美しきもの (不相変の冬)      第一部       

日比  工

窓一つ                         

愛する友達へ寄すリーダーアーベント

「若い女」

 [寒い]そういう言葉の僕の口から零れると、母は慌てて窓を閉めてくれた。

 にも拘らず僕は僕の口に含まれていた芥川の言葉の腹立たしかった。そしてレーバンの眼鏡の急に曇ったことも僕の気に触った。けれども僕の気を直したことは、オレンジ色のプリンセス・ミチコの増えていたことだった。

 不機嫌は暖かいプリンセス・ミチコの色彩に散って行った。以前から此のオレンジという色彩に僕は特別な関心を持って居た。色彩という物程に人間にそれぞれの真理状態を知らせるものは無いが、それは或る若い女の姿を思い出させるのである。

 異性への憧れと言ったものの疾くに過ぎた今僕の心に独り佇む若い女。顔等もう忘れて仕舞った若い女に昔僕は恋愛して居たのだった。

 憶えて居るのは美しい唇、手それから[アリガトウ]。

 僕は此の若い女との恋愛経験を小説に書いたことも覚えて居る。しかし僕の記憶には僕の小説に描いた此の女の在るだけである。唯何だかオレンジ色の似合いそうな、若い女の在るだけだった。

 マリア・キアーラ

 エディッタ・グルベローヴァ

 カティアナ・リッチェルリ

 ジュディス・ブレーゲン

 エディット・マティス

 こうして全ゆる女の顔を書いて見ても、あの若い女の顔を思い出せぬ。

 唯オレンジ色の似合いそうな若い女の佇む姿の見えるだけ。オレンジ色の、幻の中に佇む女の見えるだけである。

 色彩とはこうも人間の五感に個々の思い出を見せてくれるものだとは、僕は今一度感謝せねばならぬ。何に、プリンセス・ミチコの暖かいオレンジ色の妖精達に感謝する。

 それにしても僕のあの時吐いた白い魂の欠片は今頃何処に浮かんでいるのだろう。若しかしたらば此の部屋に流れている純粋な時間の下に埋もれたかも知れぬ。

 若い女はまだ僕の眼鏡の端に『ルージン』を読んでいる。浮き草、突然僕の頭にそういう言葉の燈るのを感じながら、その現象の理由に付いて考え始めた。

 若い女は時折、紅みを帯びたそばかすの辺りに苦笑を浮かべているらしかった。やはり、プリンセス・ミチコにも氷針は在るように思われた。健康という氷針はあの若い女の匂いだった。若い女の確かに甘美な匂いは僕の肉体の欠如を知らせる氷針を恰も暗示していた。

 のみならずそれはツルゲーネフの、二葉亭四迷の悪戯だった。

 冬の夜は永く静かだ。

 友よしたがって夜毎にそんな小さな悪戯を感じるのも良い。しかしあの若い女は最近嫁ぎ、子供を産んだと風の便りに聞いたが僕にはまるで変わっていないような気もする。

 憶えて居るのは美しい唇、手それから[アリガトウ]。

 たったそれだけの女の匂いはプリンセス・ミチコのオレンジ色の陰にまだ佇んでいそうである。何処にどんな暮らしをしているかも知らぬHという独りの女、僕はその女に今日小さな悪戯を蒙ったが君楽しかったよ。 冬の夜は永く静かだ。

 母の手枕に見た数多の星々のトーンは今でも僕のこめかみに残っている。奥歯を噛み締める度に耳の鼓膜を目掛けてそれ等のトーンは激しく回転して聴こえるのである。

 回転しながら聴こえるシルバートーンとはつまり、イツァーク・パールマンの弾くJ・S・バッハ「無伴奏パルティータU」の「シャコンヌ」にそっくりである。パールマンのヴァイオリンの音は人の肉体も精神も大きな円の中へと巻き込む。僕は最近此のディスクを聴いたが、紛れもなくそこにはメンデルスゾーンの「ホ短調協奏曲」を松葉杖に倚り懸り親しみ深い笑顔に弾いて聞かせた大道芸人は居なかった。

 もはやパールマンの音は見事な鉄の筋肉を付け、天空高く舞い上がっている。それは既に音楽に、総てを捧げようとした人間のモノローグである。誰にも媚びず誰にも訴えず、バッハという過去に応える「シャコンヌ」は僕の窓にも跳ね返った。僕はそのシルバートーンを冬の永い夜に見たのである。

 バッハは幸福者だ。明日は散歩をする積もりだ。快晴水曜日なり。

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