美しきもの (不相変の冬)      第二部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「Maria」

 或る冬の夜僕は此の書き物を書き始めたのだった。
 以来冬は数多の比喩と限りなく透き通ったかたちとを僕の周りに繰り広げながら、燃焼しつつある。
 今僕の眼の前に冬の燃焼して行くのを眺めて居ると部屋の隅から隅の何と遠いことだろう。冬は燃焼して行く。
 しかし春はまだまだ遠い湖の上を通っている。その奇妙な光景を僕はどう解すれば良いのだ。
 夕べ僕は母の貰って来てくれた黒い子猫にブラックという名を付けた処、弟に単純な頭の構造だと云われた。のみならず自分でも頭の構造に就いては単純だと思う反面、ブラックという名の複雑を想うのである。
 此の名は思い付きに過ぎぬ。けれどもそれは、僕の体験した人生の欠片だとしたらどうだろう。名は比喩であり、比喩は飽く迄形の単純化に過ぎまい。つまり一つの名は、無数の名を思い出す為の偶像である。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、テレビのブラウン管の中に、レーバンの眼鏡の汗止めに、窓のカーテンの森の木陰に、何時もその何処かに身を潜めていた僕の友よ、冬はまだ朽ちてはいない。
 春はまだまだ遠い湖の上を通っている。記憶の中の闇の優しさは無数の名を育んでいる。
 闇は優しく美しい。
 今日僕は頭の中にどんな形も名も捨て去ろうとして居る。どんな形も名も此の部屋には、既に存在してはならぬのである。
 しかし突然僕の眉間に風の吹くのを今感じながら、灰色の天井を見詰めて居ると何だか聖ヨハネの手を思い出す。
 手は段々に大きく成る。
 手は天井の真中から、僕の眉間に近付いて来る。
 手は薄明るい蛍光燈を僕の眼から消して仕舞って、光の反射する物凡てを遮ると、やがて眠りに近い香気を広げるのだった。視覚から放り出された形と名とは、多分僕の身体の周りに浮かんでいる様に思われる。
 闇は優しく美しい。
 聖ヨハネの手はやはり僕の眉間を指し、眉間の風も止んだ。闇の中に風は吹き始めている。僕にはもう此の風の見えるだけだ、僕は満足して居る。
 風よ果てしなく饒舌な全ゆる色に満ちた風よ、僕の記憶を吹いてくれ。形の無い友達よ、流れてくれ。
 僕は静かに君の思い出した色と比喩との音楽を聽いて居たいのだ。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、冬はまだ朽ちてはいない。春はまだまだ遠い湖の上を通っている。
 風は時折僕の寂しい眉間を流れている。ブラックは又僕の右の腿に夢を見ている。そんな夢の中にも風は吹いているのだろうか。
 先程見えたヨハネの手は僕には、もう見えなくなって仕舞った。灰色の天井に全ゆるかたちの浮かんでいるのみである。
 一体ヨハネの手は何処に消えたのだろう。と言っても僕はそれを捜す気等ない。それもやはり眼に見えた形に過ぎぬからである。
 かたちは昔様々な憧れを美を更には希望を提供したが、真に美しいものは何も観せてはくれなかった。名を持ち形に司られ且つ比喩に形容さるもの凡て幻影なり、『ファウスト』の最後の言葉ではないけれども僕の根底は何時しかそういう理念に溢れていた。僕はしかし此の細やかな書き物に夜毎向かうことによって真に美しいものに身を以て近付いた様に想うのである。それは名を換え形を換え、僕の前に表れた或る一つのものだった。それは敢えて言うならば、冬というブラックホールだった。
 記憶の中の闇の優しさだった。
 そうして-Mariaという永遠の名だった。
 冬はまだ朽ちてはいない。だから春はまだまだ遠い湖の上を通っている。
 闇は優しく美しい。
 冬の夜は永く静かだ。
 永遠の名とは人間の個々の記憶に最も、強く響く一瞬の澄み切った高音ではあるまいか。出来事の合唱よりも形というハーモニーよりも此の灰色の天井を彩ったのは、何時響くか知れぬ又幾つ聽こえるかも知れぬ永遠という一音だった。
 竹林の冬以外に、響く条件のない僕の-Mariaという名の一音は、こんなにも僕の眉間を打ち続けたのだった。眉間には記憶の優しい闇の張り付いているばかりだ。
 今ビテオデッキのデジタル時計の数字は三時になったが僕は、その三時という時刻に妙な愛着を感じて居る。冬の夜の午前三時僕は、僕の眉間に通り過ぎて行く風と戯れる。
 ブラックは目を覚まして部屋の隅に襖の染みを触ろうとしている。
 友よ、此の悦しい距離を真に美しいものとして此処に記したいのだ。そうだ、灰色の天井に僕の午前三時の記憶されるのである。
 記憶された午前三時はやがて夜毎に僕の上へと下りて来る。
 形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達。
 僕は頭から記憶を被る覚悟だよ。
 ミケランジェロの様な天井画を描いて居る処だ。
 闇は優しく美しい。
 記憶とは世の永遠なるものの距離であり静止された永遠そのものだった。僕は今その静止した永遠を眉間に感じながら、午前三時を見詰めて居るけれどもそれも又灰色の天井に一瞬の響きとして永続するのである。
 有形は僕等の記憶の引用に過ぎず記憶は人間の闇の内の無形の響きに過ぎぬ。
 友よ、春はまだまだ遠い湖の上を通っている。
 僕はもう此の美しい冬に別れを告げる。
 闇は優しく美しい。                                  
 冬の夜は永く静か、、、。
 冬の夜は、冬の夜、冬の・
 冬、夜・・静かな、、

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