美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
屡の歌
「T嬢」
今日僕の部屋に訪れたのは、僕の出来事の一編となっている昔馴染みの一人の友達であった。あのプリンセス・ミチコの陰に僕を何時しか冷笑していた女よりも以前から、僕は彼女を知って居た。
始めて会ったのは九年前だったが、僕はそれから二年ばかり幾度か彼女の介助を受けた。当時S大学のデザイン科の彼女は、何時も仲の好いJという同級生を連れ此処に来た。
今日のような寒い日等はバス停に偶然焼き芋の屋台を見付けて、それを噛りながら此の部屋に顔を見合わせ吹き出すという二人だった。
Jという同級生は優しく人当たりの良い垢抜けした娘だったから、京都のボランティア仲間の人気者らしかった。けれども此の人気者の娘は印象に残るものの薄かったと言える。
此の二人と知り会って若い娘の爽やかな笑い声と明るい身振りを知ったのだった。
僕は今から三年前二冊目の出版記念会の際、その比較的真面目な方の娘に招待状を送った。彼女はその出版記念会には顔を見せなかったが、白い百合とグラジオラスとの豪華な花束をセンチュリー・ホテルの菊の間に届けてくれていた。
白い百合とグラジオラスと、僕は僕の膝の上にその花束の置かれるのを懐かしく見詰めて居た。記念会の終った後、僕は数人の友達と自分の部屋に雪崩込み不相変議論を始めた。
Yという彫刻家の友人の持参した赤葡萄酒を、小さなグラスに注いだ時電話のベルは鳴った。
母は受話器を僕の耳に当て返事をするように合図した。やはり花束の彼女からお詫びとお祝いとを兼ねた電話であった。
それは紛れもなくジーパンの丸顔の大きな眼鏡の身体の小さなT嬢だった。
T嬢の周りには時間の足踏みしている様であった。考えれば彼女と電話を通じて話すことは始めての経験だったかも知れぬ。
もうT嬢のことだから、幸福な結婚をしているだろうとばかり思って居た。
彫刻家のYは受話器から零れる女の声にワイン・グラスを差し出し僕の目の前に苦笑した。名古屋にガソリンスタンドを経営するNという古い友人は何時の間にか母に代わって、僕の耳に受話器を当てがいながらビールを啜っていた。
[おやすみなさい]
近い内に来て欲しいという僕の要望を素直に聞き入れ彼女は電話を切った。以来その彼女のおやすみなさいは僕の出来事の大切な句読点になっている。
此のおやすみなさいを聞く為に僕は時折T嬢に電話をしたが、彼女は何時も変わらぬそれを言ってくれるのである。それから十日余り過ぎた或る年の瀬の午後、T嬢は約束通り此の部屋に来たのだった。身形こそ少し大人になっているものの全く変わらぬ彼女だった。僕は驚いたけれども反面安心もした。
[お久しぶりです]と云いながら大きな眼鏡の下には親しみ深く優しい眼に微笑みを忘れていなかった。
僕はふと出版記念会の花束を思い出した。
白い百合とグラジオラスは恐らく彼女そのものの真心だったのだろう。
何人かのボランティア仲間からは彼女の結婚に関する噂を聞いては居たが、T嬢に再会してから気にならなくなった。
白い百合とグラジオラス、そして彼女の少し唇を斜めにしたおやすみなさいは僕に、何よりの安心感を与えている。
僕は今日もタエ坊に大切なことを言えずに了った。
君、どうしたら彼女を傷付けずに伝えられるのだろう。はっきり書くが今迄僕の恋愛事件は総て彼女を安心させる為の比喩に過ぎず、今考えればT嬢以外の女性を愛した覚え等ないのだろう。
冬の夜は永く静かだ。
友よ再会したT嬢は美しかったよ。
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