美しきもの (不相変の冬)      第二部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「黒い猫」

 冬の夜は永く静かだ。
 しかし今夜は何時もとは少し違う様である。僕の机の端にまだ産まれて間もない黒猫は、大きな息をして眠っている。
 先程迄此の猫は僕の部屋をあちこち歩いていたから、可成り疲れたと見える。
 夕方母と弟は新聞の広告欄に[猫あげます]を見て、貰って来てくれた此の黒猫は果たしてどんな名を持つのだろう。
 考えてみると今の僕に譬え猫の名にしろ頭に浮かぶだろうか。物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見える僕に母は猫の名前を考えろと云う。それにしても此の黒猫は少し変った顔をしている。きっと洋猫だと弟は云ったが僕も此れに関しては同感である。
 竹久夢二の描いた黒猫とは似ても似着かぬ黒い猫に僕は、名前を与えねばならぬのだろうか。何という皮肉、何という可笑しな巡り合わせだ。しかも物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見える今の僕には可成りの難題になりそうだ。
 以前此の部屋にはペトという虎猫がいたけれども、一年前通り掛かりのバイクに跳ねられて死んだ。僕はペトラルカと名付けたが母や弟にペトというニックネームを付けられ、何時の間にかペトラルカという名前は僕だけのものになっていた。突然今机の上の黒猫は目を覚まして又きょとんとした金色の眼に涙を溜めながら、動く僕の右手を警戒している。
 窓の外の風の音に時折脅えつつも、母の置いてくれたミルクを飲む黒猫の背中辺りに僕は生命の美しさを感じて居る。生命とは恐らく常に脅えているからこそ美しいのではあるまいか。僕はふとそう考えたのだった。
 黒猫は風の音やキーボードを叩く僕の手の動きに脅えて暫くじっとしていたが、段々此の部屋の匂いと雰囲気とに慣れて来たのか高さ三十センチ余りの机から下りようと何度も机の四つ角を回り始めた。まるで総ての興味有る出来事は此の明るい水色の絨毯の上に起こるかのように眼を見開いて今飛び下りた処だ。ミルクは全部飲んで仕舞った様だ。
 僕は今迄に十二匹の猫達と付き合って来たが全身真黒の猫は始めてである。以前から黒猫を飼いたいと思って居た僕にとって此の猫は、一体どんな役割を果たしてくれるのだろう。
 サッチは人間嫌いだったが僕の胡坐の上に何時も眠っていた。ペンは小さな牝の虎猫だったけれども自分の子である大きなサッチを押し退けて、僕の左肩にしがみついていた。此の小さな牝猫の豊かな眼の表情を、僕は今でも憶えて居る。「ペトラルカのソネット」をブレンデルのピアノに聴いて居た時に、弟に拾われて来たのはペトラルカだった。ペトラルカは夜毎に僕の肩越しにベッドの上から書き物を見詰めてくれていた。しかし僕は、物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見える今新しい名を考え出そうとして居る。
 冬の夜は永く静かだ。
 産まれて間もない黒猫はまだ爪を隠せぬ為に、水色の絨毯をのしのしと音を発てて歩き回っているよ。その足音の何と爽やかなことだろう。そして何と面白可笑しい姿なのだろう。ペトラルカもやはりこんな歩き方をして僕の夜に少しだけユーモアを残してくれたのだけれども、此の黒猫は如何にも水色の絨毯を確かめるように歩いているのである。確かめる、何を確かめているのだろう。
 人間の放した悪臭を、人間の葬ったかたちをそして人間の最も愛し最も汚して仕舞った遠い昔の美しい名前を確かめているのかも知れぬ。大きな耳を器用に動かし水色の絨毯に食って掛かる素振りの黒猫は、昨日迄一緒だった親猫の体温を求めている。失われたものへの憧れと要求とを絨毯に沈めながら尾を立てて歩いている。
 物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見える僕にそれは逞しくもあり哀れでもある。何時の間にかそんな僕の頬の上辺りに、微笑らしきものの浮かぶのを僕は不思議に想うのである。黒猫は依然のしのし歩いている。産まれて間もない小さな黒猫は、僕の部屋の隅から隅迄歩き回っている。
 ベッドの下には棚に入り切れなかった数十冊の本の眠っている筈だ。バルザックとサルトルとの、ダンテとソルジェニーツィンとの溶け合った匂いとは一体どんな匂いなのだろう。
 黒猫よ教えてくれ。ペトラルカは教えてはくれなかった。
 それから二段になっている押し入れの下の端にもう聴かなくなったレコードは数百枚有る筈だ。ミレッラ・フレーニの歌った「柳の歌」に付けて仕舞った傷は今、どうなっているのだろう。
 黒猫よ見て来てくれ。ペトラルカは教えてはくれなかった。
 物の名に飽き形を蔑み比喩の凡て汚れて見えて居る僕に教えてくれ。若しも僕の記憶の奥底に真の美しいかたち、美しい名、美しい比喩を見付けたら、黒猫よ此の眼に観せてくれ。此の右手に触らせてくれ。名は形を欲し形は比喩に定められ比喩は名を想像した。
 しかし僕の欲する美しいものとはそれ等有形なる世界に存せぬ魂の祈りなのである。黒猫は今ベッドの下に眠っている様だ。恐らく此の小さな眠りの中にも僕の欲する美しいものは在るのだろう。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、黒猫はまだ名前の無い友達だ。
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