第五章(その1) 魂の野道 冬
第五章 魂の野道 冬
青春とは「出来事」に別れを告げて、己の魂の野道を散歩する時の思い出に過ぎ
ぬ。
何時か僕はこんな事を書いてこの書き物を書き始めたが、どうやらシューベルトの音
楽の秘密は己の魂の野道を散歩する時に深い関係を持っているように思われる。
すでに僕の中には一つの人間像が明瞭に浮かび上がっているというのに、この原稿の
上には未だシューベルトが浮かび得ぬのは何故だろう。
元よりシューベルトは文献的にも謎の多い音楽家に違いないけれども、僕は敢えてそ
の謎を無視し乍ら彼の魂の謎を明かそうと考えて居た。しかしシューベルトの謎は真実
という形容詞の付いた事実ではあるまいか。青春がただ彼の眼前を通り過ぎて行ったの
では無く、彼は真実という形容詞をその青春にも与えて歩いたのである。
事実に別れを告げてシューベルトは、己の魂の野道を散歩する歌人なのだろう。そん
な歌人の魂の野道を僕も今歩いて居る。
このシューベルトの美しい野道で人は、誰でも己の散歩道を見出す権利がある筈であ
る。クレーメル、ポリーニ更に、F=ディスカウ、僕がこれまでに書いて来たそれ等の
演奏家達も恐らくはそれぞれの野道でシューベルトの真実という形容詞を何よりも信じ
ていたと言える。
真実という形容詞が事実よりも、密度の濃い「出来事」だった。そして僕の野道には
シューベルト的というよりも、彼そのもののような花が咲いている。「第二十一番ピア
ノソナタD960」である。
別名「遺作」と呼ばれているこの音楽が何だか、僕の耳に付いて離れなく成って随分
に永く成る。「出来事」に別れを告げて魂の野道を行く人の足音がこの第一楽章モルト
・モデラートだと言えよう。僕はポリーニの演奏で「第二十一番ピアノソナタ」を聴い
た時、得体の知れぬ悪寒を身体全体に感じて居た。
確かにポリーニのピアノでは雄大な大波のようなモルト・モデラートであったが、三
十一歳のシューベルトの匂いもしていた。
自分の死をも真実という形容詞としてしか考え得なかったのがシューベルトだったの
かも知れぬ。だとすればあのモルト・モデラートは最も彼の謎に近い比喩である。やが
て身体も心も包んで了うであろう死はその時点で彼の親しい友達と成り、シューベルト
は死に「第二十一番ピアノソナタ」を捧げたのである。
死に捧げられた音楽が最後の忠実な友達だったのだろう。それにしても何故僕の身体
全体に悪寒が走り抜けたのだろう。
シューベルトよ、僕の大切な友よ教えてくれ。僕はそれが知りたく成ったのだ。何よ
りも早く知りたいと思うのだ。
僕は後数日で三十一歳に成るけれども、魂の野道はしかし何処まで続くのだろう。
己の魂の野道を散歩する時間は未だ未だ僕には残されているような気もしないではな
い。ただしそれが幻想でないとは断言出来ぬ。
−時間が在るのか無いのかまずそれが知りたい。そうして己の魂の野道を散歩し乍ら
、あの謎めいたモルト・モデラートを唱いたいのである。
後数日だ。友よ後数日、僕のこの机の上で三十一歳を待っていてくれれば良い。そう
すれば僕は「第二十一番ピアノソナタ」と共にシューベルトを表してやる。
青春が思いも掛けぬ遠い場所ですでに別れを告げた「出来事」を待っているとしたら
どうだろう。紛れもなくこの変ロ短調で綴られたシューベルトの最後の「ピアノソナタ
」には、一種独特の「出来事」に対する愛情が満ち溢れている。
右手が鍵盤の上で過去を懐かしんでいる間に、それと同じテンポで左手のフォルテが
死への憧れとしてすでに就いて来ているのである。
生と死との間で往復する命の動きが僕には美しい。それをポリーニは何と聡明なタッ
チで表し得た事だろう。
もう別れを告げた「出来事」に遠い場所から再び挨拶するシューベルトが美しい。
一切の「出来事」を見送った後で彼が自分への答として書き遺した「第二十一番ピア
ノソナタ」は人の命の鋭敏な動きと快活な自由とを示し乍ら僕を三十一歳へと導いてく
れそうである。
マウリッツォ・ポリーニの演奏では左手のフォルテがシューベルトの死の年を歌って
鳴り続けるにも拘らず、右手は軽やかにその思い出を辿り快しげに飛び跳ねる。己の魂
の野道で戯れている独りの青年の姿が僕の眼前に現れる。
僕はこの書き物の冒頭で友人に貰ったピエロの絵の事を書いたが、何だかシューベル
トとは僕にとってそんな三人のピエロの一人かも知れぬ。毎日僕と向かい合っている友
人の絵の中にライエルマンは旅しているのだろうか。
生と死との間で往復する命、知らぬ間に僕は「不思議な人」と対話して居たのだろう。
「第二十一番ピアノソナタ」のモルト・モデラートを聴き乍ら物思いに耽って居ると
限がないが確かにライエルマンを感じるのである。過去と現在と未来と、その三つの時
限の代表がもしかしたらこのピエロ達だとしたらどうだろう。
時限を代表する比喩としての三人のピエロ達よ、君達の中で僕に最も哀しみと寂しみ
とを与えた者がこのモルト・モデラートの行き先を知っている筈だ。
僕の頭上では先程から「第二十一番ピアノソナタ」のより懐かしいテーマが、繰り返
し繰り返し鳴りっぱなしだけれども自分でも訳は解らぬ。
ただ僕の記憶が常にそのパッケージを要求して居たと言える。記憶が要求する一瞬の
音を、僕等は哀しみと呼び寂しみと呼び或いは又音楽と呼んでいるのである。
死期が迫ったシューベルトのメロディーだから美しいのでは無く、それが真実という
形容詞を己の魂の野道で極め尽くしているからこそ美しいのである。
僕の左手は以前から掌の感触がないが、このモルト・モデラートは全く触れた事のな
い鍵盤のエナメルを思い出させてくれそうな気がする。
思い出とは記憶の内に在る個人の体験した「出来事」では無く数多の生命が、経験し
得た神秘なる歴史の事である。したがって僕の左手が思い出そうとした鍵盤の手触りは
、肉体を遥かに超えた声に近い信仰ではあるまいか。
ポリーニの演奏したシューベルトの「第二十一番ピアノソナタ」に刺激を受けた僕の
左手も、矢張りその動きを失って以来「出来事」に別れを告げたとは言えぬだろうか。
あのモルト・モデラートを聴いた時自分の左手の親指の付け根辺りに遠い感覚を感じ
るが、僕はそれを嬉しく思って居る。
幼い頃、祖父に抱かれ街を歩いて居た時に金色の車のバックミラーがこの手の親指の
付け根に稲妻のような蒼い傷を残してから次第に低下して仕舞った感覚が帰って来るの
かも知れぬ。蒼い傷の痛みは無く成り稲妻の形のようなモルト・モデラートを請う。金
色の車のバックミラーに対する僕の憎悪と怒りさえもシューベルトは奇麗に拭い去った。
それにしてもポリーニがシューベルトのSonateをこれ程スリリングに弾いて聞かせた
のを僕は初めて聴いた。何よりもまずタッチの深さと明快さでは右に出る者のいないピ
アニストだが、ここでのシューベルトは音楽に厚みが在る。
一音一音がシューベルトの日常生活に密着し乍ら大きな意味を含んで聴く者の心を通
って行く。 僕は何時かこの書き物の中でポリーニの弾く「さすらい人幻想曲」の事を
書いたけれども、あれ程個性的ではないにしてもこの「第二十一番ピアノソナタ」は様
ような大きさと形の積み木を積み上げて行く力強さでシューベルトの歩いた魂の野道を
旅するのである。
三十一歳で死したシューベルトの人生で最も命が高鳴っている場所でポリーニはその
日常生活における「出来事」の貧しさを痛感しつつただ美しい音にのみ感動したのだろ
う。それは形も大きさも整わぬにも拘らず好奇心をそそる音であった。彼は彼の魂の野
道で僕と同じくシューベルトに出会い、神秘なる音が突然掌に在るのを感じたのである。
死せる一箇月前まで「第二十一番ピアノソナタ」はシューベルトの床に在ったスコア
だそうだが、ベートーヴェンでさえ描き出せ無かった風景がそこに繰り広げられていた
と言える。そこにはまるで比喩が幻想を願い形容が命に祈りを捧げている音の風景がモ
ルト・モデラートの中で唱われている。人の声で言葉を伴って歌われるよりもそれは人
生の哀しみに近い唱であった。
信仰に近い唱があたかもシューベルトの机の上から、彼の知らぬ間に旅に出る。
人生の「出来事」に別れを告げ己の比喩と幻想とに、自己認識への道標を見出したと
は言え、シューベルトは人生をも比喩化し幻想の中に閉じ込めて仕舞ったのではあるま
いか。
比喩化した人生とは或いは僕の左手の蒼い傷に似ているかも知れぬ。僕は今も尚この
傷がこうして物を書いて居る時等に痛まぬかと半ば期待するが、一向に痛みを感じぬの
で不満である。不満なのだか不満でないのか、それも判らぬ程に僕は複雑な気持ちを左
手に対して抱いて居る。シューベルトも或る意味でそういう複雑な心持ちで自分の人生
を眺めていたのだろう。
このSonateの左手のフォルテは僕にそんな事を考えさせる。比喩化したシューベルト
の人生ではまず美しいものだけに親しみ、それを愛しそれを歌う事が最も大切な日常生
活だった。僕等の記憶の何処に在っても不思議ではない素朴さと、何処にも無いような
神秘性とを以てシューベルトの魂の野道は僕等の心の中へ続いて行くのだろう。そして
「第二十一番ピアノソナタ」でシューベルトの魂の野道は僕に「出来事」としての様よ
うな陰翳を与え乍ら響くのである。
左手の蒼い傷とポリーニのベートーヴェンのような右手と、僕は未だ区別が付かぬ。
信仰に近い唱が僕の魂の野道に三十一歳の道標と共に浮かんでいる。僕はあの命を信
じよう。
生と死との間で往復する命を僕は、間もなく理解するだろう。三十一歳、総てがこの
年齢に係っていそうである。
第五章 その1 終了