第3章 <<ファサード彫刻の図象学的諸問題>>
2 フリーズ・ゾーンの図像学的考察 三つの扉口の内、フリーズ・ゾーンがまとまった統一性を示すのは北扉口である。ここには単一の主題-『エルサレム入城』-が間断なく続く長大な画面で表わされている。すなわち、キリストの率いる一行が右へと漸進し、これを迎え受ける群集が左の動勢を示すことで視線はおのずと彼らが対面するまぐさの場面へと導かれる。扉口全体の枠組はこうした図像学的なまとまりに対応している。
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これに対し、WM1-6に始まる中央扉口のフリーズ・ゾーンは断続する諸場面から形成されている。特に、WM1-6『ユダの裏切りへの報酬』[Pl. 15]、WM1-5『神殿を浄化するキリスト』[Pl. 16]およびWM1-5,4,3にまたがる『ラザロの復活』に関わる二場面(キリストに懇願するマリアとマルタ、ラザロを復活させるキリスト)[Pls. 17, 18]は、それぞれ受難伝全体の文脈から言ってランダムな配置になっている。『ユダの裏切り』は福音書対観によれば『神殿浄化』の後の出来事であるが、ここではそのような説話的順序は考慮されていない。なおかつ、この場面は物理的にも単独のまとまりとなっている。一方、『神殿浄化』と『ラザロの復活』(キリストに懇願するマリアとマルタ)はWM1-5の石板を共通とする場面であり、図像学的には何らかの必然性をもって配置されたと考えられる。示唆的であるのは『ラザロの復活』を記す唯一の福音書であるヨハネ伝がこのエピソードを『神殿浄化』の後に位置付けていることである。この福音書の文脈でみるならば『神殿浄化』と『ラザロの復活』は説話の順序として矛盾のない配置といえる。サン・ジルの『神殿浄化』が伝統的な図像には見られないドラマティックな様相を呈することはその典拠がヨハネ伝であることを示している。なぜなら、ヨハネ伝のテクスト(2:14)のみにキリストが鞭をふるう姿が描写され、追い立てられるひつじや牛の記述が見られるからである。したがってWM1-5,4,3の諸場面はいずれもヨハネ伝を典拠とすると考えてよい。しかしながら『神殿浄化』と『ラザロの復活』には九章もの隔たりがあり、W.ザウアーレンダーが考えたように、これはいささか不自然な併置ともいえる。しかし、J. F. スコットはこのかけ離れた二場面の共通性を『神殿浄化』直後のテクストに見い出した。[53]
ここにはキリスト自身の復活の言及が記されている。すなわち、『神殿浄化』は単なる教訓的説話ではなく、キリストの死後の復活を予徴するするエピソードでもあった。したがってこの場面が復活の予型論的(typological)な伝統的図像である『ラザロの復活と併置されることにはかくたる必然性が認められるのである。この解釈は『キリストに懇願するマリアとマルタ』の場面におけるキリストの言葉によっても裏付けられる。[54]
筆者はこうしたスコットの解釈を積極的に支持するものであるが、これとは別にフリーズの配置に使徒像の位置との関連を見いだしたザウアーレンダーの意見[55]にも留意したい。彼は『神殿浄化』の舞台がエルサレムの神域であることに注目してこの場面をほぼ真下に位置する使徒小ヤコブと結びつけた。キリストの兄弟にしてエルサレムの初代司教とされる小ヤコブのニンブスには次のような銘文が彫り込まれている。「JACOBUS FRATER DOMINI JEROSOLIMITANUS EPISCOPUS」(ヤコブ、主の兄弟、エルサレムの司教)これに続く『ラザロの復活』の二場面はこのエピソードを唯一記す福音記者ヨハネと関連付けられる。さらにザウアーレンダーはWM1-2,1-1『ペテロの否認の予言』[Pls. 19,20]とペテロ像との対応関係も指摘している。『ペテロの否認の予言』は福音書対観によれば『最後の晩餐』の後に位置付けられるが、ここではそれに先行するする位置にある。この不規則な配置はあるいはザウアーレンダーの言うように使徒像の位置に対応させたものかもしれない。しかしながら、主題として重要な『最後の晩餐』をまぐさの位置に配するために説話的秩序を犠牲にすることは十分あり得ることであり、この点から考えて彼の指摘する対応はいささか恣意的なものといえよう。 |
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