取り上げ繰り返し演奏していくことは、シェーンベルクの作品全体の受容の促進に繋がるのではないだろうか。そのことがさらに20世紀のいわゆる「現代音楽」の理解に発展し、現在の作曲家が聴衆や演奏家から隔絶されているという不健全な状態から抜け出すことが出来るのではないだろうか。

 現在、多くの聴衆はすでに評価の固まった古典的作品のみを求め、その一方で作曲家の多くは音楽の本質とかけ離れた立場から、いわゆる「えせ現代音楽風」の曲を作り続けている。そしてその間に立つ演奏家の多くは、現代曲の演奏にまつわる技術的あるいは経済的リスクを避けるかの様に定番化したレパートリーを演奏し続け、現代の作曲家と現代の聴衆との仲介役であることを拒んでいる。このような状態がこれからも続けば、演奏会場はひびわれた骨董品の展示会場の様になってしまうだろう。もちろん、クラウディオ・アバド Claudio Abbado 、ギドン・クレーメル Gidon Kremer 、ピエール・ブレーズ Pierre Boulez 、クロノス・クァルテット Kronos

Quartet らのようなすぐれた演奏家によって現代の作曲家の素晴らしい作品がしばしば紹介されていることも事実であるが、こうした動きはもっと広く浸透していくべきである。たった二人の音楽家で演奏できる「歌曲」というジャンルはこうした目的に非常に適していると言える。この論文で述べてきたシェーンベルクの1903年から1908年の歌曲は、19世紀までの「古典的音楽」と20世紀の「現代音楽」を結ぶ位置にあり、20世紀音楽の受容へのきっかけとしても非常に適しているのではないだろうか。

 しかし、何よりも私がこの論文を通じてもっとも理解して頂きたいのは、これらの歌曲の美しさである。不協和音や無調といったつまらない理屈を抜きにして虚心坦懐に耳を傾ければシェーンベルクの音楽の美を必ずや味わうことができるであろう。

注1 「当時[1900年前後]すでに名をなし、影響力をもっていた同僚のシュトラウスは、彼のために、リスト賞の賞金を手に入れてやった。これはリストの提供した金の利息をもとに、ドイツ音楽協会を通して、毎年、才能ある作曲家ピアニストの一人に与えられることになっていたのである。それと同時に、彼は、シェーンベルクをシュテルン音楽院の作曲の教師に推薦した。」(ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット『シェーンベルク』 吉田秀和訳、東京:音楽之友社、1959年、25〜26頁。

注2 「シェーンベルクの《室内交響曲》が音楽協会のホールで演奏された時のことである。半分もいかない内に、人々は椅子をがたがたやりはじめ、ある者は、立ち上がって退場することにより不満の意を表明した。マーラーは怒って立ち上がり、人々を制止した。そして、演奏が終わるや前の方に立って拍手を送り、反対の連中が一人残らずいなくなるまで拍手を続けていた。『僕には彼の音楽は分からない』と彼は言った。『しかし彼は若いし、彼の方が正しいのだろう。僕は年寄りで、いうなれば耳がついて行けないんだ。』」(アルマ・マーラー『マーラー --- 愛と苦悩の回想』 石井宏訳、東京:音楽の友社、1971年、193頁。)

   「[マーラーの]死期が迫って、[中略]しばしば[マーラー]はシェーンベルクのことを心配していた。『僕が死んだら、[彼の味方は]誰も残っていないじゃないか。』と。[中略]マーラーの死後、[中略]皆はただちに相当な額の金を集めることにした。そして、それを毎年若い音楽家のために使うように、私に委ねてくれた。私は、シュトラウスとブゾーニとワルターを、基金の管財人に選んで、その利益金は、私の要請もあって、しばしばシェーンベルクに贈られた。」(同前、340頁。)

注3 ヴィリー・ライヒ『シェーンベルク評伝 --- 保守的革命家』 松原茂、佐藤牧夫訳、東京:音楽之友社、1974年、24〜25頁。


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