美しきもの (不相変の冬)      第ニ部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「樹霊」

 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、僕はその森の中に暫く眠って居た。樹霊は僕の身体を形として理解せずに一つの霊として認識しようとしているのではあるまいか。確かに此処洛西は竹林の可成り多く生き付いてはいるが、夕べ僕の周りを取り巻いた樹霊は超大な過去の言葉を伝えに来たように思えてならぬ。
 つまり形の存在は却って樹霊には有害だったのだろう。手に触れる形、眼に見える形、言葉に詰め込まれた形、一切の形に包まれて仕舞った或るものに挨拶を交わそうとしていたのだろう。
 今は僕の後の大きな窓の緑のカーテンから樹霊の声ははっきりと聽こえる。けれども煩くはない。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、僕は今僕個人の過去でありながら歴史の深い森と対話を交わして居る。君もその中の樹霊なのだろうね。僕の脳天に又君は冷たい雫を落として僕に応えてくれたがそれにしても、此の一滴の雫は何と清らかな高音を僕の頭に響かせることだろう。
 手に触れる形、眼に見える形、言葉に詰め込まれた形、それ等は既に僕から遠く離れた存在だと断言しよう。成程僕の背後には燻るように深い過去への森の在るきりだが、此の森を散歩することに僕は生命を懸けて居る。
 生命懸けの散歩、ウィルスを吸い込まぬようにと知人にさえ挨拶を避け散歩した哲学の大家のいたことは、少なくとも僕には幸いである。今もやはり僕の背中には緑のカーテンの様々な色彩の揺らいでいそうだが、それは恐らく樹霊の静かな眠りの中からの言葉ではあるまいか。僕はそんな色彩を何時も感じながら僕だけの森を散歩する。
 そうだ友よ、此の世に在る万象とは今、僕の背中を駆け回っている色彩と何ら変わりはないのだろう。
 一瞬の内に駆け回った樹霊の言葉にも人生に観る万象は及ばぬのである。僕はしかしそういう人生を生きて居る。
 人生はやはり空しい形に過ぎず僕には散歩するにも値せぬだろう。とは言え僕は樹霊になりたいとは思わぬ。妖精になりたいとは思わぬ。神にも悪魔にもそして自然にも。
 樹霊は唯僕等のかたちへの欲望を完全に満たせば良い。
 妖精達は自らの様々な色彩に僕の夢の周りを万象に代わって取り囲めば良い。
 手に触れる形、眼に見える形、言葉に詰め込まれた形、その人生の出来事は夕べ一夜にして僕を飽きさせて仕舞った。
 トネリコの樹は何処だ。
 菩提樹は何処だ。
 Xマスツリーは何処に在るのだ。
 夕べ僕は、緑のカーテンの中にそれぞれの樹を探しつつ再び深い眠りに就いた。故に今夜も背中にゆらゆらと樹霊を感じて居るのだろう。
 又僕の左の肩甲骨の真中に原因不明の痛みの張り付いたが、それは若しかしたらばハーゲンの槍に倒れた英雄ジークフリートの傷口かも知れぬ。
 鉄人ジークフリートと僕、一体どう言う関連なのか自分にも検討の付かぬことを書いたけれども、夕べトネリコの樹を探して居たのもどうやら何時か観た夢の所為である。恐れという意味を全く知らなかった英雄、更に死という出来事から懸け離れて生きていた英雄は戦うことしか知らず常に相手を己の前に見ていた為に背中という急所に気付いてはいなかった。
 僕の背中にも時間の槍の刺さりつつある様だが、友よ僕は飽く迄も眼前の美しいものを見詰めた儘死ぬ覚悟である。
 美しいもの、僕の美しいものは今此の部屋を一杯にした言葉だ。比喩だ。木霊だ。そうして緑の森の言の葉を潤し続けた樹霊だ。僕はもう不平は言わぬ。
 肩甲骨の痛みにも慣れて仕舞った。此の森は何処迄続いているのだろうね。
 ノートゥングの剣を深々と食い込ませたトネリコの樹は何処だ。
 ヴェルテルの涙を奮い立たせた菩提樹は何処だ。
 赤い靴下をぶら下げた懐かしいXマスツリーは何処だ。
 僕の背後のカーテンに、何時もの森は夕べから神秘な記憶の散歩道となった。
 手に触れる形、眼に見える形、言葉に詰め込まれた形、それ等は捨て去って了うが良い。
 僕は昨夜僕の背後に在る緑のカーテンに深い森を感じながら此の書き物を認めて居たけれども突然、或る微笑に僕の頭は一杯に成るのに気付いた。それは此の書き物の冒頭に書いた筈のクリスタ・ルートヴィヒの言い知れぬ微笑だった。
 顔の輪郭等無いに等しいが確かにルートヴィヒの優しい微笑は、僕の背中を覆っていたのである。マーラーの『大地の歌』の終楽章を真の寂しみと美しい哀しみを込めて唱ったルートヴィヒの微笑は紛れもなく僕の背後の数え切れぬ樹霊から立つ水蒸気の如く形を拒絶する。僕はその様を正面のブラウン管に見詰めて居る。
 数多の形を拒絶する顔、何物にも増して優しく清らかな微笑、友よ此のルートヴィヒの表情に僕は万象の空しさを顧みる。此の書き物を書く時僕は常に形との闘いを強いられ、又それを真剣に受け止めて来たが今日ルートヴィヒの表情を観て闘いの終末を感じて居る処だ。
 形とは恐らく比喩に過ぎず、比喩も又人生に現れた鮮やかな蜃気楼に他なるまい。

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