第3章 <<ファサード彫刻の図象学的諸問題>>
4 反異端の図像プログラム説
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12世紀前半の異端説教師ブリュイのペトルス(Petrus Brusus, Pierre de Bruys)とサン・ジルの図像プログラムとの関連性を初めて示唆したのはE. パノフスキーであった。1929年のハンブルグ大学冬学期の講議において示された彼の着想は、後年のW. ホルンによる研究において公式に紹介される。[67] 以降、A. カッツェネレンボーゲン(Adolf Katzenellenbogen)、H. クラウス(Henry Kraus)、A.ボルグがこれを積極的に支持するが、最終的に論文としてまとめあげたのは歴史学者のM. コーリッシュであった。[68] ブリュイのペトルスはその弟子ローザンヌのヘンリクスと並んで、カタリ派(アルビジョワ派)異端の先駆的存在である。彼は12世紀前半にサン・ジルの地に現れて布教活動を行い、以下に挙げる六つの異端説教を唱えた。 1 幼児洗礼の意義を否定する。 2 教会堂を無用のものとし、その建設に反対する。 3 十字架崇拝を排斥し、キリストの受難を恥辱に満ちた死としてとらえる。 4 聖体拝領の儀式にキリストの地と肉は宿らないとする。 5 死者への祈り、棒げ物、施し物を無益なものとみなす。 6 聖人崇拝を否定する。 正当教義に対する彼のラディカルな批判は、当時繁栄の頂点にあったサン・ジルの修道院に向けられたものであった。1135年頃、彼は町中の十字架を切り倒しサン・ジルの教会堂の前で焼き払うという過激な行動にでる。当然ながらこれは教会側の激怒をかう結果となり、彼は即座に捕らえられるとその場で焚刑に処せられた。[69] しかし、彼の死後もその異端教説は、弟子のローザンヌのヘンリクスに引き継がれ、南仏の地に根強くはびこることになる。この事情は、ペトルス・ヴェネラービリス(尊者ピエール)やアベラルドゥスといった当代一流の神学者達がブリュイのペトルスに言及し彼を反駁する書を著していることからも推測される。[70] 事実、教皇に請われたクレルボーの聖ベルナルドゥスは1140年代中頃にかけて自ら南仏に赴き、異端に改悛をすすめる説教活動を精力的に行わねばならなかった。 これら一連の動きはちょうどサン・ジルの教会堂の建設年代に対応している。この事実に着目した前記の研究者達はブリュイのペトルスの活動がファサードの図像プログラムの形成に間接的な影響を及ぼしたと考えた。つまり反異端のステイトメントを図像プログラムから読み取ろうとするのである。例えばWSタンパンの特徴的な『磔刑』図像は十字架を排斥したブリュイのペトルスに対するアンチテーゼとして解釈される。コーリッシュはロマネスクのタンパンに磔刑図が配されることがほとんど稀である点を指摘し、サン・ジルのそれがブリュイのペトルスの事件を契機として登場したと主張する。[71] 彼女によると十字架の左脇にあってキリストを讃えるローマ兵士の特異な表現は、キリストの受難そのものに対する賛美として理解される。すなわち、これは受難を不名誉な死と考えたブリュイのペトルスに対する反駁であると同時にカトリック教会の正統性の確認とされる。なぜなら、兵士たちの賛美は、彼らと十字架に挟まれて位置しているエクレシア(教会)にも向けられると解釈されるからである。コーリッシュはさらに、南扉口フリーズ・ゾーンの復活に関わる諸場面は受難の救済論的意義を強調すると考えた。これらの諸場面は磔刑図と結びつくことによりキリストの死の神聖さを証し、その必然性を説くものとされている。[72] こうした解釈に対し、J. F. スコットは図像伝統を重視する立場から否定的な見解を示す。彼女は、十字架の両脇にエレクシアとシナゴーガを配する図像がカロリング朝の象牙写本や写本装飾に遡ることを指摘し、サン・ジルの図像プログラムを特定のイデオロギーと結び付けることに疑念を表明した。さらに、磔刑図が復活の場面の上に配置される例として9世紀はじめのナルボンヌの象牙装填板を挙げ、こうした配置を特殊化するコーリッシュの説に対する反証としている。[73] なかんずくスコットが反異端図像プログラム説の最大の難点とみなすのはWMまぐさ『最後の晩餐』についての解釈である。この場面をコーリッシュは、聖体の秘蹟の否定に対するアンチテーゼと解釈し、WMタンパンの図像を「聖餐をキリストの血と肉として受け入れることが、その人の終末における救済と不可分であるということを確認するためのものであり、逆に言えばこの秘蹟を拒む者は厳しい裁きをうけるであろうことを示している」[74]と説明している。しかし、すでに見たようにこの解釈はまぐさの説話的内容を曲解したものであり、到底支持することはできない。 スコットは反異端の図像プログラム説を社会的背景に偏った状況的(circumstatial)な解釈として批判している。[75]筆者もこの見解に基本的に同意するが、磔刑図については態度を保留したい。 スコットは磔刑図の伝統を象牙彫や写本装飾などの小芸術にもとめることでコーリッシュに反論しているが、単に伝統を指摘するだけでは磔刑図がモニュメンタルなタンパン図像に転用された動機(motivation)を説明したことにはならない。スコットが考えるほど異端に対する関心は図像表現と無関係ではなかった。サン・ジルとは文脈が異なるが、ほぼ同時代のボーリュ(Beaulieu-sur-Dordogne)のタンパン[Pl. 49]に異端者の一群とみなされる表現があることは注目に値しよう。『最後の審判』を待つこれらの人々はカタリ派異端特有の奇妙な帽子を被っており、彼らのしぐさは異端者の変節の儀式に対応するものとされる。[76][Pl. 50] 反異端のステイトメントが図像プログラム全体のモチーフとなることはおよそありえない。しかし異端に対する関心がイコノグラフィーの選択に部分的に反映する可能性が全く否定されるわけではない。ただし、-強調すべきことに-サン・ジルの図像プログラムに異端と直接関連した表現はどこにも見られない。 |
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2000/1/23
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