美しきもの (不相変の冬)第二部     

日比  工

窓一つ愛する友達へ寄すリーダーアーベント

 「肩の痛み」          

 此れを書き出してから僕は始めて昨日一日書き物を休んだ。別段驚く程の高熱も、例の咳の発作も出た訳ではなく、左の肩に突然電流のような痛みを感じたのだった。たったそれだけのことたった。

 それは左の肩の皮膚の裏側に時限爆弾でも、爆発したかと思う程の痛みであった。皮膚と筋肉との間に、今でも熱い玉を打ち込まれたような痛みに戸惑いつつ此れを書いて居る所だ。

 最近此の部屋は何時になく寒いけれどもそれにも拘らず、臆病風も吹いていそうである。腹の真中から脳天に突き上げている冷たい風を臆病風というのだろう。一体僕は何に怯えて居るのだ。

 一昨日僕は僕の肉体の思い出に就いて書いたが、実は今その己の肉体に恐怖感を感じて居る。嘗て僕には怖いもの等全くなかった。

 けれども今は怖い。何故だ。

 友よ何故だ、教えてくれ。此の部屋の天井に僕の臆病風を次々に喰っている君、早く教えてくれないか。肉体とは僕の何なのだろう。更にそこに纏り付いている恐怖感は、何故突然今日僕を襲ったのか。

 僕はそれを君に問い掛けて居るのだ。

 そうだ友よ、別段僕の問には応えなくて構わぬから、僕に君の勇気をくれまいか。君のその不安そうに瞬いている眼の中に、実は煌々と満ち溢れた比喩という勇気をくれまいか。僕にとって肉体とは既に錆付いて仕舞った筈の時限爆弾に過ぎぬ。錆付いて仕舞った筈の。

 僕はそういう形容詞の空しいことを知らぬ訳ではない。けれども今日、左肩の電流のような痛みは僕に空しい形容詞の美しさを思い出させたのである。

 今も尚左の肩に住み着いて痛みは僕の神経を喰い荒らしているが、友よ果たして痛みとは何なのだろう。

 肉体の有る故にそこに痛みは空しい形容詞の如く、或いは蜃気楼の如く有るのかも知れぬ。エマニュエル・カントの感じた空中電気も恐らくは、彼の思考の空しい形容詞だったとは言えぬだろうか。

 錆付いて仕舞った筈の時限爆弾、ふと頭に浮かんだ此の形容詞の何と優しく美しい響きだろう。確かに形容詞は虚しい。しかしその虚しいものの響きを人は己の生と死との際に思い出すのである。僕は又生と死とに就いて考えをあれこれと回らさねばならぬのだろうか。それは実を言えば先程からずっと、考えまいと努めて居た僕の臆病風の出入口である。

 どうやら君、僕の頭の構造はその問題をなくしては先に進まぬらしいからそろそろ観念しよう。

 生と死と、飽く迄僕の主張は此の二つの文字から形を成した思考の再確認であり、有形なる総ての事物に対する復讐である。のみならず僕の思考の中に在るのは生と死との周りを取り囲んでいる数多の形容詞だ。

 今左の耳の下にぴしっという音の聞こえた様だが、肩の神経でも断れたのだろう。昔左の手の親指の神経の断れた時にも確か、そんな音の耳元に鳴ったのを僕はまだ覚えて居る。

 亡き祖父に抱かれた幼い僕の左手は枝のように伸びたきりだったから、横断歩道を渡った直後灰色の小さな車は急カーブを曲がった。車の大きなバックミラーを僕の眼ははっきり捕らえて居た。左手の親指の神経は既に音を発てて断れていたと記憶して居るが、僕の眼は太陽光線を跳ね返しながら遠ざかって行く大きなバックミラーを追い掛けて居た。それは最初の僕の事物に対する嫌悪だった。

 以来左の掌には蒼黒い血管の浮き上がっている時も有る。あの時と同じ音を今左肩に感じながら僕は此れを書いて居る。

 冬の夜は永く静かだ。

 友よ僕は肉体を怖がって居るのだ。

 己の肉体だけではなく全ての事物に愛想の尽きたのを寂しく思って居る。しかしそれは何も、今日に始まったことではない。そういう僕のニヒリズムを引き摺り出したのは確かに原因不明の左肩の痛みに違いないが、友よ僕の思想の根底には凍て付くような虚無感の在ることを此処に告白する。だから君の熱く輝かしい形容詞に、自らの生と死とを飾りたいと願うのである。

 ほら又君は深刻な顔をして僕を見ているね。僕は君のそんな熱情を、懐かしく感じて居るのだよ。FM放送の始まるのを告げて、爽やかな音楽の聴こえて来たとは言え窓は以前暗闇だ。

 僕の右前方には、電気ストーブの水蒸気の煩い音も聞こえる。何度か煩いからと言ったのだが母は僕の喉に良いと云ってその水蒸気を切ってはくれず今は寝入っている。実際此の水蒸気の音は二つの鼓膜の裏をからからに渇かせて仕舞う。スクラッチノイズだらけの、ハイドンのカルテットのレコードよりも不愉快である。

 若しベートーヴェンだったら此の音を何と表現するだろう。両手に耳を塞ぎ一声喚いた後、大の字に寝て仕舞うかも知れぬ。のみならず水蒸気は視覚にも有害であり喧しいものだ。特に今夜のような臆病風の吹いた夜には。

 僕の耳はものを見る。そして僕の眼も音を敏感に聞き取るのだからね。どうだ君、面白いだろう。でも君には信じて貰いたい。

 此の僕の不思議に耳と眼と、更に思考の中の体験とそれを飾ろうとしている形容詞の響きとをね。

 冬の夜は永く静かだ。しかし今夜はノイズ有り。

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