第二章 <<ファサードの成立事情>>
1 建設年代 フランス・ロマネスク建築の中でもサン・ジルのファサードはその年代規定をめぐってこれまで多くの説が分立してきたことで知られる。ファサードの成立過程をめぐるいわゆる「サン・ジル論争」において研究者たちはファサードの年代に関し異なる三つの立場をとってきた。12世紀前半まで遡るとする説、それより下る12世紀後半と見る説、さらに下って部分的には13世紀初頭と考える説が唱えられ、細かな年代付けでさらに見解が分かれている。先述したように教会堂全体の建設が複数の工期にわたって断続的に進められたうえ、ファサードの竣工を直接立証する文献が残っていないため年代を正確に規定することは難しい。しかし、身廊とクリプトに残る銘文・墓碑銘から教会堂の建設の進展についてある程度の手掛かりを得ることは可能である。したがって教会堂の工事全体の流れからファサードの建設年代をファサードの建築年代を相対的に推測することが問題となる。
1096年、第一回十字軍を決定するクレルモン公会議に向かう途上、教皇ウルバヌス2世はサン・ジルに立ち寄り新しい祭壇を奉献する。R. ハーマンによるとこの前後に新教会堂の建設は始まっている。[23]しかし、12世紀初頭になると修道院の宗主権をめぐるトゥールーズ伯との抗争がおこり工事は中断せざるをえなくなる。教皇パスカリス2世の調停により工事が再開されたのは身廊南の扶壁に残る銘文によると1116年であった。だが、わずか四年後に再びトゥールーズ伯との関係が悪化し、加えて修道士たちがクリュニー派の変革を拒絶した問題から修道院は孤立し工事は再び中断される。その後サン・ジルがクリュニーに恭順を示すようになった1132年に工事は再開されるが、これより1179年までの比較的安定した時期に工事が進展していたことは確実である。1180年以降は封建領主間の闘争やアルビジョワ戦争により工事を集中的かつ組織的にすすめることは困難な状況であった。
ファサードが身廊と有機的な構造連関を持つ要素である以上、これらの上部構造の建設は並行的に進められたと考える方が妥当ではなかろうか。例えば三連扉口は三廊形式に対応するものであり、脇扉口を付加的なものとして中央扉口より年代を遅らせる説には少なからず無理がある。一部の研究者のようにファサードの年代のみを1180年から1240年の間まで下らせるのは全体の建設過程として不自然と言えるし、アルルのサン・トロフィーム(12世紀末)との様式的な比較から考えてもかなり疑問に思える。
クリプトの西壁には1142年の日付けのある三種類の墓碑銘が記されており、今世紀初頭にR. ド・ラスティリー(Robert de Lasteyrie)は、この年代から推定してクリプトの上部構造であるファサードは12世紀後半に建設されたと考えられた。[25]しかし、M. シャピロ(Myer Schapiro)は、この墓碑銘がクリプト建立直後、ファサードの彫刻が製作される直前に壁に刻み付けられたことを証明するものが何もないためこの年代を頼ることが困難であることを指摘している。そのうえで彼は教会の過去帳を参照することによりクリプトに残る三種の墓碑銘を1129年に死亡したとされる人物と結び付け、クリプトひいてはファサードの年代を遡らせる根拠を提示した。[26]一方、シャピロとほぼ同時期にM. グーロン(Marcel Gouron)は、サン・ジルの使途像のうち二体に刻まれているブルヌス(Brunus)という作者の署名に留意し「木彫および石彫の親方ペトルス・ブルヌス」なる人物の活動を跡づけた。このペトルス・ブルヌスは1157年と1171年にサンジルで、1165年と1186年にはニームにおいて公文書に記録されている。[27]したがって少なくとも使徒像の配されるファサード下部の彫刻装飾は12世紀後半まで下ることになる。M. オベール(Marcel Aubert)はこれをうけて使徒像は1160年から1170年頃のものであるとする自説を補強するとともにR. ハーマンのプラン変更説(ハーマン自身はファサードを12世紀前半と見る)を応用し、タンパン・フリーズをプラン変更後の要素として使徒像に遅れる12世紀末から13世紀初頭に位置付けた。[28]しかし、ペトルス・ブルヌスをサン・ジルの彫像の作者ブルヌスと同一視することに懐疑的な研究者も多い。ファサードの年代をより早く位置付けるW. S. ストダードはM. コーリシュの反異端図像プログラム説をその主要な根拠とする。この説の解釈によればタンパン・フリーズの彫刻が製作されたのは1140年代であり使徒像はこれに先行する。[29]A. ボルグ(Alan Borg)はストダードと同じく反異端の図像プログラム説を指示するもののファサードの彫刻装飾は1150年代を溯らないとの見解を示している。[30]一方、C. ファーガスンは独自の十字軍顕彰図像プログラム説から第二回十字軍と関連づけてストダードと同様の年代を導きだしている。[31]しかし、彼らの図像解釈には後述するようにかなり問題があるため、これを根拠とする年代をそのまま支持することはできない。
筆者は、M. グーロンのペトルス・ブルヌスに関する立証と図像解釈を除くA. ボルグの考古学的見解をうけて1150年から1170年頃の間にファサードの彫刻装飾の年代を措定する立場をとる。ただし、脇扉口を含めたタンパン・フリーズが当初から意図されていたとするW. サウアーレンダーの説[32]を考慮して全体の彫刻装飾は段階的にせよこの時期に集中して完成されたものと見なす。ザウアーレンダー、ボルグを除くプラン変更を前提とした従来の学説の多くは、建築構造及び図像配置の不規則性を説明するためにファサードの成立過程を段階的に分け、それぞれにことなる工期をあてはめてきた。これに対する反論も含め、次節ではファサードの建設過程に関する諸説をまとめる。
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