美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「日記」

 澄み切った気持ちの良い夜だから、恐らく此の日記に書かれた文字も感度の良い言葉を発するだろう。果たして言葉の意味とは正確な形に弾き出て来るものだったろうか。こう言う澄み切った冬の夜になら、此の下らぬ疑問符も何処かに届いてくれそうだ。確かに下らぬ疑問符だが、僕には僕の人生そのものなのである。

 日記を書き始めてもう九日目だが僕の体調では毎日書く訳に行かぬので仲々頁数の捗らぬのは残念だ。

 あの大エッセィスト志賀直哉は毎日五枚を日課としていたそうだから、僕から見れば羨ましい限りの先輩だと言える。

 志賀氏の書き遺した短編小説(紀行文として)に僕は日本文学の堕落の始まったことを感じて居る。氏の短編には確かに格調高い文体と、それを繋ぎ止める構成力を認めざるを得ぬ。しかしそれ故に、言葉の意味は明快過ぎるとさえ思われる。

 明快な意味とそれを確保する為の句読点の正確さは日本語には無かった筈のマジックである。

 何年か前に、僕の文章にはリズムは有ってもハーモニーは無いと志賀氏の熱愛者であるN先生に云われたが此処になら弁解も許されよう。

 つまり志賀氏の短編はリズムとハーモニーによって完璧に流れてはいても、メロディーへの執着に欠けているのである。

 例えばスメタナの書いた「モルダウ」はどうだろう。モルダウ川の優美なハーモニーの下には、郷愁を込めた豊かなメロディーに溢れ人の心を永遠に打つ。それはスメタナの個人的な卿愁でありながら、僕等の耳にもモルダウ川の流れを思い出させるのである。祖国チェコスロヴァキアに失われた聴覚を傾けた時、スメタナの目の前には色鮮やかなトーンの在るばかりだった。

 モルダウ川に添って山は聳え、樹々はそよぎ風は美しかった。

 スメタナは異国にて祖国の風景の隅々迄、音楽の中に見渡した。モルダウ川というメロディーは祖国の風景の総てを知っていたと言える。僕の言いたいことは日本語に書かれた文章には明快な言葉の意味よりも正確に組み立てられた文体よりも、個々の人間の観たそれぞれの風景の重要性である。

 僕は志賀氏の文章にその風景の全く無いとは言わぬ。しかし志賀氏の短編はそういう神秘な文字の美学に欠けている様である。

 日本語は確かに多くの意味と歴史とを含んではいるけれども、そこに必ず文字の美は在った筈だった。僕はそれをメロディーと敢えて言い切る。

 成程文字を読む時僕等は視覚を媒体として、頭に解読を要求するが一体文字の美は何処に感じるのだろう。解読された文字の意味にでは無く、言葉になった瞬間の文字のトーンに美は在るのだ。つまりその微妙な瞬間に通り過ぎようとする微かな旋律こそ真の美なのである。

 もはや日本文学にはロシア的意味もフランス的感覚も必要ではなく日本古来の言葉の力が求められねばならぬ。言葉とは力である。

 力とは文字の中の旋律である。

 調和する瞬間、僕等の頭の上に鳴った旋律を僕は日本語だと判断する。それは調和を意とせぬ調和への復讐だと言える。

 冬の夜は永く静かだ。

 僕は此の冬の夜に調和への復讐を企てて居る。何と巨大な相手を僕は見付けて仕舞ったことだろう。もはや万象は相手ではない。

 今テレビに朝のニュースは始まったが僕はどうも興味を持てぬ。何故ならニュースは社会の屑漁りに過ぎぬからだ。事実を伝えること、それは余りにも僕には滑稽に聞き苦しい。事実等到底僕等には伝わらぬ所に在る別世界である。

 完全なノンフェクションは、フェクションの中の一部の真実を切り取った所に生まれる。したがってマスコミに報道されるニュースとは唯の噂話に他なるまい。僕はその噂話を聞く度に日本語の無駄使いに呆れ、時には酷い頭痛さえ催すのである。何だか砂金の泥に変わったという気に成る。

 何とか此の部屋からそういう噂話を閉め出して仕舞いたいと考えて居る。

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