美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「形の無くなったもの」

 どうもこんなふうにして君に手紙を書いて居るとふと何かに気付いた様だ。

 それは恐らく無色無音のテストパターンに僕の、形の無くなったものへの好奇心は始まったのではあるまいかということだ。

 そうだ友よ僕は、君と同じく形の無いものを形にしようとして居る人間なのだろう。そして又君と同じく今有形なる物等信じぬ故に、無形なる色彩と音とに敏感なのである。僕は己の身体の不自由故に有形なる物から逃れて無形なるものの価値を云々する積もりはない。

 君には無論言う迄もないが人間に最も必要なのは有形なる物の哀れを知り、無形なるものの悦しさを理解することである。宗教でもなければ哲学でもなくそれは、僕等の日常生活の上に成り立っている尊い一つの観念ではあるまいか。

 友よ今僕の正面やや上から君の描いた美しい鳥の眼は優しく微笑んだがそれにしても何と神秘的な色彩を持つのだろうね。色彩とは無形なるものの代表だが、此のノスタルジックな鳥は色彩の役割をよく知っている。

 僕は此の色彩の役割をやはり、十二歳頃から考えて居た。

 何か大きな黒い鳥の羽撃く音は殆ど影を潜めていた頃、僕は或る田園風景を観たのだった。

 一枚のLPレコード(それはブラームスピアノ協奏曲第二番だった)に海のような空のような森のような嵐のようなそして音楽のような風景は広がっていたのだ。

 深い海の底から淡く力強いホルンの音は、立ち昇り束の間に空間を満たしながら体内に溢れて来る。薄黄緑の紫陽花のような華のぽっと咲きホルンの音に伝わっている。そのヨハネス・ブラームスの大きな華の遥か後方に海のような空のような森のような嵐のようなそして音楽のような風景は拡がろうとしていた。

 友よ此の風景こそ僕の記憶に張り付いている美しい世界なのである。

 海のような空のような森のような嵐のようなそして音楽のような風景、君はこういう僕の言葉を可成り理解してくれてはいるがそれは僕の永遠の故郷なのだ。

 まだ見知らぬけれども何時も懐かしく想い出す完全不滅の故郷、誰も皆そこを見詰めながら死せんと欲する心の安住の地である。したがって友よ僕は此の風景を何時迄も見詰めて居たい故に、何時迄も体験し得た僕の[事]の背後に見詰めて居たい故に何かを言葉によって表現し続けるだろう。その風景のことを永久に故郷だと指したいからだ。

 色彩の役割、そうだ僕は此のブラームスの与えてくれたホルンの音にのみ色彩を感じたのだった。無形なるものの代表である色彩は僕にとっては一枚のLPレコードから生まれたのである。そして僕の体験した[事]の背後に常にあのホルンの音の見えたのである。

 長々と手紙を書いて仕舞ったが友よ君への応えになったろうか。否答にならずともせめて、応えようと必死に書いたことは察してくれたろうね。

 僕も今自伝的小説を書こうとして居るのだが、枚数は思うように進まぬ。君の描いた美しい鳥はそんな詩人の苦悩を見守っているよ。 中谷へ

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