第3章 <<ファサード彫刻の図象学的諸問題>>

5 十字軍顕彰図像プログラム説 その2

[Pl. 55] 象牙彫り(9世紀後半)磔刑(エクレシアとシナゴーガ)パリ国立図書館
[Pl. 56] エマーユ・シャンルべ 磔刑(1170年頃)パリ・クリュニー美術館

 WSタンパンについてもスコットは図像伝統の見地からファーガスンの解釈を批判している。彼女の指摘するところによれば、ビザンティンのドレスをまとうエクレシアはサン・ジルに特定されるモティーフではない。[85] また、十字架上のキリストを賛美するローマへ石については9世紀頃に遡る『改悛した百卒長』の図像伝統をあげることができる。(ただし、この場合は通常一人で十字架の右側に描かれる)[86]

 スコットはさらにファーガスン理論の根幹となるシナゴーガの宝冠は二層構造の円形プランを持った建築モティーフであるが、こうした形のモティーフは『磔刑図』、『エクレシアとシナゴーグ』の図像伝統の双方において例のないものである。しかし、スコットの指摘するところによれば、古きエルサレムを象徴する建築モティーフを冠したシナゴーガの例はカロリング朝後期の象牙彫りの一つに見ることができる。[Pl. 55参照] この作例においてシナゴーガはエルサレムの市壁を表わす冠を被り、エクレシアと対峙している。こうした表現から考えてサン・ジルのシナゴーガの冠はいかなる構造の建物を表わそうと、古きエルサレムの権威の象徴とみなすべきであって異教徒の象徴とはいい難い。シナゴーガの手にする巻き紙(古き律法)は天使によってもぎとられているが、これはスコットによればキリストの死と復活によって古き権威が失墜し、古き律法が失効したと解釈できる。[87]

 スコットの挙げた例に加えて筆者は12世紀のエマーユによる磔刑図[Pl. 56]を紹介したい。この作例における目隠しをされたシナゴーガは自らの権威の失墜するのに気付いていない。(シナゴーガの左手に落下する宝冠が見て取れる)これに対し、エクレシアはキリストの脇腹から流れる血をすすんで盃に受け、勝利の旗を手にしている。両者の構図はシナゴーガを突き落とす天使を除いて明らかにサン・ジルに類似する。[88]

 これらの図像伝統から考えてサン・ジルのシナゴーガを1099年の異教徒の敗北という歴史的事件と結び付ける解釈にはほとんど直接的な根拠がないように思われる。スコットが指摘するように岩のドームはエルサレム占領に伴いキリスト教聖堂へと改装され「主の神殿」(Templum Domini)として聖地における重要な巡礼地の一つとなっていた。12世紀半ばにおいてはすでに改装から半世紀を経ており、これを異教徒の聖堂とみなす解釈はとうてい成り立ちえない。[89]

 図像伝統の問題に加えて筆者はペトルス・ヴェネラービリスの引用においてファーガスンに反論したい。筆者の調べる限り、イスラムに対するペトルス・ヴェネラービリスの態度の重要性は彼が十字軍思想に必ずしも共鳴していない点にあったと言える。[90] ペトルス・ヴェネラービリスはクリュニー派の総帥としてキリスト教界の重責を担いながら、カリンティアのヘルマヌスに勧めて『コーラン』をはじめてラテン語に訳させた人物であり、トレド・コレクションの翻訳事業の指導者でもある。彼は晩年のアベラルドゥスを書く間たことでも知られるように寛大篤実な教養人であった。友人の聖ベルナルドゥスとは対照的に彼は武力行使ではなく、説諭によるイスラム教徒の改宗を目指している。このことは『サラセンの異端駁論』の第一巻にあらわれる次の語句に明らかである。

 「・・・しかし、われわれの仲間がしばしばしているように、武力ではなく理性によって、憎しみによってではなく愛によって・・・」[91]

 彼はそのすこし先のところでイスラム教徒に呼びかけて彼らに対する自らの愛を説明し、彼らの救済を願う気持ちから「愛しつつ書き、書くことによってあなた方を救いへと誘うのです」と述べている。[92]

 これらの慈愛に満ちた言葉から考えてペトルス・ヴェネラービリスが十字軍の武力行為を積極的に顕彰するような図像プログラムを起草することなど、およそありえないのではなかろうか。特殊な社会背景やイデオロギーから図像解釈を導き出そうとするファーガスンのアプローチの仕方には少なからず問題があるといわねばならない。[93]

第5節 了

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2000/8/15

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