美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「友達」
冬の夜は永く静かだ。
友よ、僕は此の一冬に闘った形という理念に今哀れみを覚えて居る。それにしても先程から僕の背中に浮かんでいるルートヴィヒの微笑の、何と優しく穏やかなことだろう。
此れは比喩でも蜃気楼でもない。僕の人生の真実である。今も僕は人生という口実に独りきりの森の中を散歩して居るのかも知れぬ。人生という口実とは何だか奇妙な言葉だが、人は皆その口実の上に己の城を幻として建てているのだろう。しかし僕は違う。
人生という口実は僕には却ってルートヴィヒの微笑よりも日常生活からは懸け離れた出来事なのである。
僕の日常生活は健康な肉体を擁する人々よりも確かに単純化されて居るかも知れぬが故に人生の真実に近い場所に生きて居ると言って良い。
僕の腕は肩より高く上がらず、足の大きさは二十二センチ、唇は言葉を押し出せず、喉には何時も喘息だ。だから日常生活の全部は母の厄介になって居る。しかし僕の日常生活は、人生の真実に本当に近い場所に在る。
今こうして真夜中に物を書いて居る時の、何と充実していることだろう。
人生の真実に本当に近い場所とは僕の机の上かも知れぬ。
或いは此の窓かも知れぬ。
ルートヴィヒの微笑かも知れぬ。
冬の夜は永く静かだ。
とまれ友よ、僕はそろそろ闘うことを止そうと想って居るのだ。ルートヴィヒの微笑は僕の闘いへの執念を宥める為に、フライアのように表れたのではあるまいか。だとすれば僕は美の女神フライアの注言を聞き入れねばならぬ。
人生の真実に本当に近い場所に表れた一つの形を拒絶する顔はやがて、僕の脳天から顔へと下りて来るのだろう。それは何時の間にか僕の顔にすっかり重なって、僕の背後の樹霊の世界へと散歩に出掛けるのだろう。
ルートヴィヒの絶唱に聴いたマーラーの『大地の歌』終楽章はまだ僕の心に響いて居るが、あの李太白のペシミスティックな詩は友達同士の別れを歌うのである。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、それ等の友達に別れを告げながら青年は此の世にはなかった、否出会えなかった幸福を求めて何処か遠い場所に向かう。そんな感窮まる心の風景をクリスタ・ルートヴィヒの祈りに近い歌唱は、僕の日常生活の上に降り注いでくれたのだった。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達。
冬の夜は永く静かだ。
友よ、僕の人生の真実に本当に近い場所はこんなにも静かだ。ルートヴィヒの深いアルトの唱はこう言う静かな場所にのみ、何処迄もその語尾を響かせるのだろう。そして彼女の微笑も此の部屋のきりりとした冷たさと、何処を見ても眼の疲れる色彩の無い光のバランスの内に浮かび上がる。
今は丁度僕の頭と蛍光燈との間に、輪郭の無い彼女の微笑は青い霧と共に浮かんでいる。それは恰も此の書き物を少し恥ずかしそうに覗き込んでいる様だ。
僕の首は自分の意志通りには動かぬから、その微笑を脳天に感じながら此れを書いて居る始末だ。二百ワットの蛍光燈の明るさにも疾くに眼は慣れて些か薄暗いとは思うが、母を起こしスタンドを点けて貰う程でもない。否それよりも大切なのは此の部屋の静寂である。折角久しく出会っていなかった微笑のやって来たのだからね。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達。
僕の背後から木の葉の擦れる音は聽こえ、『田園交響曲』のフルートも鳴っている。形はもはや僕の周りでは幻覚に過ぎぬ。人生の真実に本当に近い場所にはまさしく形は存在してはならぬのである。形も色も或いは比喩も形容詞も既に、使い捨てられた悲しい玩具でしかなくなって、僕の部屋はさっぱりしたよ。
フライアよ、僕はもう直ぐ此の書き物を書き上げねばならぬが僕のブリュンヒルデは一体何処に眠っているのだ。
冬の夜は永く静かだ。
しかし此の冬ももう終ろうとしている。
冬は僕に形の無い友達を遺したが他には何を残して行くのだろう。
形の無い友達、生という友達、大地という友達、美しき僕の友達よ。
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