<<芸術作品の理解についての若干の覚え書>>
-----美術史を学ぶ者の立場から-----
山本和寛著
永遠の賜より
---美術作品に対する文学的、心理的な解釈は生来の受容理論というべきものであり、恣意的な論述を可能にする。---
ある才気あふれる感性を持った批評家が指摘するこの傾向は、とかく情緒的解釈の蔓延しやすい日本人によくみられることだといわねばならない。芸術作品(特に造形芸術)に対し、いわゆる趣味人として近づく人々は大別して二つの型に分けられる。
”芸術を生活世界から切り離し”「リッチな気分」を味わうための手段と見なす人々、彼らにとって美術館とは格好のデート・コースとなりうる。芸術に関する情報をファッションと同一視する彼らが”通”化するといわゆるディレッタント(教養俗物)というべきものになる。
彼らに比べるなら第二の型に属する人々は、もっと単純なほうだといわねばならない。
この人々は感性と知識の欠如によって理解できない作品を理解できないといういらだちから意味、価値を有さない作品と同一視する。彼らにとって芸術的価値とは個人の判断にゆだねられるものであり、作品の解釈とは個人の心理状況に還元しなければならないのである。彼らは、”見る人がいいと思ったなら、ミケランジェロの彫刻だろうが、ピカソの彫刻だろうがどんな彫刻だろうが、等しく芸術なのだ”と「芸術の民主主義」を高らかに宣言するわけである。
これら二つの型の人々はいずれも趣味という恣意的な受容者中心主義に立脚しているため芸術を恣意的なものと見なす点において一致する。したがって彼らに受け入れられやすいのは文学的、心理的な解釈なのである。ディレッタントは別として芸術の素朴な受容者であるこれらの趣味人達とはやや異なるのが作者中心主義に立脚する人々である。彼は制作という行為の向こう側から与える者としての絶対性を主張し、与えられる側の恣意性を否定するのである。
彼らは個性とか表現という言葉を好んで用いる。彼らにとって芸術的価値とは”個性がどれだけ表現されているのか”ということで決まるのである。したがって彼らは与える側=作者の恣意性は確保しようとする。趣味人達と立場の違いこそあれ彼らも同じく”芸術的価値とは個人(作者)の判断にゆだねられるものであり、作品の解釈とは個人の心理状況に還元しなければならない”のであり、この点において趣味人達と変わるところはない。彼らが提唱する”個性が表現されれば何でもアート!”は新奇性のみを追求する軽薄な人々の合い言葉である。彼らも芸術における恣意性を重視するため文学的、心理学的解釈を好んで利用するのである。実際、趣味人達がこういった解釈の受容者となって両者が癒着しあうという状況さえ生み出している。文学的、心理的解釈は解釈者による文学的表現、作者と受容者への心理分析を深めれば、深めていくほど対象となる作品から離れていくという逆説をもちあわせている。文学的表現それ自体で作品になりうるという可能性は秘めてはいるものの、それは対象となる作品とは異なる価値に到達することなのであり、対象とする作品価値の理解を深めることとは別である。(希な才能による両方の実現はあるにしても)形と色という、言語とは別の媒体からなる美術作品において、作品構造に内在する価値こそが芸術としての作品を規定し、成立させるものであり、この逆説から生じる恣意性と作品の内在価値とは相容れないものである。したがって、文学的、心理的解釈から生じる恣意性を排した作品価値の理解を深める論述の必要性があるのだ。
この論述はまず第一に作品の構造分析を中心に展開せねばならない。作者の意図、受容者の印象等はあくまでも作品を条件づけるものにすぎないのだ。いわば、作品中心主義ともいえるこの立場をとるとき作品の解釈は必然的に作品に還元されるべきである。確かに、芸術体験成立には作者、作品、受容者のすべてが必須条件である。しかし、芸術的体験理解においては作品は条件ではなく対象なのであり作品分析を深めることでより深い価値を持ったさらなる芸術体験成立が可能となるのである。特に、美術(造形芸術)の場合、表現者自体が作品化する演劇、舞踏や非存在現象として作品が空間に生起する音楽や文学と異なり、作品が存在する限りにおいて物質的に独立した対象を形作っていることに特色があるとさえいえるのであり、作品は対象として開かれているのである。
さて、私は芸術体験成立と芸術体験理解とを区別したが、この間には時というものが介在している。
<<あらゆる学(science)は時間という老人の娘である>>といったのはエドガァ・アラン・ポォであるが、要するに生き生きとした体験が終わった後、来し方行く末を体験の外からみつめ、省察し始めた時に学は成立するということであろう。ピエト・モンドリアンは自伝的評論の中で三人の人物X(自然主義の画家)、Y(美術愛好家)、Z(抽象的現実的(abstract
real)な画家)に次のような対話をさせている。
Y-古いものは建築では長期にわたって残る・・・・・、
Z-そう、建物に何事も起こらなければね。
Y-建築は私をまったく「別の」時代に連れ戻してくれる・・・それもなんと美しいことか!
Z-たしかに。いうならば最初の美的感動がさめると「以前の考え」がよみがえってくるのだ。「私たち」がもはや持たないような「様式」形態を見るようになる。様式形態というものは多かれ少なかれ「記述的」なのだ。
X-しかし、記述的なものが美しいということがあり得るのか。
Z-美しいということもあり得るが、「純粋に造形な」美は記述によって損なわれてしまう。
Z(モンドリアン)はいみじくも学による芸術への考察の持つ側面を示唆している。芸術体験に対する学としての考察はプラトン以来、芸術に何らかの意味を付与しようとする哲学的言表行為=美学として展開してきた。しかしながら学者が言語による全体の構築を志向しようとするならば、「美」という多義的で心理的な表象をめぐっての閉鎖的体系の組み立てに終止することになるのは必然である。ここに、全体のためでは記述のために言語を駆使し、芸術体験ではなく芸術作品を対象とする学があらわれる。この学は哲学(philosophie=愛知)という自己愛的な学とは異なり、全体よりも個別的な事象を対象とし、分析・実証・帰納するがゆえに科学(science)の一つに数えられる。科学は対象と方法によって三つの領域に分類される。自然、人文、社会の諸科学である。(工学は常に目的と結びついた技術であり、対象の本質の探究である科学からはこの場合除外する。)
自然科学が自然現象を扱うのに対し、人文科学は人間の行為や創作物を扱う。この相違は方法の相違にもつながるものである。自然現象と異なり人間の行為や創作物は総合的・主観的性格をもった精神活動を要求する。すなわち人文科学者は精神的にその行為を再演し、その創作物を再創造しなければならないのである。事実、このような過程をおしすすめて初めて人文科学の真の対象が生じてくるのである。芸術作品を「美的に経験されることを求める人造物」と定義するとき、芸術作品を対象とする人文科学者は芸術作品の価値を経験によって、「実感」してはじめて対象化が可能となるのである。英語のknowledgeとlearningとのあいだには微妙な相違がある。精神的所有を示すknowledgeは自然科学と同一視することができよう。
人文科学の対象である人間の創作物は時間の流れから浮かびあがって意味をなす限りにおいて記録である。周知のようにルネッサンスは古代ギリシア・ローマの文化を再復活(renaissance)させたのでありルネッサンスの人文主義者達は古代の文献・遺物を記録として熱心に解読研究した。つまり、人文科学者にとって記録とは時間の流れの中にあって自立的、永続的な価値を有するものなのである。自然科学者にとって記録、すなわち先人の研究とはすでに現在の前提となってしまったものであってそれ自体を自立的対象として研究するわけではない。社会科学は社会という有機的連関からなる共同体の機能とその因果的結果としての事件・事象を研究対象とする。したがって、社会科学にとって文化的形成物としての記録は時代から浮かびあがって意味をなすという限りの価値は有するが、研究対象自体ではなく、研究を実証する資料にすぎない。しかし、人文科学にとって研究目的とは本来、人間の知的、感性的活動である文化の価値の解明と再発見なのであり、時間の流れを通じて”文化の形成物である”記録自体が研究対象となるのである。
人文科学の一分野である美術史学はこの対象としての記録に美術作品を選んだのである。美術作品とは過去に形成されたものであっても、それに接して芸術体験をするならば、それは生き生きとした現在の体験なのであって、過去の(死んでしまった)体験なのではない。したがって芸術作品は時の流れから浮かびあがってきて意味をなす何らかの価値をもった記録と見なすことはできる。しかし、芸術作品を記録として扱おうとするとき、作品を省察しはじめたときに彼は芸術体験の外にいるのであって彼の行う記述=学とは”時間という老人の娘”なのである。方法の違いこそあれ、美術史学は「様式形態」というものに注目し、「時代様式」なるものを想定し導き出そうとする。ところが、この「時代様式」が既製のものになると、個々の芸術作品をその様式に還元しようと企てる傾向が生じる。ここにおいて作品の記述は作品に内在する価値ではなく時代精神における価値を説明するものへと変貌するのである。記録として対象化されるはずであった作品は学によって経験の外から記述されるときに必然的に研究資料となってしまう危険性をはらむ。美術史学の社会科学化ともいうべきこの傾向は芸術を対象とする人文諸科学に共通する矛盾でもある。社会科学は有機的連関からなる共同体の機能とその因果的結果としての事件、事象を研究対象とするがゆえに、個々の記録の価値は資料としての価値となって共同体に還元される。しかし、芸術作品には内在する自律的な価値があるがゆえに芸術として成り立ちうるのであってその価値はあくまで作品に還元せねばならないのである。過去において成立した共同体を現在において観察すること、過去に起こった事件、事象を現在において体験することは不可能である。
なぜなら共同体=社会を形成するのは可変的な人間であり、事件、事象は一回性のものだからである。しかし、人間によって創作された形成物である作品は過去においても現在においても常に意味を有し、一定の芸術体験を意図して形成されているのであって優れた作品には、普遍的な価値が内在しているのであり、人はそれを感性と知識によって時代を通じて体験しうるのである。15世紀イタリアの市民社会を現出させ体験することは不可能である。それは記述することしかできない。しかし、15世紀イタリアで制作されたボッティチェルリの芸術作品は現在においても体験可能なのである。
人文科学は作品を記録化し、記述する作業を通じて作品に内在する価値を一定の「関係の枠組み」内において位置付け、相対化することに務めてきた。確かにこの「関係の枠組み」はあらゆる科学の基礎となるものである。物理学者がある一定の事象を選択し、条件付けることによって定理を導き出すように人文科学者も時代や地域という条件付けなしには記録を関係付けることはできないのである。
パノフスキーのいうように1400年という年はヴェネツィアではフィレンチェにおけるのとは別のものを意味しているのであり、また、ある黒人の彫刻が1510年に作られたということを知ったとしても、それがミケランジェロのシスティナ礼拝堂の作品をある一定の枠組内で関連づけることによって人文科学は多くの発見をなしとげ、我々の視野を拡大し、多様な価値の存在を明らかにしてきたといえよう。しかし、一方で作品に内在する価値を一定の枠組内における価値のみに還元することは作品価値の相対主義と作品の相対主義と作品の資料化をもたらしたのである。
アラン・フィンケルクロートは次のように述べている。
「学問は真理を独占しているわけではない。偉大な小説が単なる記録とは違うのは小説がただ単に歴史家にとっての研究材料なのではなく、それ自体世界と生の探求だからである。ところがゲーテの後150年にして大学は小説を記録文書に格下げし発生の時期を形成された地域から解放される特権を定理にしか認めないようになる。」<思考の敗北-相対性の教育より>
「最後の審判」は<ミケランジェロによる16世紀のローマの絵画である>前に「最後の審判」という「価値を持った作品」なのである。
<<芸術は恣意的なものではない。しかし相対的なものである>>人文科学のとなえるこの命題を認めつつも芸術を研究し記述する以前に体験するものとして我々はこういわねばならない。
<<芸術とは相対的なものである。しかし、芸術作品固有の価値とは時代、地域、個性による差異の発見がこの交流の意味を涸らしてしまわないところにあるのだ。>>と。
1988.10.9
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