美しきもの (不相変の冬)      第二部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

『「意味」を僕は追い掛ける。』
 此の冬の寒さにも果たして意味は在るのだろうか。
 今日、僕の考えたいことは「意味」という言葉の価値に就いてである。例えば友よ、僕は何の目的の為に此の書き物を書き何を得る為に書くという行為を続けるのか。それは「意味」を具体化することだった。
 最近僕は己の生命の位置を何処に置こうかとよく考えるが、それもやはり「意味」の具体化に繋がるのだろうか。
 具体化された「意味」等在る筈はない。しかし具体化されようとした「意味」は何処にでも転がっている。つまり音楽であり絵画であり彫刻であり言葉である。「意味」とは人間の意識に快い味のことだ。僕は己の人生を言葉という「意味」に捧げる。友よ、解ってくれるね。
 冬の夜は永く静かだ。
 凍て付いた窓硝子に竹林の言葉の跳ねている。
 先程座椅子の枕にもたれて数分間居眠りをして居たらしいがその竹林の言葉を僕は一瞬理解した。冷たい凩を抜けて濃く浮き上がる竹林を感じながら、多分己の生命を抱き締める僕の姿の寂しさを眺めて居たのだろう。
 アンドラーシュ・シフの弾くバッハの『平均律クラヴィア曲集』第一曲に値する美しい竹林の言葉は僕の生命を吸い込んで了いそうだった。たった数分間のレム睡眠に見た恐ろしい程、美しい竹林はまだ此の近くには有る筈だった。
 凩の冷たさに僕の目はもはや開けて居られず、唇は震えるばかりであった。座椅子の枕の中にモービーディックの心臓の在るのは、何だか滑稽な気もしないではなかった。のみならずその心臓の音はベルリオーズの「断頭台への行進」のティンパニーにそっくりだった。
 竹林の内の小さなワルプルギュスの華麗な魔女達、僕の生命を何処迄喰ったのだ。教えてくれ。僕にも己の生命の「意味」を計る権利は在る。それは具体化され得なかった「意味」の欠片ではあるまいか。
 己の未来を知り人生の嫌に成る人もいようけれども、僕は出来る限り正確にそれを知りたい。あの竹林の言葉を解すれば何か解るかも知れぬ。
 人生は哀しむ程永くはない、そんな言葉のふと僕の眼球の端にぽっつりと浮かんだ時に僕の中の寒さは大きな溜息をついた。
 人生は哀しむ程永くはない。
 こういう芥川流のアフォリズムは既に僕の幼年時代にも屡、眼球を襲って居た。「意味」等解らぬ儘僕はその短い言葉の動きに熱中したのだった。しかし今は違う。
 確かに哀しむ暇のない人生の半分を過ごした今は違う。
 友よ言葉にもっと多彩な色彩を与えてくれ。たった数分間のレム睡眠をもう一度呼び起こしてはくれまいか。ブラウン管のエナメルの上に君の残した数多の比喩は、夜毎に僕のアフォリズムと化して此の冬延び延びと遊んでいるよ。
 僕の今書いて居る書き物は夜毎に訪れる君の素顔をスケッチしようという試みなのであり、僕の思考の中に表れた遥かな「意味」への悦しい問である。此の冬の寒さにも果たして「意味」は在るのだろうか。
 座椅子の枕に僕のもう一つの頭の残って居る間に僕の小さなワルプルギュスは又、何か途徹もない夢を用意していることだろうね。日常生活と懸け離れてはいるが、此れも一つの僕の日常生活である。 『平均律クラヴィア曲集』は全部聴き終ったが僕の日常生活は、若しかしたらばそんなバッハのチクルスと同じサイクルに動いているのだろう。単々と「意味」にならぬ意味に繋がり唯、命の内に流れている澄み切った血液の悦しさ。
 人生は哀しむ程永くはない。
 人生はつまり『平均律クラヴィア曲集』の如く淡々と悦しいのかも知れぬ。A・シフというハンガリーの若いピアニストは、僕を今「意味」の鉄格子から解き放してくれた。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ、しかし人生は哀しむ程永くはない。だから僕は僕の生命を小さなワルプルギュスに愉しんでみる。此の冬の寒さにも果たして「意味」は在るのだろうか。
 窓の冬、竹林の冬、京都の冬、そうして祖国の冬、僕は此の冬という言葉を幾度も此処に記しては来たが、その度毎に僕の内の冬の寒さの違うのは何故だ。友よしかし、どの冬も僕にはやはり美しい色彩であり音であり夢であった。
 机を前にして居る僕の冬は「意味」を拒絶しながらも、その「意味」の広さを遊泳中だ。「意味」は一つではない。無数でもなかろう。人間の思考力の限界に僅かに見える遥かな黒点を僕等は、それぞれの理と知との比喩によって有形に成し得たものである。
 窓の冬、竹林の冬、京都の冬、そうして祖国の冬、幾度書いたか知れぬ冬という比喩は、僕には最も美しいのだ。それは例えば人生に似ている。
 若し座椅子と僕の脊髄との間に、僕の人生の隠れているとしたらどうだ。
 僕は澄まして今直ぐにこう書き記すだろう。
 人生は哀しむ程永くはない。
 更に、僕の人生にも存在の寒さは在ったと。又窓に大粒の雪の舞うを見付けて何かの「意味」を僕は追い掛けようとして居る。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ今朝君は一体何処に眠るのだろう。
 竹霊の声は今も僕の耳朶に静かな息を吹き掛けている。
 窓の冬、竹林の冬、京都の冬、祖国の冬は美しい。
 ・・・                   ・・・・・・・・              

感想を電子掲示板(BBS)にどうぞ

日比さんにメール

美しきもののページにもどる

日比 工の手記のページへもどる