バッハのカンタータおよびニーチェのツァラトウストラのキリスト教

(前編)

  山本和寛著

  永遠の賜 36-44 ページその1



 たとえば、われわれの眼前で精緻な演劇が演ぜられているとしよう。ある人にとっては、舞台背景が著しく興味を引いたとみえてあのセットは何でできているだの照明がどうだのとそんなことばかり言っている。ある人は演劇の脚本を持ちこんで俳優のせりふをいちいち確認して納得している。
ある人は自分が俳優になった舞台に立ってみない限り演劇なんて判りっこないんだと思って見ている。
ある人は主人公に共感するあまり、舞台にかけ上がり悪役をポカリとなぐりつける。
彼らは、演劇の見方に関してずいぶんと野暮だと思わない?
まあ、そういうことだ。
 先日音楽学部バッハカンタータクラブの定期演奏会に行った。BWV47「おのれを高くするものは低められ」はルカによる福音書14章1節によるものだが、冒頭、弦とオーボエが互いに呼びかけと応答をおこなう時、半音下降による特徴的な音形「ため息の動機(モティーフ)」が何度も表れる。


 楽理科の人の解説によると、これはおごり高ぶる人間の所業を神が嘆いているのを表しているのだそうだ。
 続く合唱はルカ・第14章第11節がそのまま歌詞として用いられるのだが、フーガのテーマ「自らを高めるものは」の部分で蛇(悪魔の化身)のようにうねりながら上行し、「低められる」の部分で下行する音形から成り互いに主導権を奪いながら曲を導いていく、そして最後に全声部が「自らを低める者は高くされる」と歌いながら曲を閉じるわけである。
 BWV11「その御国にて主を誉めたたえよ」はカンタータなのにエヴァンゲリスト(福音史家)付きである。イエスが復活した後に弟子達に現れ、再び去っていくマルコ、ルカによる福音書および、使徒行伝の記述をもとにしている。残念ながら私はドイツ語はさっぱりなので訳を見ながら聞くしかないのだが、悲しみと希望にあふれた音楽と文章にけっこう感動した。
 バッハゆかりのライプツィヒ聖トーマス教会のカントルをしていたクルト・トーマス氏が来日した時、バッハのカンタータを演奏して欲しいという日本人関係者に対し、トーマス氏はなかなか首を縦に振らなかった。
 ”キリスト教国でない日本の聴衆にカンタータの意味も本当の美しさも分かるはずがない”と思ったのだそうだ。
 カール・リヒターは生前演奏会場での拍手というものに違和感を感じ、ほとんどとまどいさえ見せていたという。自分が何時間にもわたって築きあげた聖なる世界が終演後の拍手により一挙に崩れさり、世俗の世界にいきなりほうり出される気がしたと語っている。本来教会で演奏されるべき宗教音楽がコンサート・ホールで無神論者の聴衆達に拍手されるというのは考えてみれば奇異なことである。しかし、そういった聴衆達がマタイ受難のあるフレーズに接して涙するのはなぜであろうか。それはやはり、この曲に宗教的理解を超えたあるメッセージが含まれているからだと 思う。アンコールでBWV147珠玉の「主よ、人の望みの喜びよ」が演奏された後、しばしの沈黙があった。私はこの時に音楽の至福を味わったと思う。閉鎖された空間から出て外の喧噪に身をまかせると妙にうつろな気がしたのをおぼえている。
君には話したと思うが私はキリスト教徒の家庭に育ち、長ずるにつれその教えに挫折していった人間である。
 「ツァラトゥストラはこういった」を読了後思ったことはこの思想が恐ろしいところまでキリスト教的世界観に根ざし、それを超克しようと意図していることであった。むろん、本質的な批判はイエスその人より、カトリシズム、プロテスタンティズムに向けられたものであるが。
君はおそらく無神論者としての観点でこの本を読んだことであろうが実証主義的唯物論から「神は死んだ」の語が出たと思ってはおよそ見当違いのものであることは君もうすうす感じていると思う。この語はもっと深い意図を持っているのだ。確かに宗教に対して無知であってもこの本は読めるであろう。しかし、絶対にそれは誤解をまぬがれえない。この本は明らかに読者がキリスト教的宗教感情をふまえていることを前提としている。このことについて詳しく書こうと思ったらきりがないがこの思想を肯定するにせよ否定するにせよ(いずれにせよそれはナンセンスだが)この前提条件だけは強く私の印象に残った。
 君に対して失礼かもしれないが、生まれついての無神論者である君がどこまでこのことを理解しているかははっきり言って疑問である。
なにも私は信仰を持った人(過去であるにせよ)しかこの書を読めないなどと言っているのではない。信仰がなくても宗教はある程度まで理解できるのだから、ただ、君がそう言ったことを無視したり、鼻からあきらめてかかってこの書を理解したつもりになる危険性を僭越ながらしておきたいだけである。
 しかし、ニーチェはこれらの条件を抜きにしてもすごい思想家だね。
第一部”山の上の木”のニヒリズムの底からはいあがろうとする努力は涙ぐましいものがあると思う。自分の思想の危険性をここまで理解して示す思想家は他にいないのではないか。ニーチェは同情は否定していても愛は否定していない。君は前の手紙でツァラトウストラの「ドイツ的野暮」を言ったが”千の目標と一つの目標”をもう一度読んでみることを僕はすすめる。”贈り与える徳”で「善とか悪とかいうあらゆる名称は比喩なのだ。これらは何も語らない。ただ目くばせしている。名称を知り究めようとするものは愚か者だ。」と言っているが、これは美についてもあてはまると思う。私がかつて「善く生きる」を批判したのも、もしそれが道徳感情に根ざす素朴な考えからきているならロマンチックだと思ったからである。(君は別の方向に受け取ったようだが。)第二部”聖職者達”には「ただ美だけが、懺悔を勧める資格がある。」と出ているがこれも一理あるのではないか。
 最も醜い人間は「一切を見た神、人間そのものをも見た神。このような神は死なねばならなかった!人間は、そのような目撃者が生きていることに堪えることができない。」と叫んでいるがこれはキリスト教的罪悪感をうまく表現していると思う。
ツァラトウストラは徹底したエリート思想だね。大衆に対する敏感な反応においてニーチェは偉大な先駆者だと思う。
もっともこれはファシスト達に利用されるところとなるが。
”新しい偶像”に示されるツァラトウストラの国家観を”国家社会主義ドイツ労働者党”(Nazi)という妙ちきりんな名前の政党の党首は知っていたのだろうか。ニーチェの予言者的卓見は恐ろしいほど的中している。
「神は死んだ」をもてはやす実証主義的無神論者達は第二部”教養の国”を心して読まねばなるまい。私が君に小市民的発想といういささかきつい言葉を送ったのは”小さくする美徳”を読んだはずの君が何のためらいもなくああいう考え方を持ち出したことに驚いたからであり立場うんぬんの次元ではないことを理解してもらいたい。
第四部”憂鬱の歌”は明らかにニーチェの自嘲と思われる。「精神とは、自らの生命(いのち)に切り込む生命である」とするツァラトゥストラの言葉が何よりも私には強く響くものであった。
 超人から永劫回帰へのモチーフの展開がツァラトゥストラの重要なポイントといえるが、やはり、永遠という概念に対する異常な執着は西欧的なものといえよう。ただ、キリスト教的世界観においてはそれが現世から来世への一方向に貫ぬかれていたのが、ニーチェにおいて、円環的なものへと変わったのが目新しいのである。しかし、ツァラトゥストラ訳者の氷上英廣氏の指摘するように最小の人間もまた永劫回帰するということは超人思想の足もとをすくうことになりこのへんがキリスト教的世界観から出発したニーチェの限界のように思われる。仏教の輪廻・解脱がこれとどのように対応するかは興味のあるところである。(ニーチェは晩年仏教に興味を示していたらしいね。)

 私はどちらかというと育った土壌がキリスト教的なのでニーチェの思想は分かりやすい。君の言うような日本の思想伝統などはあまり持ちあわせていないのでかえってそちらの方に疎外感を感じてしまう。そういった意味では帰国子女的なところがある。ただ、どちらも我々が考えているほど浅いものではないのでどちらかにつっこめばつっこむほど深く引き寄せられていって当然だと思う。君が仏教思想に興味を持つのはけっこうだと思うし、その方面から私を刺激していってほしいと思う。


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