美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「モルト・モデラート」
人生は哀しむ程永くはない。
何時かそんな言葉を此の書き物に書いたが、僕は今夜改めてそれを淡々と想うのである。
今僕の窓に雪の降っていそうだが、此の真白い氷の小さな塊は僕等の人生に似てはいないだろうか。白さと冷たさとそして哀しい沈黙とそれ等は譬え幻影に過ぎぬとも、命は空間の一点に美しい時間を持ちながら生まれる。
空間の一点に一枚の雪はシューベルトの歌の如く存在するのだろう。
僕は先程ニコライ・デミジェンコというソ連の若いピアニストの弾くシューベルトのソナタを聴いてふと、人生の哀しみに就いて考え始めて居た。
真白い雪とフランツ・ペーター・シューベルト、僕はもう物と者との区別の必要性を廃して居るから此の二つの美は繋がっている。
友よ、僕はデミジェンコという若いピアニストの奏でた変ロ長調のソナタに異常な迄のテンポの遅さを感じたのだった。
此の変ロ長調に書かれたシューベルト最後の『ピアノソナタ二十一番』には、彼の生と死との言葉の秘められているがデミジェンコの演奏は死の象徴である左手の比較的鈍いのに対して生きる意志そのものの様な右手のメロディーの何と快活なことだろう。
時折、顔を出しては幾度か繰り返される左手での死のパッケージは他のどの演奏よりも穏やかだった。
元来生と死との密度を同等に演奏されねばならぬ音楽はデミジェンコの手によって、シューベルトの人生に対するまだ熟し切らぬ憧れ迄表されたのかも知れぬ。シューベルトは人の云う程に、此のソナタに己の死を悟っていたのだろうか。しかし彼は死を完全に理解していたことは大方間違いあるまい。
人生は哀しむ程永くはない。
多分シューベルトも今の僕の人生感に近い処に、最後のソナタのメロディーとリズムとを想い付いたとは余りにも独断に過ぎるだろうか。それは空間の一点に美しい時間を持ちながら生まれた一枚の雪に似ている。
つまりシューベルトの命は生きて行くことではなく、そこに停滞する美しい時間なのである。
そろそろ雪の降り出して五時間は過ぎていようから疾くに、窓の向こうは銀世界になった筈だけれども僕の周りは何も変わらず静かに時間と僕の指だけ動いて居る。
冬の夜は永く静かだ。
友よ、今夜も又雪の妖精達は、窓を滑り窓に登り窓を叩いているよ。若しもシューベルトにこういう光景を見せればきっと、素晴らしい音楽を創ったろうね。
空間の一点に一枚の雪のように生まれたシューベルトの旋律に僕は、僕の人生の永さを計ってみる。
デミジェンコの右の手の弾いたあの快活な命の形容音に自らの生命の詩を思い出す。
『ピアノソナタ二十一番』のモルト・モデラートにはシューベルトの最も大切にしていた空間の一点の在るように思えてならぬが、それは永遠に停滞するであろう哀しみではあるまいか。
永遠に停滞する哀しみ、時間の無い空間に存在する己という哀しみ、彼の哀しみは恐らくは旋律としてのみ世に贈り出されたのである。
人生は哀しむ程永くはない。
しかしシューベルトは哀しむ為に生き、その哀しみは常に旋律となった。
冬の夜は永く静かだ。
友よ、僕の背後に今シューベルトの足音の聞こえた処だ。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達、大いに語り合おうではないか。 人生等長くも短くも成る。
友よ、シューベルトの変ロ長調のソナタを聴いて居ると、僕は何時も己の人生を机の上に感じる。
ルネサンス風の置時計の秒針から次々に零れる渇いた音は、机の上に弾みながらピンポン球のかたちをして僕の眉間を打ち続けている。
眉間に当って砕けた白い無数の分子は若しかしたらば僕の人生かも知れず、それは哀しいかたちかも知れぬ。その無数の白いものを僕はずっと眺めて来たのだった。そうして僕は此の白いかたちを美しいものと名付け限りなく愛して居た。
そこに停滞する美しい時間、或る空間の一点に生まれた美しい時間はシューベルトの変ロ長調の最後のソナタと化して聽こえたのだろう。若い故に如何にも理想的なシューベルトを弾こうとしたデミジェンコは却って僕に、その左手の単調なリズムの意味を再認識させたと言って良い。
即ちシューベルトのシューベルトたる由縁は歌うことの大切さよりも、歌を永続させる哲学的(意識的な)なリズムを如何に表し得るかに係っているが、デミジェンコのそれは余りにも快活だった。
『ピアノソナタ二十一番』とは死を夢見ながら生をも同時に見据えるという様なアンバランスな音楽ではあるけれども、シューベルトその儘の表情の浮かび上がった最高傑作である。
三十一歳という若さに身を伏して了ったシューベルトにとってモルト・モデラートの持つ意味。或いは今夜の様な銀世界にのみ明らかにされるのではあるまいか。
雪の一枚一枚に此のモルト・モデラートは、人の聴覚に届かぬ程の高音に響いているのだろう。しかし僕の耳には微かにけれども確かに翔び散った白いかたちの間から聴こえて居る。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達。
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