第二章 <<ファサードの成立事情>>
2 建設過程
ファサードの構造的な統一性に関する諸問題を初めて指摘したのはR.ド.ラスティリーであった。彼は1902年の研究においてファサードは複数の工期にわたり段階的に完成されたとする見解を打ち出し、建設年代を大きく二期に分けて考えた。この見解によれば段差のある不規則な配置を示すフリーズは後期において追補されるか、作り替えられた要素である。[33] 彼の理論をうけて細部にわたる検証によって補強するよう努力したのが1923年のA. K. ポーター(Arthur Kingsley Porter)の研究である。[34] 彼は工期をはっきりと二分し、中央扉口と脇扉口をそれぞれ異なる工期のものとした。この説によると前期においてファサードには単一の中央扉口のみが計画されていたが、後期に変更を生じて両脇の扉口が追加されたことになる。彼はこの計画を1180年頃とみなした。以後、研究はA. フリシュ(Austin Flish)[35]、M. オベール[36]、P. デシャン(paul Deschamps) [37]に引き継がれるが、彼らはいずれも先行する研究をふまえた上で様式分析を根拠として異なる工期の年代付けをおこなっている。
1934年のR. ハーマンによる論文[38]は彫像の様式的差異のみに注目するのではなく、ファサードの建造法の観点から統一的な原プランの変更を想定し、学界の反響を呼んだ。彼は3つの扉口が使徒像、列柱とともに当初から予定されていたものであると主張し、タンパンとフリーズはプラン変更後に追補されたと推定した。現プランに関して彼は二種類の再現図を提示する。第一図[Fig.2]において扉口をつなぐ長大なフリーズが導入されたことで中央扉口の高さが引き上げられたとする。現在中央扉口の側面から張り出している二対の台座付き独立二重円柱[Pl. 2]はこ
の図では隅切りにおさまっている。従来の推測ではこれらの独立した円柱はロンバルディア風の切妻屋根をもった玄関間[Pl.37参照]の残余物とされてきた。つまり、ファサードを横断する連続レリーフ・ゾーンが計画された際に視覚的な障害となる玄関間は放棄され、これらの円柱が残ったとするわけである。これに対し、ハーマンは円柱台座側面の図像の様式および物理的状態の考察から、円柱は中央扉口隅切りから移動されてきたものであると結論した。彼は円柱の移動にともない使徒像の配置も変わったと考える。すなわち、原プランの中央扉口両脇の壁龕がそれぞれ一つずつ減らされ、円柱のなくなった隅切りに二対ずつ四本の使徒像が配された結果が現在のファサードの配置だとするわけである。この移動で原プランは正面には二つの壁龕が空くことになるがそこには新たに天使像が挿入されたとハーマンは説明している。
彼の推察をさらに発展させた第2図[fig. 3]ではタンパンとまぐさを持たないファサードが推定される。こうした扉口はフランス西南部のポワトゥー、サントンジュ、アンジュー地方においてしばしばみられるものであるが、ハーマンは特にこれを古代の凱旋門のアーチに結びつけた。[Pl. 38参照] つまり、ファサードの原プランは、プロヴァンス地方に多く見られる彫像装飾を持った古代の凱旋門を色濃く反映したものだったと考えるのである。プラン変更はいわば、この外向的とも言える凱旋門の翻案から聖域への導入を強調した中世的扉口(portal)への変化としてとらえられる。すなわち、古代様式に従属していたプロヴァンス地方へより中世的なブルゴーニュ派の影響が浸透した結果、プラン変更が生じたとするのである。天使像の様式、身廊の建築構造に認められる同派の影響はこれを立証するものとして説明される。[39]
ハーマンはこの考えを後年の大部にわたる研究[40]において体系化するが、こうしたプラン変更の方法論はファサードの不規則性の問題に関し様々な強調のされかたをして以後の研究者においても継承されていく。1937年W・ホルン(Walther Horn)、1951年M・グーロン[41]、1973年W・S・ストダード、1977年C・ファーガスンの諸研究は、ファサードの工期や個々の部分の成立に関してそれぞれ立場を異にするが、プラン変更によりファサードの不規則性が生じたと見なす点においては一致している。
こうしたプラン変更説の前提を否定する見解を示すのが近年のA・ボルグ、W・ザウアーレンダーの研究である。ザウアーレンダーは、ファサードの不規則性はハーマンが主張するほど重要なものではないとし、むしろファサードの構造的統一性を強調する。たとえば独立二重円柱についてこれまで美術史家達が機能的な見地から柱の上に何か載っていたと推測してきたのに対し、彼は、建築家の意見を参考にして構造力学の視点からこれを否定している。[42] すなわち、独立二重円柱は純粋に装飾的用途として当所から現在の位置に意図されていたものであり、プラン変更を立証するものとみなすことはできないのである。A・ボルグに至っては「いままで提示されてきた根本的な改造計画のうち根拠のあるものはほとんどない」とさえ言い切っている。[43] 彼はフリーズが扉口の段差によりうまく接合されていないように見え、図像学的にも不明瞭であることに同意するものの、これらの不規則性がプランの変更を証明することにはならないと主張した。
こうした見解をふまえてJ・F・スコットは1981年の論文においてフリーズ・ブロックの個々の物理的相違を詳細に検討し、これらのうちのいくつかが異なる建築装飾からの転用物(spolium)であることを指摘した。彼女によればフリーズの物理的および図像学的に不規則な配置はプラン変更によって生じたものではなく、異なる寸法をもった転用物に対応させて全体の建築システムおよび図像配置が調整された結果なのである。[44] 彼女はこの考えをさらに発展させて、北扉口のまとまった均質性を示すレリーフ・ゾーンはそっくり別の教会堂からの転用物であるとの見解を示している。[45] 彫刻の様式分析を等閑視するこの見解に関してはかなり疑問の余地があるものの、ファサード全体の成立過程を理解する上で彼女の示したフリーズの物理的考察が重要であることは確かである。
次節では、サン・ジルのファサードのモデルとして近年複数の研究者によって指摘されている古代ローマ劇場の前舞台、スカエナエ・フロンス(scaenae frons)を取り上げ、ファサードの「プロト・ルネサンス」的性格について述べる。
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