美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

 「眼鏡」

 風邪は意外に早く治りそうだ。

 熱も今朝平熱に戻ったけれども何かの膜の目の前に被さっている気分である。母に眼鏡を幾度か拭いては貰ったが、やはりその膜の原因は僕の眼に在るのだろう。

 此処十年程僕はレーバンの眼鏡を愛用して居るが、最近掛けたり外したりでは物足りなくなって仕舞った。

 此のマッカーサー眼鏡は僕の鼻の両脇に、米粒程の二つの堅い傷を知らぬ間に刻んでいた。僕は最初飛行機から下りて来る一人の将校の姿に憧れ此のレーバンを選んだが、何時の間にかそれは米粒程の自己嫌悪と化していた。

 自分の顔にマッカーサーの付いていそうだった。しかし或る時、鏡にレーバンを外した自分の顔にもマッカーサーという男の記憶を発見した。ぼんやりとした膜の向こうに、一人の軍人の黒いサングラスは颯爽と傲慢に光っていた。

 以来僕の顔には比喩としてのマッカーサーは影を潜め、一人の軍人の顔を見るのである。それにしても友よ僕の目の前の膜は単に風邪の所為にのみ在るのでないことは充分承知して居る。以前から僕の眼は弱視であったにも拘らず、先日は慢性の結膜炎だとの診断だった。弱視も慢性結膜炎も正しい診断ではある。けれども医者の診断程、個人の過去を軽んじて成されるものはなかろうね。

 そうだろう君。

 冬の夜は永く静かだ。

 此の全く透明な冬の夜僕はこうして書き物に熱中して居ながらも色々なものを視覚に受け止めて居るのである。

 色々なもの、物、そして者を。僕の部屋には唯本のレコードの更に絵の在るきりだが、僕の眼はそれ等の物から様々な力を受け取って居る。

 愉快な、哀しい出来事の力を僕の弱視の二つの玉は今も尚見詰めている。

 もう僕の顔の一部になったレーバンの眼鏡は例えば物には違いない。しかし僕の言うものとは或る一つの個体ではなく人の視覚に返った後の感覚的なかたちのことである。視覚の内に思考する或る一つの物には過去も知恵も、或いは思想も在るかも知れぬ。

 それは一夜の夢の中の人影に似ている。その人影は歳を取らぬ。にも拘らず人の視覚の中では、個人の為に時間を持ち年齢を数え表情をも考え出すだろう。人は物を見詰める時歩いては見られず立ち止まって仕舞うから、物の方に動くことを要求するのである。

 つまり人間の眼の中に有る物はその個人の為に何らかの力を与えねばならず、それは不相変僕には愉快だ。

 物は比喩だ。比喩は道標だ。有形は無形という比喩に過ぎぬ。友よ、だからこそ僕は冬の夜を愉しむのだよ。

 物は比喩だ。比喩は道標だ。色々なもの、物、者、それは僕の弱視の眼に不相変滅法美しい比喩なのである。今君は僕の頭の真上に何かを応えようとしているね。

 僕の眼鏡の汗止めの辺りに、君の応えようとした銀色の何かの見えたのを感じた。そんな僕の奇妙な経験は僕の十七歳の頃から時折、小さな嵐のように僕を襲うのだった。

 唯その君の応えようとした銀色の何かの段々明快になって来た時に、僕はレーバンの眼鏡を掛け始めたから銀色の何かは此の眼鏡の汗止めに何時も隠れている。それは大抵机の上に書き物を考えて居る時に、額の真中に呼吸でもしている様である。

 僕の眉間に張り付いて絶えず呼吸している君の応えを僕は此の冬に解読して見せる。あのシューベルトは三十一歳にして死したけれども、彼の眉間にも或いはその呼吸する答の張り付いていたかも知れぬ。だから僕の耳には常にシューベルトの悦しく淋しいアレグレットの聴こえて居るのだろう。悦しく淋しいアレグレットに無形という比喩の生きているのを聽きながら、僕は彼の華奢な眼鏡を想う。

 一体シューベルトの眼鏡は何を宿していたのだろう。そうして彼の眉間はどんな答を支えていたのだ。僕は此の書き物を書く以前にシューベルトに就いて書いたが、それにもまだ彼の眉間の答を解明して居ない。否、解明したく無かったのである。

 悦しく淋しいアレグレット、僕はシューベルトの眉間の答をそういう形容詞に託して見たかった。理由は何も無い。しかし彼に就いての書き物を書き終えた直後無い筈だった理由は見付かった。

 僕も既にシューベルトの悦しく淋しいアレグレットを書いた年齢に到達して居たのだった。のみならずそれは彼の命の、音楽という彼の形容詞の尽きた三十一歳だった。思えば悦しく淋しいアレグレットと、僕の形容したのは僕の眉間に張り付いている君の応えの様な気もしないではない。

 此の悦しく淋しいアレグレットという滅法美しい比喩を僕はやはりもう少し愉しむことにしよう。

 冬の夜は永く静かだ。

 友よ、物は比喩だ。比喩は道標だ。

 シューベルトも恐らく比喩という道標に、色々なものを映し見たさすらい人なのだろう。比喩という道標は今、此処に或る本の形を撮って僕の眉間を照らしている。

 それは気の狂った十年間にも近眼の眼鏡を離さなかった弱視の詩人の書いた本だった。その詩人の眉間にも、やはり絶えず呼吸していたのは比喩という答かも知れぬ。

 冬の夜は永く静かだ。

 友よ今日も尚寒く透明だ。

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