美しきもの (不相変の冬)      第ニ部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「黒」

 寒い夜である。
 窓硝子は白く曇って夜の暗さもよく解らぬけれども却って、記憶の中の闇は恐ろしく澄み切っている。そういう澄み切った夜から僕は何かを見出したいと願い、且つ信じては居た。
 数え切れぬ程の書物の或る一頁に、全てのレコードに聴いた或る一小節に僕は生涯忘れ得ぬ思い出を持って居る。それ等僕の数多の思い出は、此の記憶の澄み切った闇の裏側に重なり合って眠っている。それにしても記憶とは何と暗いのだろう。何と澄み切っているのだろう。
 今日僕は始めて自らの記憶の暗さに気付いたのだった。
 そう言えば僕は幼い頃から黒い色に美の清潔感を感じて居た様である。
 オーソン・ウォルズのあの黒い帽子にも、アドルフ・ヒトラーのあの黒い靴にも、マリア・カラスのあの黒いドレスにも、そしてスヴィヤトスラフ・リヒテルのバッハ『平均律クラヴィア曲集』のあの黒いレコードジャケットにも、それぞれの美しい光は含まれていた。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、僕はやはり黒い色に安心する様だ。
 記憶の中の闇の優しさ、それは比喩ではなく形容詞でもない。此の書き物に度々生れ出ようとして生まれ得なかった或るものではあるまいか。
 美しいかたち、美しい名、美しい比喩、それ等は恐らく闇の内の或る場所に眠っている筈の或るものに違いない。或るものとは僕の記憶の中心に聳え立つかたちであり名であり比喩かも知れぬ。
 美しいかたち、美しい名、美しい比喩、そうだ友よ僕は僕の一冬に此れを認めては来たけれども、春はもう直ぐ近く迄来て仕舞っている。しかし今はまだ冬だ。
 僕に様々に出来事と言葉とを残して行く冬だ。
 冬は僕に最後に闇という疑問符を残して行くのだろう。
 僕等は黒を一つの色としては知って居るが、それも真の黒色を知らぬ。白色同様黒色も又真の黒でなければならぬのである。真の黒等何処に在るのだろう。例えば今僕の飲んだモカブレンドにせよ弟の好みのブラジリアンにせよ、濃いコーヒーではあるが真の黒とは言えぬ筈である。
 何だか下らぬことを書いて仕舞ったがつまり、真に黒い物等僕等には見えぬのである。最も単純な色の見えぬ僕等の眼に何故他の色は判るのだろう。否判っているのではなく解ろうとしているに過ぎぬのだろう。視覚とは聴覚よりも更に夢想すると言える。したがって僕の眼も例外とは言えず、色々なものを真黒だと思い込んで居た様だ。だとすれば真の黒色は何処に在るのだろうか。
 人の美意識に見えた美しいものの背後に真の黒は存在するのである。僕の記憶の中心に聳え立っているものもやはり僕には真のつややかな黒色をしている。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ冬はまだまだ帰っては行かぬだろう。美しいかたち、美しい名、美しい比喩、春はまだまだ遠い湖の上を通っている。僕はつややかな黒いディスタンスを信じて居る。今日も昨日も明日も此の距離を信じたいのだ。
 良かろう、僕は春の来る前に此の書き物に或るものを記せば良い。つややかな黒色の形の無い友達よ、君は僕の記憶の一部なのかそれとも違うのか教えてくれまいか。
 こうして机の木目の上に黒い文字を見詰めて居ると、その無数の木目に何時の間にか文字は渦巻きの中に吸い込まれて仕舞いそうだ。吸い込まれて仕舞った文字達は皆、何処に息をしているのだろうか。
 記憶の中の闇の優しさに文字は生きているかも知れぬ。
 昔僕は文字の一つ残らず消えて仕舞う夢を見たが、それは此の無数の木目の所為だったとは。やはり、机の上の木目もつややかな黒色をしている。
 美しいかたち、美しい名、美しい比喩、追憶は不相変優しく僕の後頭部を掠めながら流れて行く。
 友よ、今左肩に止まっている友よ君の運んで来た冬に僕は感謝して居るよ。
 春はまだまだ遠い湖の上を通っている。
 昨日此処に来た黒猫は又僕の右腿の上に眠っているが、やはり奇麗な黒である。
 冬の夜は永く静かだ。
 明日迄に名前を付けないと又弟に名を付けられて仕舞いそうだ。物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見える僕にとって、子猫に新しい名を付け与えることは確かに困難ではあるけれども。
 そう言えぱ友よ、僕は君にマリアという名を与えたがそれは最も新しい名前だったからだ。
 新しい名、永遠に新しくそして美しいマリアという名前を僕は形の無い君に与えたのだ。
 小さな黒猫は又目を覚まして僕の、半ば神経の無い左の手の小指を噛んでいる。名前を欲しがっているのだろう。
 美しいかたち、美しい名、美しい比喩、記憶の中の闇の優しさに小さな黒猫のいるのを僕は嬉しく思って居るのである。
 そうだ黒猫よ、僕はお前を今からブラックと呼ぼう。良いかブラック、どんなにか有り触れどんなにか単純な名前であろうと、僕の記憶の中の闇の優しいものに成るが良い。黒色という名前だよ。
 どうだ、ブラックよく似合っているね。
 ブラックは又、のしのし足音を発ててベッドの下に潜って仕舞った。
 冬の夜は永く静かだ。
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