調性期の歌曲創作
シェーンベルクの歌曲創作は《ゲオルゲ歌曲集》を中心点として、それ以前とそれ以後というようにはっきりと分けることができる。《ゲオルゲ歌曲集》以前は伝統的な歌曲の形式による表現の追求と拡大、《ゲオルゲ歌曲集》以後は伝統的な歌曲の形式自体の拡大による表現の追求というようにそれぞれまとめることができる。
《ゲオルゲ歌曲集》以前(つまり調性期)に作曲された歌曲のほとんどはPt様式によるものであり、同時に、この時期に作曲されたシェーンベルクの作品の中で最も主要なジャンルである。従ってこの時期のPt様式による歌曲の作風の変遷は、調性期におけるシェーンベルクの音楽に対する考え方の変遷の最も正確な縮図となっている。
ところで、この調性期を1902年から1903年にわたって作曲された交響詩《ペレアスとメリザンド Pelleas und Melisande, Op.5 》を境として、更に調性期前半と調性期後半という2つの時期に分けることが出来る。この《ペレアスとメリザンド》で示唆された幾つかの重要な新しい作曲語法がこの曲以後(=調性期後半)の作品において本格的に展開されるようになり、《ペレアスとメリザンド》以前とそれ以後の作品の間では作風の面で大きな相違が存在するからである。
また、外面的な生活の面でもこの曲を挟んで大きな違いが存在する。シェーンベルクは経済的な状況を改善しようとして、1901年の12月にそれまで住んでいたヴィーンを離れてベルリンへと移り、ここでオペレッタやヒット曲のオーケストレーションの仕事を行った。この仕事の多忙さは、それまで行っていた《グレの歌》のオーケストレーションを中断せざるを得なかったほどであり、このベルリンでの生活はシェーンベルクにほとんど芸術的な創作の喜びを与えなかった。結局彼は1903年の7月にヴィーンヘ戻ってきたが、この約1年半のベルリン生活での重要で且つ唯一の成果が《ペレアスとメリザンド》の作曲なのである。そして、このベルリン生活での成果はヴィーンヘ戻ってきてからの創作活動で本格的に発展されることになるのである。シュトゥッケンシュミット Stuckenschmidt はこの曲の意義について次の様に述べている。
《ペレアス》のスコアでもって、[シェーンベルクの]最初の作品の圏は、一応完結する。これは、いってみれば、新ドイツ学派の表現の世界を一巡するもので、そこでは、描写的なものと、文学的にあらかじめ示されたプログラムとを、形式の刺激剤として利用し、音と響きの結合の可能性を総合美学的感覚の異常な力をもって、汲み尽くしたものと言えよう。極限まで考え尽くす徹底さは、シェーンベルクの発展のあらゆる段階の本質的特徴として、いつまでも残るものだが、それは、ここでは、音による描写と交響的な手法の一つの総決算となって現れ、それ以上のぼることはもう不可能であった。シェーンベルクは、この時期を、突発的で急激な方向転換で、閉ざしてしまう。これに続くものは、全然違った目標をもったものだった。(注8)
シェーンベルクがヴィーンに戻ってきたのは1903年の7月であり、《ゲオルゲ歌曲集》は遅くとも1908年の3月に作曲が開始されているので、この間の約5年間が調性期後半、1903年7月以前が調性期前半というように分けられる。調性期後半において、シェーンベルクの創作活動は新しい局面を迎え、《ゲオルゲ歌曲集》で確立されることになる無調による作曲様式へ向かって、彼の音楽語法は急速に変化していく。
Pt様式による歌曲はこの時期(=調性期後半)の最も主要なジャンルであり(注9)、他のどのジャンルの曲よりも無調様式へと向かうシェーンベルクの作風の変化を最も反映している。