美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「ソーラン節と古典」

 僕は今日気持ちの良いショックを受けて居る。
 夕飯の終った後、気を楽にしてテレビを観て居たら親しみ深い笑顔に一人の、青年の唄が聴こえて来たのだった。それは紛れもなく民謡だったけれども、僕の耳には懐かしい地響きに思われた。
 懐かしい地響きは段々と心臓に迄上って始めて、言葉とメロディーとに別れ、僕に身奮いさえ感じさせた。何時か僕は雑誌にその青年の名を知っては居たが、どうせマスコミの空騒ぎだと判断して居たのである。
 伊藤多喜雄という民謡唄いの声に、タキオ・サウンド等という下らぬ新語の付いているのは僕の気に食わぬが此れもマスコミの馬鹿げたやり方なのだろう。
 確かに彼の伴奏にはサックスやドラムの使われてはいるもののそれは飽く迄、彼の声をサポートする為のものではなく民謡を現代に浮き上がらせる為の間の留め金に過ぎぬ。
 留め金の付いた「ソーラン節」何だか此処に書いてみれば奇妙だが、一旦耳にするとすこぶる懐かしいのである。まさしく伊藤多喜雄の声に聴いた「ソーラン節」は此の国の真の地響きからのエネルギッシュな喜びなのだろう。民謡に歌われた民族の苦悩と哀愁とを多喜雄の声は完全に消化して仕舞って、それを多くの喜びに準えて一気に吐き出されるのだろう。
 僕は此れを書き始めて以来、音楽に関しては西洋にのみ注目して居たが友よ今日は違う。多喜雄の声という肉体の一部は僕をこんなに感激させたのだよ。しかも今迄と異なっているのはその唄の哀しくないこと、寂しくないことだった。
 哀しみも寂しみも「ソーラン節」は含んではいるけれども多喜雄の小節にそれ等は透明なのである。それ等は瑞々しい声量となって聴こえる。哀しみと寂しみとは僕等の心の底に知らぬ間に蓄積しながら輝くだろう。
 僕は僕の信念に今日再び出会ったよ。世に最も美しいものは、人の声だという有り触れた信念だった。そしてそれは此の国に於いてのみ、最良の条件の生まれるということだ。そうだ、折角生まれたとしても育てねば意味の無いのは君も解っていよう。
 今もあの民謡唄いの僕の眼前に立っていそうだが、実に感激だったよ。
 懐かしい地響きは此れからも僕の周りに声の宝物を散らかしてくれるだろう。あの「ソーラン節」とタキオ・サウンド、全ての新しきものは古典への回帰を求める比喩に過ぎぬ。それは、祖国と人間との約束ではあるまいか。
 冬の夜は永く静かだ。
 友よ僕の古典への回帰は何時終るのだ。否、それは果たして始まっているのだろうか。
 人の声に悲しみを歌うのは案外容易いことだったかも知れぬ。つまり此の国に簡単に生まれて来る流行歌は、些細なあはれを引き伸ばしているだけである。しかし民族のあはれは悲しみではなかった。民族のあはれとは悲しみという風船を膨らます日本の知恵では在るまいか。多喜雄の声は日本の知恵を表現する大いなる喜びに満ちている。
 僕は人間の声の表現力を信じて居たが、こんなに容易に聴いて仕舞うと何だかショックだ。大いなる喜び、大いなる知恵、そして大いなるあはれ、それは新しき古典なのである。
 懐かしい地響きは今日、僕に古典への回帰を思い出させてくれたよ。
 時代と歴史と国家との関係を全く断った所に民謡は在るけれども、実はそれ等のエネルギーは懸命に生活を繰り返しながら唱われて来た民謡だと言って良い。僕は少なくとも此の部屋に、やはり古典への回帰の意志の在るのに安心して居る。
 そうだ友よ、時代と歴史と国家とに最も深い係わりを持った僕等の声という宝物は、僕に新しき古典を主張している様だ。君の役割はそういう古典への回帰を一つの尊い比喩として、僕の日常生活の内に呼び帰すことであった。
 民族性とは生活の中に既に民族の古典を携えている本能である。それは大いなる喜び、大いなる知恵、そして大いなるあはれ。
 今古典の声は僕に懐かしい地響きとなって聽こえる。僕は生れつき己の声を知らぬが、声は確かに僕の中に在った。声は僕の喉に無く、胸の内に有形の言葉として突然在ったのである。しかしその有形にして渇いた言葉は常に、無形の初々しい声量を夢見ていた。
 友よ僕の言葉は此の冷たく澄み切った冬の数多の星々に似ている。
 伊藤多喜雄の「ソーラン節」の僕に感動的だったのは大いなる喜びと知恵とあはれとを僕の民族性の一部に投影させたからである。
 人間の底知れぬ声量は些細な哀愁を歌う時よりも、民族のあはれを高らかに唱う時に美しい。
 それは但し、西洋には言い難いことかも知れぬ。永遠に頼る所の無い孤立した歓喜と、何時も陽気に背中合わせの悦楽との違いである。
 僕はその孤立した歓喜の唱を聴きながら、此の部屋の天井に様々なかたちを見詰めて居た。今はもう見えぬかたちの様々は有形なる僕の言葉だった。
 大いなる喜び、大いなる知恵、そして大いなるあはれ、僕に見えて居た様々なかたちとは一体何の比喩だったのだろう。
 冬の夜は永く静かだ。
 懐かしい地響きの残したのは様々な声のかたちだった。
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