シューベルト「魂の野道」

日比 工


メッセージ/はじめに

これは僕が31歳になる前に書いた文章なので、今読み返してみると大変未熟なものに思われる。あの頃胃を病んで、殆ど毎日血を少量ではあるが吐き続けながらシューベルトを聴いた。苦しい息のそれぞれの間にシューベルトの暖かな音楽が僕を抱き締めてくれた。

 人間的な余りに人間的な彼の音楽は僕をもっとも大切な友人のように愛撫する、そして語り掛けたのである。以来僕はリルケの描いたマルテと共に彼を自分の中の秘密の部屋に招待し、様々な悩みを打ち明けた。彼はそんな僕に音楽で応え音楽で慰めてくれた。

 この原稿はそういうシューベルトに僕が応えようとした彼への手紙だと言えるだろう。

 ここで改めて大切な時間を僕の未熟な原稿に費やしていただいた飯田くんに感謝したい。又僕のために小舟の絵を描いて下さった栗原さんにも深く感謝の言葉を贈りたい。

1997-11-16

日比 工

序章   青い小舟が眼前に浮かんでいた。風景はその舟の周りを包むように
     ふんわりと白んで、僕の顔に張り付いて動かなかった。

        幻想曲ハ長調

第一章  その1 青く流れる細流の音が恐らく耳に付いたまま人間は
     この世に生まれると、その細流を思い出そうとする。
     思い出そうとする歌はやがて、僕等の時間の仮面と熱い頬との間
     を滑って道化師の化粧と成るのである。

     ファンタジア+道化師+クレーメル+ホッター

     その2 自然なる音楽とはシューベルトよ貴方のそして僕の過去に
     散らばった事件の事ではあるまいか。 過去に散らばった事件は、
     僕にとってこの部屋の隅々から聞こえて来る声だと言って良い。
     こうやって真夜中、一人机に向かって居るとそれ等の声が僕を
     取り囲んで仕舞う。

        シーレ+糸を紡ぐグレートヒュン+エディット・マティス

     その3  シューベルトは僕の幾つもの湖に音楽という肉体を与え
     そこから歴史を呼び起こしたのだった。歴史とは永劫にして未知なる
     音楽の鼓動である。

    ポリーニ+ロマンティシズム+流離人

  その4 美しいオーボエとクラリネットを追い掛けるような野生的
  な弦楽器の哀しいアレグロ・モデラートの中の影法師がシューベルト
  の木霊かも知れぬ。木霊は彼の心臓から弾き出され歌の切れ端と成って
  僕等の青春に飾られたのである。

    レンブラント+[自然以上のもの]+未完成交響曲

第二章  その1  思考が片仮名を追うとあたかも僕の青春が理想に一歩宛、
     近付いて行くように思われたが恐らくは日常生活の何処にでもその理想という
     切れ端は在ったのではあるまいか。僕は十八歳にして完全なる呈示を知り
     それを、表現すべく言葉を欲した。

    ブルックナー+ゲーテ+ミケランジェロ

     その2  生まれて間もなく死が頭の上で、渦巻いていた僕には生はかなり興味深い
     観賞物であった。

       マーラー+ダビデ像+タイプライター

     その3  恋人という名の「出来事」はやはりマーラーの最も美しい音楽の下に眠って
     仕舞うのだろう。二十二歳で出会った初恋の女よ、僕は今お前に問い掛けねばならぬ。
     お前は一体何だったのだ。

     その4 総ての「出来事」が透明に見える。透明な「出来事」これが最も愛すべき青春
     だったのだろう。多分時間の流れも又、比喩と解釈と幻想とに他なるまい。興味深い
     三十歳に僕はやはりこの書き物を遺したいのだ。

      

第三章  その1 比喩と解釈と幻想とF=ディスカウはシューベルトの歌曲にその三つのライトを
     当て乍ら、これを「出来事」として世に送り出した大思想家であり偉大なバリトン歌手
     である。

        フィッシャ=ディスカウ+声が欲しい+祈り

     その2  歴史とは多分個人が現在、体験している「出来事」から照らし出された夢に過ぎぬ
     のだろうか。個人の体験が歴史の欠片を呼び起こすとしたら、僕は今シューベルトという
     歌の歴史を歩いて居るのである。  

     その3 ドアが開くとそこにF=ディスカウが、ヴォータンのように立っていた。大きな人だっ
     た。そして何よりも明るい眼を持った優しい人だった。
      彼は直ぐに僕の名前を呼び、両の耳朶辺りにキスをした。想像を絶する迫力であった。
     しかし想像を絶するような暖かい笑顔でもあった。彼の声は以外に高く跳ねるような
     喋り方だった。僕は生まれて初めて外界からのエクスタシーをこの肉体で受け止めたのである。

     その4 次なる音とは過去も未来も考えられぬ場所で、密かに鳴り響いていた筈の歩調音であっ
     た。失恋した青年のイメージに隠れて、ゆっくりと進行する音楽はシューベルト的な
     る未知の「出来事」だと言える。

第四章

     その1 赤い縁どりのレコードジャケットの「冬の旅」は僕に言葉と音楽との絶妙な噛み合い
     を見せ乍ら或る一つの限りなく無辺に近い比喩と幻想との大海原に案内してくれた。

     その2 中也の悲しみは使い果たして仕舞った夢への嘆きであり、シューベルトのそれは青く
     澄み切った空間へ向かう旅人の哀しみである。

 

     その3 虚無感の音がライエルマンの手回し風琴の渇いた音色ではあるが、それも
     F=ディスカウの時間への覚悟であった。

第5章  その1 死に捧げられた音楽が最後の忠実な友達だったのだろう。それにしても何故僕の身体

     全体に悪寒が走り抜けたのだろう。

      シューベルトよ、僕の大切な友よ教えてくれ。僕はそれが知りたく成ったのだ。何よ

     りも早く知りたいと思うのだ。

  その2  [総ての音楽は哀しい]シューベルトはその一言で「出来事」を編んだが、友よどう

     だろう。僕にもこう言わせてくれ給え。全ての「出来事」は哀しいと。


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小船のイラストは栗原さんが描いてくれました。

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