美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

  形という淋しみ                                   
 今日少し、寒さは和らいだが夜になって又気温の下がりつつある様だ。
 僕は昼間、T嬢の来るのを待って居たらばふと彼女の手を机の上に感じた。それ迄にも彼女の小さな手は僕の眼の前に様々な表情を見せていた筈だったが、その時机の上に奇麗に揃えられた両手は何と無く寂しげだった。 僕は以前から人間の手に興味を持って居たが、それもやはり僕の興味を誘うものであった。寂しく白い女の手は常に僕の中に屡、表れ一瞬にして消えて仕舞うのである。しかしそれは何時も、T嬢の手ではなかった。
 ヴィオレッタを演じた時のテレサ・ストラータスの、[忘れられた女]と自らを書き著した時のマリー・ローランサンの、或いは「鳥の歌」を弾き終った時のジャクリーヌ・デュ・プレの手だった。
 けれども昼間机に感じたT嬢の手の清純な優しさはどんな女の手よりも暖かだった。
 それにしても何故、T嬢の来る前に彼女の手は僕の机に表れたのだろう。彼女の手は突然表れたのではなく以前から、そこに在ったのかも知れぬ。僕の此の机の左の端に、T嬢は何時でも手を揃えて座り色々な話をしてくれたのだった。
 人間の記憶とは恐らく過ぎ去った時間を組み換えることの、意外に簡単にやって仕舞うのだろうか。そうしてその記憶の持ち主の意識の冷静さによって基の位置に戻るのではあるまいか。T嬢の手の記憶は僕の精神の疲れに刺激されながら机に映し出されたと言える。
 そんなことを考えて居ると玄関のベルの鳴ったのに気付いた。T嬢だった。
 僕は彼女の手を気にせぬようにと努めたが、彼女の両手は不相変此の机の左の端に七センチばかりの間を置いて揃えられた。
 僕は奇妙な安心感と親しみとを覚えた。先程迄記憶の悪戯として見詰めて居た彼女の小さな手は今もやはり同じ場所に在るのだった。それは僕の過去のものなのだろうか、それとも今のT嬢の手なのだろうか。全く区別の付かぬ儘、僕はT嬢の手を彼女に気付かれぬように見詰めて居た。
 彼女はその手に指輪もブレスレッドもそして時計も付けていなかったが、僕にはそれ故に暖かに思われた。
 僕は今日始めてそういう手を美しいと想った。
 [お母さんに内緒なんですか]T嬢はそう云って僕の左肩を軽く叩いた。[フィッシャー=ディスカウさんのリサイタル]T嬢はその嫋やかな唇を若干斜めにしながら、少しボーイッシュな微笑を大きな眼鏡の下辺りに浮かべた。それから暫く僕は母に内緒という口実に楽しいひそひそ話をした。
 後に考えてみると、こう言う楽しい内緒を女の子と話し合うのも始めてだった。彼女の手はそんな楽しいひそひそ話の間にも、僕の机の上に優しく暖かいポーズを執っていた。それは組み換えられた記憶の一切れなのだろうか、それとも今此処に訪れた彼女の手なのだろうか。その他愛ない問題の何と重要だったことだろう。
 僕は今三時十二分という時刻に過ぎ去った時間を思い出しながら此の書き物を進めて居るが、一体時間という奴は何処から流れて来るのだ。唯時間は流れ時刻はその切り取られた或る固有のポーズである。そういう簡単な結論に敢えて甘んじるとしたらば、あのT嬢の優しく暖かい手も僕の固有の時刻だと言える。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、僕は此の静かな夜さえ一切れのポーズにして見せよう。しかしまだ机に在る優しく白い小さな暖かい手をどう解すれば良いのだろうね。
 今日も此の小さな手は体温の調節出来ぬ僕の額の汗を優しく拭き取って、女の体温の深さを僕に再認識させてくれたよ。今迄にも始終彼女の小さな手は僕の額や頬を拭いてはいたけれども、今日は一層暖かいと何故か思ったのである。
 何故か?、君は此のクエッションマークの丸い窓の中に顔を覗かせ僕を揶揄っているが、間違いなく何時か君に告白した通りの感情に僕は今身振るいして居る。そうだ友よ、恋愛とは己以外のものに告白した時に確信に達するのではあるまいか。
 しかし僕は些か後悔をして居る。それはT嬢に此の恋愛を気付かせぬ為に二回の恋愛経験を著作に書いて仕舞ったことだった。彼女への愛を覆い隠す為のフィクションは今僕のノンフィクションを繋ぎ止めている。何という皮肉だ。そうして何という大きな失敗だ。
 T嬢は僕のフィクションを信じ、それに感動さえしている様であった。[過去は過去のことですもの、わたしはそのお友達の現在の方が大切だと思います]何時か友人をモデルにして話した僕の小説プランの中の主人公の殺人犯の恋人は彼の過去を知った時、彼の前から立ち去るがT嬢はその女を此の上なく憎んだ。
 僕はそんな彼女を信じて居たいものだ。
 そうだ、僕のT嬢に対する愛は、此れ迄の恋愛経験とは全く異った懐かしい真実を帰してくれるだろう。身体の不自由故に生れ又それ故に彼女に伝えられぬかも知れぬ愛に、僕は今日かたちを与えたのだった。それは七センチの間隔に、机の上に揃えられた寂しく白い女の手だった。
 寂しく白い女の手は此の冬の夜には如何にも好く似合う。
 しかし此の愛を告白せずに居られぬ日は必ず来る筈である。その時小さな手の体温は一体何度だ。
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