美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「僕に必要なのは無形にして静かなものだ」
僕は久しく外出して居なかったが、今日は気温も可成り高くなったので弟と映画観賞に出向くことにした。
僕の映画観賞歴は約二十年に成ろうが、劇場に通ったのはほんの数える程である。けれども最近此の弟の演劇や映画に対する熱心に肖って僕も度々劇場に通う機会の多くなりそうである。
「愛は静けさの中に」と題されたアメリカの作品は、テレビのムービー・ガイドに少からず僕の気を引いて居た。
物語こそ単純に書かれたラブ・ストーリーだが昨年のアカデミー主演女優賞に輝いたマーリー・マトリンの快活な手話シーンには、言葉の様々なかたちが翔び跳ねている様だった。
昨日T嬢の小さな優しい手に、今日はマトリンの洗練された華麗な手話に僕は僕の敢えかな夢を見て居るのだろう。
寂しく白い女の手は此の二日間に僕を完全に絵描きにして仕舞った。
しかしマトリンの両手には無数のかたちの、そして無限の言葉の潜んでいそうだ。レオナルド・ダ・ヴィンチからエゴン・シーレの手の歴史に、僕の夢は揺蕩うのだろうか。
寂しく白い女の手、夢の中の手という美しいものに僕は不相変表現することの不思議を感じて居る。マトリンのあの手の美しさは、紛れもなく女優としての演技を越えて一個の魂からの言葉を見せてくれた。
言葉を見せる、それは可笑しな言い方かも知れぬがしかし友よ僕の眼には見えたのだ。
僕等は言葉を音として或いは文字としてのみ日常生活に取り入れて来たが、マトリンの手によって送り出されたそれは生き生きとしたかたちを持っていたのである。そういうかたちを持った言葉を僕は真逆フィクションの中に、それもあれ程若く初々しい女の手に見ようとは考えても居なかった。
二三手話の出来る人を知って居るが、彼等の手話は冷え切った道具に過ぎぬ。友よ僕の眼の前に言葉にかたちを与えたのもやはり寂しく白い女の手だった。僕は今ゆっくりとかたちを持った言葉に心奮わせて居る処だ。
寂しく白い女の手、マトリンの手は常に日常言語で在りながら、単純に造形化された美しい言葉の舞いを見せてくれたと言って良いだろう。それは彼女の聴覚を失った事実に咲いた静かな百合の匂いではあるまいか。
聽くという行為を知らぬ一個の魂には恐らく、ものの造形化にしか主張の術を見出せなかったのだろう。物をみるということ、そしてものを造形化するということの意味の深さを却って聴覚を持った人よりも忘れなかったのだろうね。
つまり音の無い世界にかたちは自己であり他者であり、又主張であり愛であった。そのかたちという術はマトリンの美しい手に表現を与えたのである。マトリンの寂しく白い手は僕にそんなことを考えさせながら、やがてT嬢の手を思い出させる。
冬の夜は永く静かだ。
友よ、万象は余りにも無情だ。聴覚を失ったマトリンの手には万象は悦しく賑やかに未知なる言葉だったろうが生憎僕には煩い。
低下して行く視力には物の形そのものは案外煩い。テレビの上の時計の秒針も電気ストーブの水蒸気も炎の揺らぎも僕の視覚は拒んで止まぬ。
此処は僕の空間だ。今は僕の一刻だ。動くな、回るな、流れるな、凡てよ止まってくれ。
思い出だけに動きを譲ってくれ。
僕に必要なのは無形にして静かなものだ。
竹林の吐息だ。
屋根の上のザラマンドラの鱗だ。
アポリネールの気違い染みた甲高い鼾だ。
更にはT嬢の小さな優しい手だ。
友よ、僕の愛とはまさしく優しく暖かい彼女の手を見詰めることから始まったのだ。そうだマトリンの美しい手はT嬢の小さな手の表情を僕の眼の前に引き出してくれたのかも知れぬ。
真に美しいものとは、それぞれの過去に過ぎた尊いものを映し出す記憶の役割を兼ねて存在せねばならぬ。
僕は今日マトリンの華麗な手の動きに自らかたちに成ろうと快活に苦しんでいる言葉を見たが、友よそれは多分僕の中の鏡の照明に照らされた記憶の一瞬のポーズではなかったろうか。
此の机の上に昨日突然表れた小さな手、T嬢の優しく暖かい小さな手は今僕の心の明と暗に包まれて一枚のスナップ写真のように静止している。
若しかしたらばレオナルド・ダ・ヴィンチの偉大な好奇心を掻き立てた唯一の有形なるものは、寂しく白い女の手だったかも知れぬ。まさしく何かを表そうとしている瞬間の、あのレオナルドの女の両手のデッサンを思い出す。恐ろしい迄の緊張感を含みながらもあの両手には何か無限への誘いの在ることは確かである。
真に美しいものへの誘い、僕はあのレオナルドの手の言葉をそう解しよう。
誰の手をレオナルドは描こうとしたのだか僕に解る筈もないけれども、あのデッサンに名前等無いように思われる。
名の無い、顔の無い美しい手にレオナルド・ダ・ヴィンチは唯少年のように憧れていた。僕にはそう思えてならぬのである。
僕もT嬢の優しく暖かい小さな手に寂しく白い女の手を感じて居るが、真に美しいものを信じても居る。
冬の夜は永く静かだ。
僕の記憶の内に三つの女の手の重なるのは何と神秘な光景だろう。
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