第3章 <<ファサード彫刻の図象学的諸問題>>
2 フリーズ・ゾーンの図像学的考察
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南扉口のフリーズ・ゾーンは共通して復活のエピソードを扱うが、説話的連続性はWSまぐさを除いてかなり不規則である。特にWSl-2からWSl-1にまたがる『ノリ・メ・タンゲレ』[Pls. 30, 31]は、三人の聖女のエピソードを描くWSまぐさの諸場面とは福音書の文脈が異なり、ヨハネ伝を主要な典拠としている。スコットのいうようにWSl-1を転用ブロックとみなすならばキリストに対面する着座の女性像は本来『ノリ・メ・タンゲレ』のマグダラのマリアとして意図されていなかったと見てよいだろう。なぜならこの場面の図像伝統においてマリアを着座であらわすことは考えられないからである。 マリア像に続く場面を従来の研究者はルカ伝7章の『シモンの家のキリスト』としてきた。[Pl.32] 罪ある女がシモンの家でキリストの足を涙でぬらし、自らの髪で拭う説話である。しかし、この場面に関してはヨハネ伝12章に類似した説話があることに注意されたい。すなわち、死から蘇ったベタニヤのラザロの家で彼の妹マリアがイエスの足に香油を塗り自らの髪で拭くという説話である。彼女を避難するイスカリオテのユダに向かってイエスは次のような言葉を述べる。 「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたとともにいるが、私はいつも共にいるわけではない」。(ヨハネ12:7-8) イエスはここで自らの葬りの日(受難による死)について語っている。WSタンパンの『磔刑』を前にして女の行為から意味を汲み取るにはこのテキストを取る方が妥当ではなかろうか。すなわち、ヨハネ伝を典拠としてこの場面を『ベタニアのキリスト』と解釈するならば、中央扉口の『ラザロの復活』との対応関係も指摘できよう。反対に『シモンの家のキリスト』とみなすならば、これらの神学的意義は見失わされてしまう。よって筆者はこの場面を『ベタニヤのキリスト』と同定する。 フリーズの掉尾をなすWSr-1, WSr-2の主題の同定は極めて複雑な問題である。WSr-1で三人の聖女たちは着座の人物と向かい合っているが、この人物をキリストとみるか弟子とみるかで解釈が分かれる。マタイ伝は三人の聖女が復活したキリストと直接出会う場面を記述しているのに対し、ルカ伝では彼女たちは天使の命によって弟子たちにキリストの復活を語るにすぎない。(マルコ伝およびヨハネ伝に該当する場面はない)着座の人物の背後には二人の人物(弟子)が後方WSr-2の人物(キリスト)の出現にたじろぐように身を寄せている。[Pl. 43参照]このまとまりから着座の人物を弟子の一人と解釈することも可能である。しかし、J. F. スコットの指摘するように、この人物に特徴的な凝った飾りをほどこしたえりはWSl-2, WSr-2のキリスト像に共通するものであり、一概に決定することはできない。 R. ハーマンが『昇天』と同定したWSr-2のキリスト像については、ルカ伝24:35-49において復活したキリストは二人の弟子に姿を現す。このとき弟子たちは”恐れ驚き””おじ惑わって”いるが、WSr-1の二人の人物のしぐさはこれに対応している。ハーマンやスコットはキリストが右手を挙げる様子を「祝福を与えるような」 (Segnungsgebaerde, to give blessing)と表現しているが、これはルカ伝の記述からするとキリストが復活した証として自らの手足を示すしぐさともとれる。『昇天』とみなすべき有力な手がかりがない以上、この場面は『弟子たちに姿を現すキリストと解釈する方が妥当ではなかろうか。なお、このキリストの位置はWSl-2の『ノリ・メ・タンゲレ』と対をなしている。
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本節の総括として以下のようなことがまとめられる。フリーズ・ゾーンの不規則性は多くの場合、転入物の挿入・同化によって生じたものある。逆に言うならば全体的かつ最終的な図像プログラムは、説話的連続性を犠牲にしてこれらの転用物を配置することで成立した。転用図像の多くは復活をテーマとしたものであり、ヨハネ伝がその典拠となっている。(『神殿浄化』、『ラザロの復活』、『ノリ・メ・タンゲレ』、『ベタニヤのキリスト』)この事実からフリーズ・ゾーンにおいて復活の神学的意義が強調されていることは明らかであるが、ファサード全体の中心的テーマは『栄光のキリスト』-『神の顕現』(テオファネイア)である。このテーマは受難という史伝的説話と結びつきファサードの要、すなわち中央扉口タンパンにおいて表現されている。
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