山本和寛著

永遠の賜 32-35ページ




 試験で忙しい最中に君を煩わすことは私の本意ではない。また、仏教思想に興味を持ち始めたらしい君に、あえて、こういった極めて西洋的ともいえる(しかし、現代的な)思考を強いることは君にとって迷惑なことかもしれないと躊躇してはいる。

 しかし、あえてアドルノについて再度言及することを許してほしい。「表層批評」はできるならしてほしくなかった。
 しかし、君の返事に接して、再度、読み直し、理解したことが多くあった。この論文は戦後提出されたものでもその提言の重要性において最近とみに再検討がなされているものだ。
 批判的に受けとめるにせよ、読解なしに表層だけで通りすぎるにはあまりにも深刻な問題提起を私は感じているのだが。

 単に現代思想というだけで毛ぎらいすることなく君にも考えてもらいたい重要な論文である。冒頭に余計な書き込みをしたことがあるいは誤解をまねいたかもしれないが、動くものうつろいゆくものとは歴史的現象のことである。いうまでもここで論題となるアウシュビッツは歴史的事実(しかもわずか40年前の)である。

 こうしたものが永遠なる理念とは無関係ではないということをアドルノは冒頭で述べているのである。君の文面を読むと一見アドルノに理解を示しているようでいて、歴史的に過去のものであるとして距離を置いているのが見て取れる。(・・・・私には戦争体験などないし・・・・)この距離がなくならない限りアドルノは理解できないであろう。

 言っておくがアドルノはユダヤ人であるが、大戦中はアメリカに亡命してぬくぬくと生きのびたのである。

 彼はアウシュヴィッツの当事者でない点で我々と何ら異なっていない。

 アウシュヴィッツの記録に接すれば誰しもが戦慄をおぼえるであろう。そしていま、自分がこの魔手に関わらないで生きていることに密かに安心しつつも多少なりとも妙な呵責を感じるのではなかろうか。

 アドルノは極度に敏感な感受性で自分の精神とひきかえにこれをえぐってみせたのである。それは単に主観的な独白ではない。いっさいの出来事の後(すなわち現在)だからこそ、客観的な契機をもって我々に関わってくることなのだ(P38下l10)

 西洋形而上学が正・反・合の弁証法のスタイルをとることにより、常に肯定的実践(すなわち進歩)の思想をうながし、西洋近代を導いてきたことは我々非ヨーロッパ人の想像以上に強固な事実であるようだ。非同一的なものの抹殺によるイデオロギーが理性を利用するとどういうことになるのか。これが徹底化された形で示されたのがアウシュヴィッツなのである。形而上学を最も栄えさせたドイツ人によってこれが成し遂げられたことを無視すべきではない。

 この虐殺は単なる野蛮とは異なる。

 徹底したイデオロギー(一民族を完全に地上から抹殺すること)に貫かれたものであり、作業として殺人工場が機能したのである。この結果としての西欧における異常なまでの形而上学アレルギーは理解されねばならないと思う。日本において形而上学の根が浅かったのは良きにつけ悪しきにつけ確かだろう。南京大虐殺はアウシュビッツと比べるなら、やはり、性格的に異なるのではなかろうか。

 しかし、このアレルギーがないことがそのまま、戦後の反省を欠く安直な姿勢につながっているように私には思えるのだが。

 もちろん、形而上学のみを批判するには原因は複雑を極めているのであろうが、私の実践のための反省としての哲学、思想を君は述べるが確かに個人の実践において形而学批判をしてみたところで大した意味あいはないだろう。問題は社会全体がこうしたスタイルにはまっていくことである。私がヴィトゲンシュタインを引用したことを後になって失敗だったと思ったのはこの点での誤解を招いたからだ。(君は脱構築を始めとする現代思想をポストモダンとごっちゃに考えているみたいだね)

 ・・・・いまの社会はは傍観者をすっぽりと取り込んでいる以上、傍観者などいるわけなくかといって代替可能な人物というのはあまりいい考えではないと思う。たぶん私は私が死んだとき誰かが泣いてくれれば成仏できるしそれで代替可能ではないか・・・君はまだテキストを読解していない。

 P39上l12を見てほしい-何百人もの人間に対する管理された虐殺とともに変質した死は、かつてこれほどまでに恐れられたことのないものになってしまった。ひとりひとりの人生経験のなかで、人生の動きとなんらかのかたちで一致するようなものとして死が現れる可能性はまったくなくなってしまった。個人は彼に残された最後の最もうらわびしいものである死奪されてしまった。

 収容所において死んだのは個人ではなくサンプルであった

 -アウシュヴィッツにおいては君の小市民的発想は否定されているのである。確かに平和な時代には、そういった発想は可能かもしれない。しかし、いみじくも、君が自分の死の可能性としてあげた核戦争の影をみのがしてはならない。核戦争の後に果たして君のために泣いてくれる人々は生き残っているだろうか?やはり、アドルノのいうように自我を除いた我々の社会的存在は確実に代替可能な方向へと進んでいはしまいか。それは確かにいい考えではなかろう。これに抵抗する自我のぎりぎりの叫びを君はテキストに見いだせないだろうか。
 ヘーゲルの影響力をあなどってはならない。ヘーゲルを批判的にせよ受け継いだマルクスの思想がイデオロギー化して今や世界の半分を支配している現実を君はどう見るのであろうか。無反省な実証主義ははイデオロギーのかっこうの道具である。
(ここからp35)
 応用科学を専攻する君だからこそ現代思想をなおざりにしてほしくないのである。
大韓航空を爆破した金賢姫にとって生は自己保存にどう関わってくるのであろうか。彼女をイデオロギーの犠牲者と見ることはできよう。しかし、彼女の生の罪科は生そのものと和解することのもはやできないものではなかろうか。(P41下段)

 アドルノは言う。この罪科はどんな瞬間においても完全に意識に上ることのないものであるだけにたえず再生産されている。

 金を立ち直らせるなどといって結婚を申し込むおめでたい連中はもちろんのこと彼女を好奇の目でながめる大衆にはこういった思弁がまったく欠けている。我々にとってのアウシュヴィッツとはなにか我々の生におけるアウシュヴィッツ的なものを見きわめることをアドルノは提起しているように思われる。(先週テレビで映画「ソフィーの選択」をやっていた。見ていないならヴィデオでもいいから見てほしい)

 修学旅行ついでに広島を通りすぎる学生の目でアドルノを見てほしくない。過去を参照しつつ現代を見つめたいという君に対し、伝統といったあいまいな概念よりもまず、こうした反省的思弁の存在が現代思想に含まれていることを知ってもらいたかったのである。
      アドルノはアルバン・ベルクに作曲をを学んだ芸術学者でもある。
      彼の著した「美の理論」は我々にとって大きな課題の一つとなって
      いる。


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