「アベラールとエロイーズ」
1997年10月10日
アベラールとエロイーズの抜粋(岩波文庫、畠中尚志 訳)
第一書簡よりアベラールの手紙より
・・・本は開かれてありながら學問に関するよりは愛に関する言葉が多く交わされ、説明よりは接吻が多くあった。私の手はますます本よりは彼女の胸に手がいった。・・・
12世紀?の手紙独白でこんなこと書いてるし、研究者や学者の考えることや生活とかなんだかまったくおなじ。わらってしまう。
フェミニズムがいかに最近の概念かわかります。
つぎはエロイーズの手紙より
・・・そして妻という名称はより神聖に・より健全に聞こえるかもしれませんが、私にとっては、常に愛人という名前の方がもっと甘美だったのです。いっそ思い切っていって申しますが、私は妾あるいは娼婦という名でもよかったのです。・・・・
さすがフランス。絶句。このころからラマンがあったのね。。。。
いままで石とキリスト教あいての中世だったのが急に人間くさくなってしまった。アベラールとエロイーズ?さしずめこんなところか←の解説。
新着情報ですこしずつレポートしていくつもりです。。。。
(1997/11/4 Tue)
12世紀の愛の記録である「アベラールとエロイーズ」は時々どきりとする愛の表現をふくんでいるが、それだけをとりだして強調するのは物語の性格をねじ曲げているのかもしれない。フロイトの夢判断にでてくる女性よりはダイレクトに語っていてよしとしよう。それよりもなによりも甘美なのでお許し願いたい。
第4章にはエロイーズの独白があって、
・・・ところで、私たちが一緒に味わったあの愛の快楽は、私にとってとても甘美であり、私はそれを悔いる気にはなれませんし、また、記憶から消し去ることも出来ないのです。どちらの方へ振り向いても、それは常に私の目の前に押しかかり、私を欲望にそそります。眠っている時でも、その幻像は容赦なく私に迫ってまいります。他の時より一層純粋にお祈りをしなくてはならぬミサの盛儀に際してさえも、その歓楽の放縦な映像が憐れな私の魂をすっかりとりこにしてしまい、私はお祈りに専心するよりは恥ずべき思いに耽るのでございます。犯した罪を嘆かなくてはならない私ですのに、かえって失われたものへ焦がれているのでございます。
と、今どきのマンガのプロットにさえできそうなほどの激情が込められている。これを書いたのは12世紀の修道女である。アベラールとのわずかな愛の期間をへてふたりははなればなれになっている。しかも事情があって、男(アベラール)は大切なものがない。
最近気がついたのだが遠藤周作氏の「私がすてた女」はこのアベラールとエロイーズの変型である。もちろん後者は往復書簡ではく、完全に同一なわけではなく役割の割り振りもことなるが、類似性が高い。mireiさんの情報によれば遠藤周作氏はカトリックらしい。この物語を知らないわけはないと思う。どこまで意識しているかは別としてこれをモチーフにしていると考える。たしかにあの小説は信仰への一縷ののぞみというものがこめられていてただの筋書きプロット小説ではない。
アベラールは12世紀のお坊さんで実在の人物。エロイーズのみもとははっきりしないが、パリの参議の叔父をもちそこに住んでいた、それ以前は修道院で育てられた。アベラールは当時のキリスト教神学を理性によって裏づけようとした人物で自分の師匠をも論破してのしあがった天災。あ、いや、失礼、天才だった。これまで研究一本やりだったかれはふと快楽に身をひたしたくなる。そのターゲットとして、エロイーズがねらわれた。なぜ彼女か?
があげられる。手始めに彼女の叔父の家に下宿させてもらった。その叔父は教育熱心だったのでかれは家庭教師をかってでる。もちろん先生の教えをまもらない悪い子には折檻してもいいのである。
アベラールは冷酷かつ合理的にストーカーを演じたのである。
しかし運命的な出合いをした二人はこうなる。二人はどんどん愛にのめりこみ愛のあらゆる相をあじわったという。知らぬは亭主ばかりなりでようやく叔父の知るところになる。叔父は激怒する。愛に狂ったアベラールはエロイーズと結婚するという。ところがこれを秘密にするというのである。いったんこの条件をのんだ叔父は二人の結婚をみとめる。しかし彼はこれを口外するようになる。この結婚は二人にとって不名誉であるためにふたりは世間体をとりつくろうためにエロイーズを修道院にやる。ここら辺は釈然としないがこの理由はこれだけで本の1〜2章がかけてしまう(アベラールとエロイーズ、E、ジルソン、みすず書房)ので次回に送る。
アベラールがエロイーズをすてたと勘違いしておこった叔父は下男にアベラールの寝込みを襲い急所をdeleteさせる。
ここで一貫していたのはアベラールもエロイーズもお互いに愛しあっていたことだ。アベラールはエロイーズと結婚したくてたまらなかった。エロイーズは逆に妾で娼婦と呼んでほしかったという。・・・その方が甘美だから・・・
(1997/11/6 Thur)
今日の原稿は昨日の続き
アベラールとエロイーズがどのように愛しあっていたか、その欲望もまた語られる。
アベラールからエロイーズへの手紙:・・・あなたも知っている通り、我々の結婚の誓いの後、あなたがアルジャントゥイユの修道院で修道女達と居を共にしていたときに、ある日私はこっそりとあなたを訪れた。そして、其処で、私の制しきれぬ激情があなたと共になにをしたであろうか。しかもそれは、他に隠れる所がなかったままに、実に修道院の食堂の一隅においてであった。敢えていう、当時のこの厚かましい行いは、童貞女マリヤにささげられた最も尊厳な場所においてなされたのであった。・・・
どうですか?これが12世紀のお寺で、しかも知性のはるか高みにいる二人によってなされたことですよ!不埒な妄想を巻き起こさずにはいられないでしょう(笑)。これの映画化はなぜされないんだろう。そしてなぜ岩波は絶版。
この書簡集は後半は急展開し修道院の規則だとかキリスト教の教義だとかがわんさかでてきて、聖書の引用や4世紀ころのヒエロニムスの引用がでてくる。わたしがここでこれらを引用したからといって全編こういうことばかり書いてあるわけではない。逆にそういう理屈をくどくどかいているところにこのような場面がわりこんでくると面喰らってしまう。
中世ロマネスク教会の彫刻のホームページを作成しているわたしにはとても興味深い物語である。私は人間が何をみて何を考えたかとかどう考えたかにものすごく興味があるのです。さらにいえばなぜそう考えたか、そう感じたかがわかるとさらに楽しい。
(1997/12/29 Mon)
アベラールとエロイーズ、前半と違って後半はキリスト教の教義とかの引用ばかりなので結構つらいものがあります。聖書の引用があってもそんなところあったかな〜という感じです。
アベラール(12世紀の修道士)によれば修道生活の3つの核心は
貞節(禁欲)、無所有(清貧)、沈黙
これは
腰に帯し(ルカ伝12の35)、一切の所有を退け(ルカ伝14の33)、無益な言葉を避ける(マタイ伝12の36)
に当たるそうです。それぞれ該当個所をみてみました。
ルカ伝12の35:腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。・・・人の子は、思いがけないときに来るのですから。
ルカ伝14の33:そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の全財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。
マタイ12の36:私はあなたがたに、こういいましょう。人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、裁きの日には言い開きをしなければいけません。
アベラール自身も自分の先生を論破して恨みをかったからね。
引用を確認しながら読むと大変だ。
修道院の態勢については:
修道院の区画の中には修道生活にとって必要なものが皆含まれているようにするのである。それは庭園、泉、製粉所、パン製造所とパン焼き窯、それから姉妹たちが毎日の仕事をする広い場所などである。
今日はここまで。
(1998/01/26 Mon)
[酒と中世の修道生活 上]
あなたは酒が好き?私はビールと日本酒が好き。お酒のにおいのきつくないカクテルもすき。さて、では飲んだ後は?私は眠くなって、道路のベンチで寝こけたこともあります。さて、では中世の修道生活ではどうでしょう?アベラールとエロイーズ(岩波文庫 絶版)から抜粋。
酒は修道士にとって全然無用であることを、また、修道士たちはかつて酒をいたくおそれ、酒をまったく断つためにこれをサタンと呼んだことを、あなたたちのだれが聞いていないであろう。
アベラールはヒエロニムスの言葉を引用してエロイーズにのべている(302ページより)。
「・・・キリストの花嫁たる者は酒を毒の如く避けよと。酒類は青春に対する悪魔の第一の武器である。・・・酒と青春とは情欲の二重の竈である。なんで我々は焔に油をそそぐのか。なんで燃える体に燃料を供するのか。」
また、肉は食べない習慣だったらしいですが、肉を我慢して高い魚をたべ酒を飲むことが大事なのではなくて、暴食と酩酊に気をつけなさいということだそうです(ルカ伝21−34)。
「我々は現在肉を断ってはいる。しかし、他の食物を過剰に貪り食うとすれば、肉を断つことは我々にとって何の手柄となり得るだろうか?・・・食物ならびに酒の一定品種ではなく、その過剰を禁じ給うたのである」
というわけです。当時からフランス人はグルメだったのね。あすはこの酒効き方について。
(1998/01/27 Tue)
このころから男よりも女の方が酒に強いと考えられており、その理由をアリストテレスの説として述べています。
女には水分が多い。
理由1:皮膚の円滑と光沢がこれを証明する。
理由2:身体から過剰な水分を排除する定期的浄化作用がこれを証明する。
それゆえ
豊かな水分の中にまじってその力を失い、その強さが弱められて容易に頭に影響しない。
「女の身体はしばしばの浄化作用で清められ、またその身体は多くの孔から成っていて、水分ははけ口を求めてそこからでる。この多くの孔を通して酒の蒸気は速やかに飛散する。」
間違いですね。酒は肝臓でアルデヒドに分解されます。だから肝臓の酵素の活性量で決めないといけません。実際はどうでしょう?そういう統計はでているのでしょうか?私は知りません。
もちろん今わかっているからといって当時のことをばかにするわけではないです。そうではなくて、このころの学問というのはこういうディスカッションだけで、物事を決めていくスタイルなんですね。いまだったらそういう仮説をたてたらそれを別の面から証明する必要があるのです。たとえば、最後の酒の飛散。これを測定しないと真実とは言えないわけです。もちろん当時アルコールの測定なんてしたとしても、におうとかそんなレベルだと思いますが。
それはともかくアリストテレスからこの先1000年以上たっても全然科学は進歩していないわけです。それに反して、19世紀後半からの科学、20世紀後半からの生命科学の進歩の速さと来たら・・・・もちろん科学がこの先キリスト教社会の中で黎明を迎えるわけですから、ここをけなすつもりは毛頭ありません。当時の学問の推論の仕方がわかって面白いのでここで、紹介したのです。