山本君の京都・奈良旅行記 1989/4
(イラストは山本君画)
法界寺
PM 2:10
法界寺は、訪れる人もあまり多くない。平日ということもあって、僕とおばさん一人しかいなかった。住職の奥さんが懐中電燈で柱絵や壁画の飛天を照らして解説してくれた。ここから平等院まではさほど遠くない。薬師如来は秘仏でみれない。
PM 3:10
宇治木端駅に着く。電車はたった今出たばかりである。ホームには誰もいない。正面の土手には矢車草が咲いている。蒸し暑いくらいの陽気、五月頃の気温であろうか。平等院へ行くつもりが、あいにくと水野先生の本を持ってこなかった。
グールドのピアノを聞いている。ここ2週間程これしか聞いていない。昨日夜までせきが出てとまらなかったが今日はそんなことはない。頭があいかわらずかゆい。風が南から吹いてくる。茶畑がところどころにある。茶を摘むのは6月頃だったろうか?宇治茶をおみやげに買っていこうにも、家の人は茶をのまない。平等院にいくのはこれで3度目だ。
法界寺の阿弥陀は平等院のそれとは頭部の作風がかなり違う。寺伝の定朝作というのにはあまり信頼がおけない。しかしいわゆる定朝様であることはまちがいない。
平等院
百花繚乱、しだれ桜と青もみじ越しに鳳凰堂を見る。五月にはつつじが咲くことだろう。花曇りの太陽は、鳳凰堂のほぼ上空にある。はるばる来たかいがあったと思う。
建築は西を背にしているので、夕日の方向に鳳凰堂を見るわけだ。
西方極楽浄土 南無阿弥陀仏
−中略−
合掌すると自分の手が暖かいことに気付く。花の美しさに注意するようになると女の人の美しさに敏感になる。春のおだやかさは、なぜか無常を思わせる。
天蓋にはこうろや垂れ飾りが装飾としてさげられていたらしい。箱型天蓋の正面左右の隅から鉄の棒が垂れているが、もとは四隅から垂れていたもので、おそらくこれに張りめぐらしていたと思われる。
「今昔物語集」に興福寺金堂の天蓋を定朝がつくった話がある。
浄瑠璃寺(真言律宗)
本堂(もとは檜皮葺、江戸時代より瓦葺)は、九体阿弥陀堂の中で唯一の遺構、桁行九間の内陣の各間に一駆ずつ阿弥陀佛を配す。これと対応して板戸を設ける。平行した尊像は、正面観を強く意識した浄土観想のためのもの。池をはさんだ小さな三重塔には秘仏の薬師如来をおさめる。(毎月八日に開扉)。脇像が中尊と同時の造立か否かについては説が別れる。
朝日は三重塔の中心からのぼり、九体阿弥陀堂の中心に沈む。
須弥台が長方形であり、それほど高くはないが諸尊の座する蓮華座は1mほどの仕切りによって座った位置からは隠れてほとんど見えない。中尊にも天蓋は当初からついていなかったものと思われる。九体の佛、平並、ややもすると連続的な平面性が強調され統一感にかける危険性があるが、各像がそれぞれ柱で区切られた九間幅の内陣空間をもっているために、緊密な統一空間構成を保っている。九体佛と九体阿弥陀像は、切り離して考えられないと言える。(本来、堂の中には入れなかった。堂は廚子の役割、本来は外から礼拝していた)
西方浄土−極楽浄土
東方浄土−瑠璃浄土
(つづく)
宝池をはさんで東方浄土の教主薬師佛と西方浄土の教主来迎佛である阿弥陀佛とが向かい合う。まず東の薬師佛に苦悩の救済を願い、その前で振り返って池越しに彼岸の阿弥陀佛に来迎を願うのが本来の礼拝の形であるという。
法成寺(藤原道長造立)の場合は東に七体の薬師如来を祀り、西の九体の阿弥陀佛と向き合わせた。奈良法隆寺金堂では南面に東に薬師、中央に釈迦、西に阿弥陀の三如来が配置される。
脇待仏の光景は、無彩(茶のみ)宝相華文が彫られているがこれは当初のものだろうか?
吉祥天女(鎌倉)は、彩色がすこぶるよく残る。典型的な唐美人といえるだろう。色の白さ、ふくよかなほほ、涼しげなまなざし、上品な口もと、上腕のふっくらした肉付き、きゅっとしまった手首、細くしなやかな指先。衣服(瓔珞、あかね色の上衣、棕櫚彩色のそで、白い帯)の絵画的魅力もさることながら、彫刻的に自然な比例がこの作品の豊かさを引き立てている。しかし、この比例は生身の人間のものではなく、理想化されたものである。
厨子と扉の絵画(現在は模写)空間、扉絵は芸大の資料館にある。今日も快晴、境内は桜、木蓮、菜の花。
興福寺
十大弟子、八部衆像、天平時代、乾漆。
光明皇后が母、橘三千代の追福のために西金堂を建設、諸像を安置。
脱活乾漆
心木に土をつけて像の形を塑像し、麻布を漆で貼り重ねる(5〜6枚)。後頭部、背面を大きく長方形に切り取り土をかき出し、心木、木枠を組み入れ、切り取った部分を再び縫い合わせる。像の表面に、乾漆(麦漆に木粉)を全体に塗って仕上げる。白鳳時代の遺品には当麻寺の四天王寺がある。脱活乾漆は麻布を貼り重ねるわけであるから塑像の場合と違い仕上げに鋭さが出せない。
十大弟子
諸像は州浜座と呼ばれる岩をかたどった台座の上に立っている。
(富僂那 ふるな)
弁舌に巧みであったといい、説法第一人の人とされたらしい。手の仕草も顔の表情も何かを語りかけているようである。体は痩せており胸に見える骨筋、目じりの皺も彼の年齢を高く見せる。左手から流れ出る衣文は像の緊張感と統一感を高める。大衣の膝下あたりに後補のあと(?)が二箇所ばかりある。緑青と朱の跡が部分的に残っている。
(つづく)
興福寺
羅ご羅 (らごら)
釈迦が出家前にもうけた子。戒行(密行、忍辱)第一の人。頭部、胸部に黄土の美彩、朱の僧祀支の色彩がよく残る。目を閉じ、眉をひそめる瞑想組、求心的な衣文、表現、耳から顎にかけてのモデリングははっきりしない。
須菩提 (すぼだい)
解空第一の人。右手で袖の端を持つ。童顔であどけない。ふっくらとしたほほ、小さな鼻、切長の一重の目、眉はわずかに起伏するのみ。
阿修羅 (あしゅら)
かなりの細身、胴は長く手、足も細長い。六本の腕は左右対称、合掌し、手を仰ぎ中空で前方に向けられる。M先生は祈りの情景の造形という。合掌する腕のもつ求心性が中の両腕の中空に浮いた不安定な力の流れをうけとめ、上腕の二方向へ分岐させ、祈りの情念を上空に発する。
体に比して小さな頭部は三面というプロポーション上の調和の問題を考慮したものであろうか。
沙か羅(さから)、迦楼羅(かるら)
武具をまとうがいかめしい感じはなく、沙か羅(さから)は童顔で迦楼羅(かるら)は鳥頭でどちらもかわいらしい。迦楼羅の左手首は欠損しているが、漆皮と心棒のつくりが断面状でよくわかる。五部浄は上半身のみ。中空構造がよくわかる。懐中電燈紛失。
八部衆
仏教以前のインドの神々。阿修羅以外甲(よろい)を着ている。諸像のひだのまとめ方は、容姿の老若や表情に応じている。
東大寺
金剛力士像修復中。治承の兵火による焼失後の再建は勧進上人重源によって推し進められ、宗の鋳師、陳和卿をまねいて大仏の鋳造に当たらせた。陳和卿は木工事にも経験が深かったと見え、重源は彼を惣大工とした。
7, 8世紀以来、中国の影響を受けることなく進んできたわが国の建築界に再び中国の様式が入った。
宗様式(天竺様)-大仏様という
|-法華堂(正堂)
奈良時代−|-転害門
|-正倉院宝庫|-南大門
鎌倉時代−|-法華堂(礼堂)
|-二月堂付属の建物奈良YHは設備が大変立派。研修の団体が数団来ている他、ホステラーは僕を含めて2.3人。僕は個室をあてられた。4人部屋なのだが僕一人。奈良は京都と比べるとやはり田舎という感じがする。
花の種類をもっと知っていればと思う。
鳥の種類をもっと知っていればと思う。
-以下省略-
法隆寺
経楼の白壁が目に鮮やか。五重の塔と金堂の見目麗しさ、連子窓のすずしげな様、甍の重なりは心地よい階調。
五重の塔内の塑像群、懐中電灯があまり役に立たない。異時同図法。回廊の連子窓と壁と垂木との間に隙間があるのはなぜだろうか?
本生潭
|-維摩詰像士(東面)
|-浬檠像士
|-分舎利佛士
|-弥勒佛士塑像技法の起源−ガンダーラ
藁や木、或いは石を中心とし、動物や植物の繊維をつなぎに混ぜた粘土で形づくる技法。(随、唐代に最盛期)
北面の七体の比丘像は少し後(八世紀始めに作られたとする説もある)。五十嵐君と会う。奇遇なり。
−中略−