美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「書いてはならぬ真実」
冬の夜は永く静かだ。
友よ、僕は夕べ君という或る固有のかたちに暫くの間会って居たのかも知れぬ。
暫くの間、それは実に平凡な言葉だけれども、曖昧さを越えた安心感溢れた一言である。
さて僕は君に何時会って居たのだろう。夕べ、フランシスコ・アライサのテノールリサイルをテレビに観て居た際に、僕は君を感じたのである。此のアライサという若いメキシコ人は何とスムーズなドイツ語に『詩人の恋』を歌ったことだろう。
ハインリヒ・ハイネの激しい言葉にロベルト・シューマンの音楽は鮮やかに線を繋いだ此の連作歌曲集には、元来リリックテノールの好く似合ってはいたがまさしくアライサの美声に最も相応しいとさえ思われた。少なくとも僕には青春の去り行く故にハイネの混沌とシューマンの音楽の遠近法とは眩しかった。
そんな眩しさの中に君は立っていたのだった。大蛇に追われたタミーノのように君は肩に息をしていた。
此の書き物の冒頭に僕は君の姿を必ず書き著すと誓ったが、友よ君の姿とは何時もそういう光の内に在るのだろうか。
アライサの歌った『詩人の恋』に僕は、己の青春を見送って仕舞った。
友よ、しかしアライサの後にアーウィン・ゲイジのピアノの鳴っていたことは僕にも確かに頼もしい風景だった。
直立不動に歌うアライサの風景は背中を丸めたゲイジという美しき風景に大きく包まれているらしかった。ポパイの様な表情は円い小っちゃな眼鏡を食み出して、詩人の豊かな言葉を創るのである。
形は光によってそれ自体のかたちを失う。それは形としての価値ではなく光と共に存在する姿である。
人は風景を背負った時に、その風景を青春だと知りそれを懐かしいと想うのだろう。僕は今僕の風景に包まれて、形を忘れて仕舞いそうだ。だから又形等信じぬのだよ。
光と共に存在する姿への憧れと戸惑いと哀しみと、僕は何よりもそれを信じて居た。否アライサの歌った『詩人の恋』に僕は、そんな不思議な存在感を眼前に感じたのである。光と共に存在する姿、何という神秘な言葉だろう。
『詩人の恋』の十六の小さな歌は若い詩人の心に映じる儘の陰の動きではあるまいか。光が陰を創る様はもう見飽きたが、光が陰を追込む様は如何にも珍しい。アライサとゲイジの名コンビはかくも簡単に、此の真新しさを越えて自然にそれを聴かせてくれた。
光と共に存在せねばならぬ若き詩人には既に光は風景に過ぎず痛々しいテノールの声は、何時の間にか遠い記憶の上を滑って行く。そうしてゲイジのピアノはアライサの声を打ち消すのではなく、胸を張り広げて言葉を拭うように抱き込んで仕舞うのである。或る一つの詩人の青春は此のロマンティシズムに溢れた優美なピアノの残響音を背景としながら、終わる。
光と共に存在する姿は僕にはそんな風に見えたのだった。
風景は決して人生の目的ではないけれども、それは無形主義の僕の光と陰であった。
『詩人の恋』と言えばディートリヒ・フィッシャー=ディスカウの六十年代にJ・デムスを伴奏に歌ったLPレコードを思い出すが、アライサのそれは明らかに違う。配置された声の位置に大きな違いは在る。つまりアライサの静かに立ち去った処からF=ディスカウの『美しき五月に」(チクルスの第一曲)は歌い出されている。
デムスのピアノも光ではなく風景でもない。唯の一筋の小道に過ぎまい。
詩人には白い小道しか必要ではなかったと言って良い。詩人にとって風景は飽く迄も声であり光は言葉に在った。
此のF=ディスカウの『詩人の恋』に僕の青春の口火は切られたのである。
シューマンの音楽もハイネの詩句も詳しく知らぬ時に、光と共に存在する姿をF=ディスカウの『詩人の恋』によって知って以来、青春の門はゆっくりと開いたと言えるだろう。
友よ僕はそれから、真に美しきものを求めて来たのだ。真に美しきものは此の『詩人の恋』の白い小道の上に在るように思われた。F=ディスカウの歌う『詩人の恋』に僕はシューマンの音楽もハイネの詩句も見えず、唯歌という姿の見えて居るだけだった。僕の青春の理想に近い姿はのみならず一枚のレコードの上に巡って来たのである。
人はそんな個人的な思い出に批評という魂の仕事を任して仕舞うのだけれども、今僕の書いて居ることはどうやらそれの典型的例ではあるまいか。
しかし友よ、僕の今日聴いた『詩人の恋』はF=ディスカウのあの完璧さからは程遠いが、ゲイジのピアノに支えられながらもアライサのそれはすこぶる美しい。バリトンとテノールの違いこそ在れ、真に美しきものの存在感は自ずと描かれている。シューマンのリリシズムもハイネの情熱的ロマンティシズムもアライサのテノールは傷付けまいと歌っている。
僕は昨年此のリサイタルにT嬢と行こうと考えて居たが、若干アライサの名を軽んじて居た為に結局はテオ・アダムの『冬の旅』に出向いて仕舞って後悔して居るよ。
けれども彼女と一緒に『詩人の恋』に出掛けて居たら、僕の青春はゲイジの風景に揶揄われていたろうか。
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京都は此処二三日粉雪の可成り降り続いていますが君の方はどうですか。
何時も君の年賀状の来るのを楽しみにして居るのですが、今年のは格別派手に仕上げたものですね。元旦の朝に年賀状の何枚来ているのかという一種の賭けを僕は弟と毎年やって居るのだが、今年は五枚の差に又四連勝ですよ。君の賀状はその二十九枚の真中辺りに筆書きの大きな文字に如何にも君らしい笑顔をして届いていたのです。
僕は君の賀状を見て何故か例年になく安心しました。昨年の暮れにお電話をした時君は元気そうにはしていたけれども聞く処、胃と耳との病に苦しいとのことでした。胃と耳とどう言う具合に関係しているのか僕には全く判りませんが、兎にも角にも心配して居たのです。
[今年も頑張ろうぜ]賀状の端にこんな言葉の書いてあるのにも何となく君らしさを感じ、僕の心配も半分になりました。
僕は不相変書き物をして居て友達や先生方にも手紙を書く精神の余裕の無いことは事実ですが、今日は無償に君に話したいと思ったのです。否昨年からずっと君に手紙を書きたいと思いながら何時もあんなに簡単な葉書になっていたのです。
今書いて居る作品のことを何時か、君に話したのを覚えているでしょう。此の世に在る美しいものを捜して旅を始めたと僕は君に言ったのでしたね。
此の世にまだ在る筈の美しいものを確かに僕は信じて居たにも拘らず、それはつい最近迄見付からなかったのです。しかし友よ君も僕も信じて居た美しいものは今年になってから時折、僕の前に姿を見せるようになりました。
僕の何時も背負って居る大きな窓に降り積った雪の中に僕の蒼冷めて静かに息をしている右足の膝の上にそうして君の賀状を裏返した時のチェリーの煙の陰に、微かに見える輪郭の無い顔の様なかたち。君、信じてくれるね。
君は又小首を傾げているのだろうけれども僕の見た美しいものを君なら決して誤解せぬでしょう。そう君の信じた美しいものも案外そういうかたちをして、君の中に在るとは言えませんか。君の胃と耳との病も或いはそれと綿密に関係しているかも知れない、僕にはそんな気さえして居ます。
話を戻しますが僕は、僕に見えた美しいものを書き遺そうと考えたのです。
僕等物書きの仕事は形の無いものに比喩という形を与え却って歪にして仕舞うのですが、僕の書きたいのは歪に成るもならぬも形の無いものその儘のかたちなのです。形の未来は既に書き現され過ぎたけれども、かたちの過去はまだ此の日本には限りなく在る筈だからです。
日本語には元来形なるものは無いと考えて居るのですからね。では僕の見たものは一体何だと君は笑って問うかも知れませんね。此の世に在る筈の美しいもののそれぞれの瞬間だと応えましょう。僕の言うかたちとは人間の記憶した美しい思い出を解した時の言葉のことです。
美しい思い出を人は先ず何かに準えながら思い出すのだがそれは必ずしも言葉ではありません。色であり匂いであり風景ではありますがしかし、人の意識は常に接続詞という言の葉によって支えられているのです。
僕は写真家でも画家でもありませんからやはり言葉に美しいものをその儘見付けようと思ったのです。
君は僕に会う度に[時間の経つのが速いね]と溜息ばかり吐いていましたね。それは嘆いているのではなく時を惜しんでいるのでもないでしょう。君は君の美しいものを見詰めている内に自然とそんな接続詞を口篭る。恐らく君はそれを否定するでしょうけれども、気に触ったら御免。そういう君の溜息の僕には何と美しいのでしょう。そしてそれは僕の美しい青春時代でした。
君のお陰に僕の青春は随分華やかだったと言えますし、君に出会って居たからこそ僕の思い出は美しかったのだと思います。そのことは既に第二の著書の中に触れました。金沢の夜のことや当地での荒海のこと、それからH嬢との僕の恋愛経験のこと。しかし君よ物を書くということは書いてはならぬ真実を持って居るということだ。
書いてはならぬ真実、別段そんなに大外れたことではないが僕にとって最も大切な青春の輪郭なのです。それはH嬢を愛して居たという僕の被り通そうとした顔のことです。はっきり言えば僕はH嬢を確かに愛そうとしたけれども愛せぬ儘だった。
次第にH嬢の僕に対する優しさの露になった頃に僕は全く別のH嬢を感じ以来H嬢は僕の中に透き通って了いました。人を愛することに慣れて居なかった僕はそれでも心の中にH嬢を追い掛けました。追い詰めて抱き締めようと思うと、それは別の女性だったのです。もう幸せな結婚をしていると、思い込んで居たM・T嬢という昔馴染みの女性でした。
僕の真に愛して居たのはM・Hの姿を借りたそして許されぬ恋愛だと思い込んで居たT嬢だったのです。今迄君に打ち明けなかったのも、決して文章に彼女のことを書かなかったのも此の美しき接続詞を断ちたくなかったからだ。
しかし友よ、彼女はまだ独りだ。独り、一人、ひとり、美しきピアニッシモだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親愛なるT・Kへ
今此れを書き始めた処だが今日は、何だか心臓の高鳴りの激しい夜である。
僕は夕べ、燻る様な植物の匂いを鼻先に感じ眼を覚ましたのだった。それはまだ幼い頃、母の買って来てくれた小さなXマスツリーの匂いよりも濃い緑色だった。にも拘らず僕の周りの何処にもそんな緑は見当たらなかった。
僕は本能的に夢の中のXマスツリーを探したが、どうやら夢は澄み渡った金色の海ばかり照らしていた。
燻る様な植物の匂いは何時の間にか、僕の身体を取り巻いていた。寝返りの殆ど出来ぬ僕の身体は何時も右を下に眠って居たから、その顔の前には濃い緑のカーテンの見えるだけだった。緑のカーテン、燻る様な緑の樹々を無数に持ったカーテンだった。
僕の目を突然、覚まさせたのはその無数の樹霊の仕業に違いなかった。僕は不思議を感じた。しかしファウスト博士の癇癪に呼び出された樹霊のように、それは醜くもなく不平も云わなかった。それは単純なかたちにせよ、一つの形を持ってはいなかった。
形というものを遠い昔に忘れて仕舞った樹霊に取り巻かれた僕の肉体は果たして形を持って居たのだろうか。