回廊の柱頭

今度は柱頭を見て回ろう。実は柱頭は同じデザインではない。(写真はクリックで大きくなります)

 花の額といえばいいのだろうか。それとも葉だろうか。へりはそりかえり上からの重量をうけとめているように見える。
 これは抽象的な彫になっている。しかも左右で形が異なっている。さらに柱頭下の部分の高さがあってない。
 手前のものと奥のものとでも柱頭の形状が異なる。手前のものは交互に葉が折り重なっており根元で切り欠きも表現してある。
 これも抽象的な文様になってはいるが、これ以上のシンプルなものもない。
 葉の先がおれまがり装飾性が高まっている。より具体的な表現ではあるが、それはこの先っぽだけでそれ以外はあいかわらずなにも彫られていない。
 半円柱に彫られたすじだけのもの。

 やはりすじまで簡略化されたもの。

 これら柱頭彫刻はシンプルで美しいとされている。

 クリュニー派では柱頭に彫刻を彫り想像力に耽っていたのに対し、シトー派ではここまでシンプルに仕上げていったのである。

 美しさの基準が同時代でもこれだけ違っているということに驚きの念を持つと共に最終的に仕上がったものの確かな美しさに私は驚嘆の念をかくせない。

私はウンベルト・エーコの「薔薇の名前」(河島 英昭 訳、東京創元社)を現在読んでいるところであるが、今日ちょうど読んだところに有名なベルナールの一節をホルヘが引用しながら述べているところがあった。

「・・・瞑想にふける修道僧たちの目に、あの滑稽な怪物は、歪められた豊満さは、あの豊満な歪みは、何を示すのであろうか?・・・あの薄汚い猿の群れは?あの獅子の群れやケンタウルス族は、腹部に口をつけて、一本足で立ち、帆のような耳をした、あの半人半獣の群れは?・・・一つの頭から分かれたあの多数の胴体は、一つの胴体から生えたあの多数の頭は?・・・」とあるのだが、この物語の面白さは、さらにここでベルナールを皮肉るごとく、アドソ君が独白で、「盲になったいまでもあれだけ情熱をもって語るのだから、視力のあったころはよほど彫像の魅惑に取り付かれていたのではないか、と疑ってしまった」と書いてしまうことではないか(p133)。そしてアドソにより正義をかたるものが実は悪徳を断罪するためにすっかり悪徳について語ってしまうという逆説について触れているあたりは、原テキストがあるのかもしれないが妙に現代的だ。さらに皮肉なことにアドソ君ははやく虎や猿の彫像を見たくなるのである。

 ここにきていただいている皆様方もアドソ君のようにそのような彫像を見たいかもしれない。このサイトではモワサックの回廊(悪魔)、ベズレーの柱頭彫刻オータンのタンパン(悪魔)、ミラノのサンタンブロージョ(薔薇の名前の舞台に近い)、ウィーンのシュテファン大聖堂(猿とか、頭や胴体が複数の獣)を紹介しています。リンクをたどってゆっくり想像に耽って下さい。 (2000/12/19 土)

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