美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「人間の肉体の真実」

 僕は今日少し風邪気味だがまだ熱は無い。

 『ファウスト』を封印したゲーテは風邪を引き長椅子に横たわって八十三歳の生涯を閉じたけれども、さて僕はそんなに人生を愉しんでは居ない。即ち人生とはゲーテにとって哀しみという道草意外に多い一夜の夢に過ぎなかったのだろう。

 一夜の夢にゲーテの観た美しきものは今、僕の本棚に眠っている。

 冬の夜は永く静かだ。

 友よ果たして僕の観て居るものは美しいのだろうか。何も映らぬブラウン管と冷たく大きな窓と、そしてその間に文字を書いて居る僕との拘りは一体何なのだろうね。唯そこには距離の、僕の人生の総ての距離の在るのみである。僕は敢えて言い切って見よう。此の僅かな距離の中に僕は美しいものを見付けたいのだ。

 今日は風邪気味だと書いたが、此の風邪という奴は時折僕に奇妙なものを見せてくれる。例えば先程風呂上がりに休んで居ると、左足の少し怠い膝の辺りに蒼白い骨を感じた。それは僕の足とは全く別個のものであるにも拘らず膝の上に重なっていた。

 それから暫くそれはふんわりと膝を庇うように被さり何時の間にか溶けて仕舞った。その直後関節はぴりっと痛んだきりだった。肉体自体の思い出した自らの過去ではあったがそれは一つの僕の哀しみだった。

 何だか不気味な幻想だが肉体にも過去を想う権利は在る。肉体の権利とは唯成長し老いて朽ちて行くだけではあるまい。

 肉体にも思い出は在る。殆ど微妙な行為故に僕等の忙しい頭には伝わらぬのだろう。

 君に解って貰えるだろうか。片足を切断した人は無くなった足の痛みと一中夜闘うと云うが、確かに肉体は嘆き苦しむことを知っているように思われる。僕の右足は風邪を引き敏感になった頭にそういう肉体のメッセージを伝えてくれたと言える。

 肉体の哀しみは或いは、僕等の知らぬ感覚の襞に流れているのかも知れぬ。だとすれば友よ僕の見たのは幻想でも幻覚でもない。成長することの出来なかった下半身の思い出だったのである。そうだ友よ何と美しい思い出だったろうね。

 あの蒼白い僕の膝の骨に若しかしたらば、肉体の哀しみは凝縮されているのかも知れぬ。そんな些細な肉体の哀しみに今迄気付かず、僕は僕の周りを眺めて居た。もっと肉体の思い出に敏感に成るべきだった。僕の肉体には有り余る程の思い出の在る筈であった。

 友よ君には元より肉体は欠如しているから解ってくれとは言わぬけれども、僕は今も肉体を所有して居る。だから僕は何時も肉体の思い出と切っても切れぬ仲に生きて居る。常に僕の肉体は思い出していたのだろう。それは幻覚だと僕等の論理的自尊心に、僕等の耳は塞がれて居ただけなのだろう。

 肉体の思い出とはつまり、僕の記憶に失い掛けた肉体に拘る出来事である。

 友よ、恐らく君は此の肉体の思い出という言葉を捉え兼ねているだろうがもう暫く、僕の未熟な比喩を我慢してくれ給え。

 僕も自分自信に我慢して居るのだよ。

 僕等の記憶の器にも多分その奥行と面積は在る筈である。ではそこから零れ出た幾つかの些細な、僕等の人生への影響の全くないであろう思い出は何処に消えるのだろうか。

 詩人なら詩人らしく、それは数多の星へ旅をすると応えるべきだろうけれども生憎僕はそうは思えぬ。

 個人の感じる何かの上に重なっているものではあるまいか。数字でも構わぬ。土地でも構わぬ。書物でも家具でもレコードでも或いは一枚の絵葉書でも一行の言葉でも構わぬ。しかしそれ等は肉体よりも遠い或る場所である。それは既に個人の思い出ではなく、或る場所に住み付いて仕舞うのである。

 肉体に残った思い出はどうだ。僕の風呂上がりに見たあの蒼白い膝の骨は、僕の肉体の覚えて居た永遠に僕のもので有り続ける思い出なのである。どうだろう、君。肉体の所有者の歓喜と哀しみとを君にどうしても僕は説明したいのだ。

 友よ暫く聞いてくれ。

 肉体の所有者の歓喜と哀しみとは、此の肉体を所有して居る今こそ書き遺さねばならぬ僕の真実である。

 真実!君、僕の肉体にそんなものの無いことは僕の確信だがしかし真実は一つだけ在る。友よそれは死だ。肉体の真実は死にしか在るまい。此れは何も僕だけでなかろう。人間の肉体の真実は死によって認識され死によって消滅する一夜の夢かも知れぬ。

 つまり僕等は肉体という真実を夢に見ながら、人生に付いて常に思考せねばならぬのである。思考は肉体に就いて繰り返される一種の儀式に過ぎぬけれども僕はその思考をこそ肉体の歓喜だと信じて居る。そして哀しみだと。

 僕は此の一夜の夢を熱烈に愛して居る。だから今日、僕の見た肉体の思い出も僕の思考の一部なのだろう。

 今四時十五分だ。湯冷めせぬ内に床に入ろうと思って居たがつい習慣に書いて仕舞った。

 風邪を引くと例えどんな型のウィルスでも僕は二日目に熱の出る体質らしい。しかし熱を出せば却って書き物の進むから厄介な頭である。

 冬の夜は永く静かだ。

 明日熱っぽい頭に何に出会うだろう。

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