美しきもの (不相変の冬) 第二部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「分かちあった夢」
先日きみと相談した名古屋行きのことだが、今名古屋の親友木村から電話にてオーケーを貰ったよ。
木村は二日間休みを取って僕の面倒を看てくれるそうだから、楽しい名古屋博見物になりそうだ。親友というにも様々だが、木村という男は僕の始めての親友だと言える。
僕と同じ歳ながら彼はもう二児の父親なのだから苦笑するしかなかろうね。無論彼とは学生時代に知り会ったのだけれども、当時H大のキャンパスには木村スタイルという一種のファッション迄広めた人気者だった。
明るい黄色の洗面用タオルをぞんざいに首に掛け如何にも動き易そうなTシャツの木村スタイルではあるが不思議にも彼にだけ似合っていた。その雰囲気とその明るさと親しみとは元来、彼の持って生まれた才能に思われた。
僕は決して木村充という親友を揶揄って居るのではない。
友達の思いやりというものを僕は、此のフォークソング好きのちりちりパーマの若大将から学んだと言って良い。
僕は二冊目の著作に、木村とのことを少し書いたからきみは覚えていてくれたのだね。きみの覚えていた通り木村はあの青年だ。そういう男だから京、きみは安心して良いよ。
きみもデザイン博に、正当な形を捜してくれ給え。形はきみの前にどんな姿に現れるのだろう。
しかし僕はきみを木村に、どんなふうに紹介しようかと迷って居る。
唯の友達、ガールフレンド、ペンフレンド、最も親しい女友達、実はもう木村に「女の子と行く」と言って仕舞った。木村は「なるほど」と云って僕を揶揄う言葉を探していたよ。そんな僕の困った息使いに気付いた彼はさっさと日と時間と待ち会わせの場所を決めてくれた。
木村とは金沢も三保の松原も、鎌倉も行ったけれども総て美しいのだった。そしてその何処にも白い海は見えていた。しかしそれは余りに孤独な光に包まれていた。
白い雨、黒い窓、青いカーテン、此の部屋に無いものを僕はきみと捜しに行く。此の部屋に無いもの、僕は何時もそれを捜して海を観るのだけれども海は寂しく光るばかりだった。そう言えばあれは木村と出掛けた三保の松原の海だった。
芸大の同期生だった中谷とイワンとそして弟とを伴った三泊五日の気紛れな旅は、僕の二十七歳に成ろうという夏のことである。きみは多分三泊五日という言葉に首を傾げているね。
梅雨の漸く明けた蒸し暑い夜、僕等はイワンのライトバンに出来るだけの必要品を積んで東へと出発したのだったが男ばかりの車内にはとても眠るという気はしなかった。煙草の煙と湿った風とは男の悲しい夢を煽って狭い車内をジョークに満たすと、皆互いの心の中に自らの夢のキーワードを求めた。
何時の間にか夜は男達の夢を含んだ儘明けようとしていた。
京、きみはもう先程の三迫五日の意味を解してくれるだろう。
そうだ、此れは詰まらぬ言葉遊びに過ぎぬが僕等五人にとってその一夜に求め合った夢こそ永遠に記憶される時間なのだ。つまりあの夜五人の男の経験したのは個々の夢から成り立ったそれぞれの分かちあった夢だったのではあるまいか。
イワンの隣に殆ど車の振動も感ぜぬ位にシートに縛られて居た僕の後頭部に海は感じられた。まだ真暗な風景の中に海はやがて青白いエネルギーを湛えていた。
僕等は車を下りてそれぞれの育んで居た尊い夢という生きものを海へ放した。車を下りる瞬間に独り独りの胸に帰った筈の夢は一旦僕等の胸から離れ海の上空を舞う。
木村は砂に沈んだ僕の車椅子の前輪を気にしながら、煙草と缶ビールとを交互に飲んだ。「まだ見えんねぇ」海の中から見える筈の富士山は木村にとって最も感動的な風景だと云う彼は以前から僕にそれを見せたいと云う。イワンは特に身体の大きな陶芸家だが僕の身体を他の誰よりも気遣ってくれるし、芸術的にも最も僕に近いと思われるが時折妙な物を拾って来る。此の日もやはり浜辺に僕を連れて行くと少しふざけた後、波打ち際に覗いた色々な物を集めに掛かった。
イワンには常に手に触る物の必要だったのだろう。別段形その物を愛したのではなくイワンという男は何時も物の形と拘っていたかったのだろう。
人の手は寂しい。僕はその時ふと想ったのだ。
イワンの手は寂しい、人の手は寂しいと。
形を練り形を念じ形を造るイワンの手に僕は、言い知れぬ夢の宿っているのを感じて居た。そうしてその夢を彼は海から取り返そうとしているのだと。それ程イワンの手は寂しい。
人の手は寂しい。
京、きみも形に拘っている以上そういう手の寂しみに出会ったことは在るかも知れぬがあの時僕の見たのは物の形に哀れみを感じながらそれを救おうとしている寂しい手だった。薄い桃色の貝殻や波に磨かれた黒い石を一つ一つ掬い上げては又、許へ戻す大男の姿を想像してくれ給え。
どうだろうね京、少しは僕等の男の夢の解って貰えたかと思う。あのイワンの大きな身体と形に対する哀れみに漲った手とそして海、それは一夜にして共通の夢を語り合った僕等を代表する風景だと言える。
人の手は寂しい。故に手は物の形に拘りを持ち、美しいものを捜し求めようとするのではあるまいか。僕はそんなイワンの波を踏み締める姿にミケランジェロを感じつつ、その背後に富士山を見詰めて居た。
木村の云う富士山はまだ青暗い海の上に突然聳えていたのだった。それから暫く僕は、富士山の麓に僕等の放した夢の翔ぶのを眺めて居た。時間は微睡みの中を過ぎて行く。
僕の直ぐ後ろに大きな松の樹にもたれ足を投げ出して木村は眠っている。
夜は明けた。しかし夢は帰って来るのだろうか。富士山の麓に如何にも快しげに翔び交う僕等五人の美と名付けた夢は果たして再び此の胸の中に帰って来るのだろうか。木村の鼾は時々僕の鼓膜に戯た小太鼓のように聞こえたが一向に煩いとは思わなかった。
夜は明けた。
イワンは僕の車椅子を波打ち際に寄せて僕の小さな足を波に触らせてくれた。波は小さな足を掠めると幾つかの小さな波となって消えて行ったが、僕にはそれは快感だった。「冷たくないね」イワンは後ろから僕の顔を覗いて笑った。
成程波は冷たくはなかった。富士山の麓からの温もりだ、不思議にも僕の頭はそんな結論に満足して居た。逆さになったイワンの顎髭は、知らぬ間に可成り昇った太陽を遮り優しく愉快だった。
海は夕べの夢をすっかり忘れたふうに輝き始めると僕は、幾分か眠ったらしかった。
僕は一体何を書いて居るのだろうね。どうも僕にはこういう癖の在る様だ。しかし僕は何時も考えて居るのだけれども此の海というものは何と人の記憶に美しいのだろう。
人の記憶に美しいもの、そうだ僕はあの時富士山の麓に放した夢をまだ忘れては居ない。あの夢、あの僕等五人の共に感じて居た夢は恐らく今それぞれの胸に帰っている筈である。
それぞれの形とそれぞれの願いに変化しながらそれは個々の心に落ち着いているだろう。
人の記憶に美しいもの、それを僕はあの三保の松原の夜明けの海に見たのだった。
以来僕は海に限りない愛着を持って居るのだ。それにしても京、僕の見た夜明けの海の真中に形を捜して立つイワンの姿には何と人間の形に対する愛と苦悩とのエクスタシーに溢れていたことだろう。そうしてその風景の中には男の、感動的な豊かな情感にも満ちていた。
人の手は寂しい。僕は此の一言にあのイワンの姿を讃えたい。
人の手は寂しい。イワンの手は寂しいと。
僕等五人はそれから夏の焼け付く様な日差しを受け波打ち際を少し歩いた。
木村は例のタオルを首に掛け、中谷は頬の上辺りに若干力を入れ眼を細めながら、弟は僕の脱水状態を気にして飲料水を離さずに車椅子を押し、イワンはと言えば先程見付けた貝殻や黒い石をかちかちと鳴らし汗を髭に光らせながら、何処迄続いているか知れぬ浜の端を無言の儘歩いて行った。富士山は晴天にも拘らず何時の間にか白い霧に隠れて仕舞った。
僕等にとって此の時富士山は唯一の形のように思われた。
唯一の形の隠れた瞬間に僕等は僕等個人の夢の帰って来たことを自覚したのである。青春という一つの形を僕等は束の間の富士山の姿に託していたのかも知れぬ。
僕等は車に戻ると間もなく箱根に向かった。
僕は例の如く助手席に縛られたがイワンの手をその時僕は左の頬に感じた。僕にシートベルトを掛けようとして頬を掠めたイワンの手はやはり大男に似合わず柔らかく暖かだった。形を労り形に願い形に苦痛を知りそして形に美を信じたイワンの手に僕は人の手の寂しさを認めたのだった。
人の手は寂しい。イワンの掌は寂しいと。
やがて数時間後僕等は箱根に着いたが京、きみの想像した通り僕等の目的は彫刻の森だった。
僕は美に拘り始めてから一度は行きたいと常に思いを寄せて居た彫刻の森美術館だったのだよ。
此の世に形等無い、と断固として考えながらも僕は勇んで飛び込んだのだった。
飛び込んだと言っても電動車椅子だから長いくねくねと曲がった坂道の末、漸く入ったのだがそこではやはり形の荘厳な響きに身体中は震えた。
此の手紙には詳しくは書かぬけれども彫刻の森には各部屋部屋の一つ一つの作品よりも、広々とした庭に配置された作品のその空間は素晴らしい。
そこには何時かきみの云った様な万人に同等の感動を与え、更に万人の記憶に残るものの残っていそうであった。自然は無類の匂いを発散し樹々は時間を無視して囀る、幾つかの作品はそういう囀りに置かれ唄っていた。万人に同等の感動を与え、更に万人の記憶に残るものにそれは限りなく近いものだと僕は思った。
しかしそれは箱根という自然にのみ成り立った洗練された一つの作品でもあった。形の王国とも言うべき一つのファンタジーだった。
しかしファンタジーとは言えそこには空間の、美に満ち足りていたからイワンも中谷も弟もそして僕も満足して回った。
けれども木村は彼の青春時代に、美を信じた経験の無い為にその空間に近付こうとはしなかった。そんな木村だが果たしてデザイン博に何を見付けるのだろうね。
兎に角良い奴だから。京に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・京へ 一月十四日