山本和寛著
永遠の賜 30-31ページ
Homo Capax Infinite Finitum
-無限を入れる有限の器としての人間-アウグスティヌスのこの美しい言葉はポジティブな意味だけに解釈されがちであるがネガティヴな意味でもとらえられねばない。
人間がいかに想像力を絶した悪を成し遂げることができるか。
歴史に問うまでもなく我々の存在範囲でも多くの事実を見聞できるのではないか。
こういったことを思弁することはつらいことであり、世にいう暗いことかもしれない。しかし、こういった思弁を欠いたまま、人生を論じてみたところでアドルノの切実なる次の言葉の前では一切が崩される。”アウシュビッツ以後は、このわれわれの生存が肯定的なものであるといういかなる主張も単なるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当な行為であるという抵抗感が湧きおこらざるを得ない”
アドルノはプラトンからヘーゲルにいたる伝統的弁証法のなかで否定作用が肯定を作出するプロセスを切断することによって実践の根拠となる概念的思考、すなわち自分が話すのを聞きたい形而上学のやり口を暴き出す。かつてマルクスは「哲学者達は世界を解釈してきただけにすぎない。解釈するのではなく、世界を変革することが問題だ」と述べた。この実にあいまいな命題が根拠とする概念は唯物論という形而上学の変種である。大系化した形而学はイデオロギーへと変貌する。非同一なものを力(実践)によって均質化とするものへと。近代は理性が実践のための技術と化していく過程である。「正義があればあるほど、自由はますます少なくなる。」理性の時代と呼ばれたルネッサンスから16.17世紀に異端審問は学問的に体系化され、魔女狩りが最も盛んであった。社会を変革することを意図する啓蒙は概念と実践の結合という形を取るかぎりイデオロギーを生み出し、非同一的なものを抹殺していく。民主主義も平等という概念に奉仕する均質化の実践に他ならない。アウシュビッツでは死という画一化において一切が平等であった。
"現代思想が思想のための思想になっているように見える私には最終的に自分の社会観をうちたて、自分の人生観を打ち立てることがよいと思う”
1月28日付けの君の手紙に概念と実践の二分統一法という形而学のスタイルをかぎつけるのは私の単純な危惧にすぎないのだろうか。
現代思想は思想にたいする思想ではなかろうか。いや、そうであるべきなのだ。アウシュビッツ以後の現代、人間の生に対する真剣な反省が求められている。思想とは本来実践を志向する概念なのではなく、人間の自分自身に対する反省という行為なのだ。
孔子が「朝に道を知りては夕に死すとも可なり」と述べたのは道を探求するという行為がそのものが彼の生であったからに他ならない。
”世界と生とは一つである”(DIE WELT UND DAS LEBEN SIND EINS)
-ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」-
最後にヴィトゲンシュタインの手紙から抜粋したい
-哲学を勉強することは何の役に立つのか。もし、論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら哲学なんて意味ないじゃないか。”確実性”とか”蓋然性”とか、”認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども君の生活について、他人の生活について、まじめに考えること、考えようと努力することは哲学よりも難しいことなんだ。それは、学問的にははりあいのないことだし、まったくつまらないことが多い。しかし、そのつまらない時が、もっとも大切なことを考えているときなんだ-