
3.音楽
シェーンベルクに師事するまではワグナー、ブラームス、マーラー等、後期ロマン派の影響を強く受けた音楽を作曲した。そしてシェーンベルクに師事した最後の年に《パッサカリア OP1》を発表した。次作《軽舟にのってのがれよ OP》を最後に調性から離れ、無調の音楽を作曲しはじめ、《弦楽四重奏のための5楽章 OP6》から、彼らしい個性を発揮するようになる。曲はだんだんと短くなり、《弦楽四重奏のための6つのバガテル op9》で無調は完成の域に達すると同時に《管弦楽のための5つの小品 OP10》にかけて曲は極端に短くなり、圧縮様式はピークを迎える。1曲1曲が見事な小宇宙を形成し、緊張感も強く色彩もこの時期が一番濃厚であった。
《チェロとピアノのための3つの小品 OP11》を最後に圧縮様式を離れ、声楽曲のみを立て続けに作曲し、《三つの民謡詩 OP17》から十二音技法での作曲を始めた。しかし、この時期は方向性の定まらない手探りの時代であった。
その後、器楽曲に戻って2作目の《交響曲 OP21》で厳格な十二音技法を使用しながらも簡潔さを備えた独自のスタイルを確立した。この時期になって、一段と音数も減少し、点描主義が主流となり、旋律は分断され一層わかりにくくなった。また弱音も目立ち、透明度を増して冷ややかな感触を備えるに至った。
しかし、後期でも後半になってくると、音の流れに自然さが感じられるようになる。古典的な形式には回帰したものの、シェーンベルク、ベルクとは異なり、音列主義からの回帰は二度となかった。晩年には図形楽譜のことも頭にあったそうだ。
シェーンベルクとの師弟関係はシェーンベルクがアメリカへ渡った後も続き、最後まで絶対的な信頼を寄せており、さながら忠実なる門弟であった。
ピアニッシモ・エスプレッシィーヴォの作曲家とも呼ばれ、ピアニッシモを多用すると共に強弱の指定等も極めて細かくおこなった。また、音を小さくするだけでなく、音色に変えるために弱音器を多用した。そして音列を選ぶ際も、響きをひたすら吟味していたようである。
無調、十二音の音楽を発明したのはシェーンベルクであるが、それを純粋かつ厳格に推し進めたのはウェーベルンである。彼は新ウィーン楽派の中では過去から最も離れたところで曲を書いた。伝統音楽の旋律、和声、リズムは崩壊するに至ったが、彼自身は無調、十二音を過去からの延長と考えていたようだ。
そして、第二次世界対戦後の現代音楽に最初の啓示を与えた。「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」のあのブーレーズを筆頭として、シュトックハウゼン、ノーノらトータル・セリエリスト達に。
彼の偉大なる師シェーンベルクの存在は大前提であるが、ウェーベルンがいなければ、戦後の現代音楽は現在の状況とは大きく変わっていたかもしれない。
「われわれはウェーベルンにおいてただ偉大な作曲家だけでなく、また真正の英雄をも尊敬しなければならぬ。無知にして冷淡なる聾世界における完敗を運命づけられながら、彼は毅然として、あくまで彼の金剛石をみがきつづけていたのだ、みずからその鉱脈に通暁していた、彼の毅然たる金剛石を。」 (ストラヴィンスキー「ウェーベルン賛」)