[50] Ibid., pp. 71-72, 84.

[51] Cf., M. F. Hearn, Romanesque sculpture, The Rivival of Monumental Ston Sculpture in Eleventh and Twelfth Centuries, New York, 1981, pp. 184-185.

[52] Scott, Op. cit., p. 65, 74.

[53] Ibid., p. 72.

[54] Ibid., p. 72.

[55] Sauerlander, op. cit. pp. 51.

[56] Scott, op. cit. pp. 75-77.

[57] Ibid., pp. 78.

[58] Y. Christe, Les Grands portails Romans, Geneve, 1969.

to be continued 1999/07/10

[59] 偽デュオニシオスは『天上の位階』第1章22節で次のように述べている。

・・・心というものは、それに適した物質的な助けによってでなければ、決して天の位階への観想や精神的表象へと導かれるものではない-すなわち、これらの物質的な美しさを隠された美のイマージュとして、甘い香りを霊的な摂理として、地上の光を非物質的光の形象としてみなさなければ-。(ハーンの英訳参照)

[60] カロリング時代の神学者スコトゥス・エリウゲナによる『天上の位階』のラテン語訳は10世紀後半にクリュニーの図書館に入り、歴代修道院長マユール、オデュロン、ペトルス・ヴェネラービリスらに深い影響を及ぼした。当時最盛期を迎えつつあったクリュニー系教団の傘下に属する多数の修道院教会に彼らの思想が反映したことは明らかである。

Cf. , Y. Christe, Op. cit., ch.1.

[61] Hamann, Reconstruction., p. 25.

[62] Ibid. p.26, Hamann, Abteikirche., p. 90.

[63] Hamann, Abteikirche., pp. 88-89, 174-177.

[64] Hamann, Reconstruction., p. 26.

[65] Haman, Abteikirche., p. 88.

[66] Sauerlaender, op. cit., p. 53.

[67] Horn, op.cit.p.57-58.

[68] A. Katzenellenbogen, The Sculptural Programs of Chartres Cathedral: Christ, Mary, Ecclesia, New York, 1964, pp. 22-23.

H. Kraus, The Living Theatre of Medieval Art, Bloomington, 1967 p.128.

A. Borg, Architectural Decoration., pp. 353-356.

A. Borg, Architectural Sculpture., pp. 124-125.

M. Colish, "Peter of Bruys, Henry of Lausanne, and the Facade of Saint-Gilles", Traditio, 28, 1972, pp. 451-460.

[69] ブリュイのペトルスの活動についてはっきりした年代を確定することは難しい。この問題についての文献はコーリッシュの前掲論文脚注7を参照のこと。

[70] Petrus Venerabiris, Contra Petrobrusianos, Epistora 10, (CCLem X 5-6)

Petrus Aberardus, Introductio ad theologiam II 4, (PL 171, 1056)

この他、聖ベルナルドゥス、ラヴァルディンのヒルデベルトゥス、ウィリアムの名で知られる一修道士がそれぞれ反駁書を書き残している。ブリュイのペトルス一派の活動および教義についてはこれらの教会側の記録を通じて知られるかぎりである。

[71] Colish, op. cit., p.457.

[72] Ibid., p. 458.

[73] Scott, op. cit., p.120.

[74] Colish, op. cit., p. 458.

[75] Scott, op. cit., p. 120. この他ザウアーレンダーもコーリッシュ説を否定する見解をとっている。

  Sauerlaender, op. cit., pp. 51-52.

[76] Hearn, op. cit., pp. 179-180. この問題についての文献一覧は同箇所に記された脚注8を参照のこと。なお、ハーンはボーリゥのキリスト像の背後に見られる十字架を異端に対するアンチテーゼとして解釈しているが、これについては支持しかねる。受難者としてのキリストを強調するために受難の責め道具を提示する表現はオットー朝以降の図像伝統にしばしば見られるものであり、12世紀ではコンクのタンパン、ライヒェナウ・オーベルツェルの壁画『最後の審判』などが挙げられる。

[77] Ferguson, Iconography., pp. 112-121.

[78] Ibid., 125 これに関連してWNまぐさの「香料を買う三人の聖女」はホスピタル騎士団の医療活動と結びつけられている。ファーガスンによればこの場面がモニュメンタルな彫刻として登場するのはサン・ジルが始めてである。

Cf., Ibid., pp. 135-152.

[79] Ibid., pp. 126-129.

[80] Ibid., pp. 97-130. これに関連してファーガスンはサン・ジルの地と十字軍との密接な関係を指摘している。11世紀末にこの地を支配したトゥールーズ=サン・ジル伯レーモンは第一回十字軍のエルサレム攻略において中心的な役割を果たした指揮官であり、「聖墳墓の守護者の称号を授けられている。

Cf., ibid., ch.1.

[81] Ibid., pp. 114-115. この同定についてはスコットによる詳細な反論がある。

Cf., Scott, op.cit, pp.121-122. スコットは最終的にこの建物を「岩のドーム」ではなく、エルサレムの聖墳墓教会とみなしているが、筆者もこの説を積極的に支持したい。1149年に再建された聖墳墓教会の年代よりサン・ジルのフリーズが遡らないとするなら、ファサードの建設工期の上限を1150年頃におく筆者の見解は、少なくともフリーズ・ゾーンにおいては支持されることになる。この問題については以下の文献も参照のこと。

Porter, Condrie, Jerusalem, St. Gilles,

R. Krautheimer, "Introduction to an Iconography of Mediaeval Architecture" Jornal of the Warburug and Courtrauld Institutes, 5, 1942, pp. 1-33.

E.B. Smith, The Dome, Princeton, 1950

J. Prawer, The Latin Kingdom of Jerusarem, London, 1972

尚、筆者はこれに関連して『神殿浄化』の左端に位置する建築モティーフにも注意を促したい。[Pl. 19 参照] 屋根を挟んだニ層のアーチ構造からなるこの特徴的な建物は聖墳墓教会の鐘楼を想起させる。プレンピエのサン・マルタン教会や聖地の柱頭彫刻にこれと酷似した建築モティーフが認められることは興味深い一致と言えよう。[Pl. 106, 107 参照] また、同時代の象牙彫装幀板に描かれたキリストの石棺を覆う建築モティーフも比較に値する。[Pl. 108 参照] いずれにせよ、サン・ジルの彫刻と聖地のロマネスク美術との関係は今後注目されて然るべき問題である。(この問題については前記ジャコビィのニ論文の他にP. デシャンの言及も参照)

Cf. P. Deschamps, french Sculpture of Romanesque Period Eleventh & Twelfth Centuries, 1930, 1972 pp. 95-96.

[82] Ferguson, op. cit., pp. 142-151.

[83] Ibid. , pp. 145-148.

[84] Ibid., p. 145.

[85] Scott, op. cit., p. 120. ファーガスン自身サン・ジル以外の例を一つ挙げている。Ferguson, op. cit., pp.164-165., n. 47 スコットはこれに加えて11世紀の象牙彫りの例を指摘した。尚、西欧の図像表現においってビザンティンのドレスをまとう女性像はエクレシアに限定されるわけではない。筆者の調べるところでは、ミュンヘンの12世紀の写本画に描かれた哲学の寓意像がこのドレスをまとっている[fig. 12 参照]。

[86] Scott, ibid., p. 126., n13 G. シラーの図像学辞典はヴェネツィア、サン・マルコ寺院パラ・ドーロの磔刑図(12世紀)を挙げている。

Cf., G. Schiller, Iconography of Christian Art, trans. J. Seligman, 2vol, New York, 1971, II, p.99.

[87] Scott, ibid, p.99.

[88] シナゴーガを突き倒す天使についてファーガスンは中世の宗教劇『Ludas Antichristus』との関連を指摘している。この劇で演じられる「マリアの神殿奉献」のクライマックスにおいてシナゴーガは天使ガブリエルとミカエルによって階段から突き倒され、手にした旗と古き律法の記されたタブレットを落とす。

Cf., Ferguson, op. cit., p. 152.

[89] Scott, op.cit., p.121.

[90] ペトルス・ヴェネラービリスと十字軍思想の問題については以下の文献を相互参照のこと。

V. Berry, "Peter the Venerable and Crusades", Petrus Venerabilis, Studies and Texts Commemorating the English Century of his Death, ed. G. Constable and J. Kritzeck, n. p. 1956 p.141.

J. Kritzeck, Peter the Venerable and Islam, n. p. 1964

この問題についての邦語文献による紹介は柏木英彦『中世の春-12世紀ルネッサンス』創文社 1976, pp. 168-195. が適切かつ詳しい。本文に掲載したペトルス・ヴェネラービリスの引用は柏木氏の訳によるものである。

[91] Contra sectam., 673B.

[92] Ibid., 674C

[93] 社会的な背景を作品解釈に直接反映させることの危険性についてO. ペヒトは次のような警句を発している。

「・・・図像学的なもの、つまり、主題や課題の設定においては、成立時期の社会的状況によって規定されているものが大層多く一緒に含まれているのが常です。しかし社会的諸要因から芸術的形成物における特定の特性、つまりこうであって他ではないということ、これが具体的に解明されうると仮定するなら、それらの社会的要因の他の発展可能性についての知識も望ましいでしょう。その際には社会学的なカテゴリーを芸術的現象に直接転用すること-例えば大変際立った図像伝統を政治的な教条主義に還元すること-はきわめて強く警戒しなければいけません。そのような試みは、歴史的事実についての極端な無知を証明するだけで、芸術作品への道を塞ぐものです。」

O. Paecht, Methodisches zur Kunsthistorischen Praxis, Munchen, 1977

前川誠郎・越 宏一訳『美術への洞察-美術史研究の実践のために-』岩波書店 1982、p. 139.

[94] C. ゴールドシェイダーによれば12世紀初頭のシトー派写本の装飾イニシャルに人像柱の原形ともいえるモティーフが認められる。

Cf. , C. Goldscheider, "Les origines du portail a(`) statue-colonnes", Bulletin des Muse(')e de France, 1946, pp. 22 ff.

[95] E. Panofsky, About Suger, On the Abbey Church of Saint-Denis and Its Art Treasures. Princeton, 1946, p. 105.

教会を支える柱としての人像柱の図像学的意味については以下の文献を参照。

M. F. Hearn, op. cit. p. 210.

Marie-Louise The(')rel, "Comment la partrologie peut e(')clairer l'arche(')ologie: A propos de l'arbre de Jesse et des status-colonnes de Saint-Denis"

Cahiers de civilisation me(')die(')vale, VI 1962, pp. 145-159.

William Durandus, Rationale divinorum officiorum, in J. M. Neal and the Rev. B. Webb, ed. and trans., The Symbolism of Churches and Church Ornaments, London 1906, p. 21.

Katzenellenbogen, op. cit., p. 35.

[96] この結び付きについては聖書の次のテクストが参考となろう。(傍線筆者)

「・・・その都(天上のエルサレム)の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十ニの門があり、それらの門には十ニの御使いがおり、イスラエルの子らの十ニの部族の名が、それに書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また都の城壁には十ニの土台があり、それには十ニ使徒の十ニの名が書いてあった

(ヨハネの黙示録21:11-14)

「勝利を得る者を、私の神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外に出ることはない。そして彼の上に、私の神の御名と、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名とを、書きつけよう」

(ヨハネの黙示録3:12)

[97] Lassalle, op. cit.

[98] Ade'mar, op.cit.

  M. Durand-Lefebure, Art gallo-romain et sculpture romane, recherche sur forms, Paris, 1937

[99] Lassalle, op.cit.p.73.

註 [100]以降へ

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