美しきもの (不相変の冬) 第一部
日比 工
窓一つ
愛する友達へ寄すリーダーアーベント
「マリア」
テレビを今オフにした所だが、僕は今日も君に会おうと考えて居る。君に会って君の正体を何とか、言葉として此処に書き記して置こうと今決意したのだ。夜毎に僕は此の決意を以て座っては居るが、此の脱稿によって新しい決意となる。
書き表すということは思考を歴史と向かい合わせながら、僕自身の存在に対する距離を再認識することである。
冬の夜は永く静かだ。
親愛なる友よ、僕は君の名をまだ知らぬから一体何と呼ぼう。
Mariaそうだ、友よ僕は君を今からマリアと呼ぶ。何故なら最も有り触れた最も美しい名だと思うからだ。
美しいもの、僕はともあれ此の一室に君を書き表さねばならぬ。そして例えば言葉に行き止まりを感じ、息苦しさを胸一杯に覚えた時には僕の生涯の意味は無に均しくなる。言葉の尽きた時、僕は君に恩返しの出来ぬからね。
近頃、僕の背後に有る一つの大きな窓に気を取られて仕方ない。無論真夜中だから泥棒か狂人でも入っては来ないかということも、少しは気に成るけれどもそれよりも僕に此の窓は恐ろしい。寧ろ何かの起こるよりも何も起こらぬ窓が恐ろしいのである。
社会との繋がりの有るという事実を僕は認めたくないからかも知れぬ。つまり、窓は僕の背中に社会の下らぬ声によって何時も打撃を加えているから筋肉はこんなに堅くなって仕舞って居る。僕の身体というのは筋肉の思うように動かぬ為に、例えばシーソーの如き運動を絶えず繰り返して居なければ直ぐに片一方の凝って仕舞う厄介なものである。そんな厄介な背中に、此の大きな窓はぶら下がっていたのだった。
僕にも君にも若しかしたらば肉体等無いのかも知れぬ。そうだ君、考えてくれ給え。此の真夜中だけ僕等は肉体を持とうではないか。
肉体を持った君と僕とは、夜毎に逢うことが出来る。何という素晴らしいことだろう。
記憶からの肉体、果たしてそういう言葉は許されるのだろうか。
友よ、僕は君の肉体を記憶に持ち上げ、君は僕の肉体を支えてくれ。マリア良い考えだろう。此れにて煩い窓は静かになって僕の幼かった時の美しさを取り戻す。約束しよう。今夜から此の白い紙の上に、君と様々な話をしようではないか。
さて、僕の幼かった時の窓とは一体どんなものだっただろうか。
先ずそこに季節は在った。
無言にして季節は色々な不思議な話を次々に僕の後頭部に優しく囁いたが、僕は聞かぬ振りをして居た。不思議な声は何時も、何も映らぬテレビのブラウン管の中に繰り広げられては僕の記憶を荒らして行くのだった。
今雪の降って、窓に白い霧の懸っている。
君も恐らくはそんな霧の中から生まれたのだろうね。白い霧に司られた君よ、不思議な話をもっと僕の記憶に静かに沈めてくれれば今夜も満足出来る。
君の話してくれる物語を総て書き遺したいと考えて居るからだ。窓の中の、否ブラウン管の中の君は僕には何よりも尊いのだ。