第四章(その2) 不思議な人よ 晩秋

 ムーアの響かせた手回し風琴の中には、確かにF=ディスカウも探し求めていた限り

なく無辺に近い比喩と幻想とが在ったと言える。シューベルトの風景として現れ、一点

のしかし広大な秘密として消えて行ったムーアの手回し風琴こそが紛れもなく「不思議

な人」の一言だった。

 僕は六十五年録音のF=ディスカウとイォルク・デムスとの「冬の旅」を聴いたが、

そこにも又デムスという「不思議な人」がムーアよりも淡々とピアノを弾いていた。

 薄い緑の森の池の辺からオレンジ色の野花をバックにして、黒いセーターのF=ディ

スカウが僕等に微笑み掛けていると言ったレコードジャケットだが僕には何だか奇妙に

思われた。そのレコードに針を落としてみるとやはり薄い緑がデムスを象徴していた。

 デムスはF=ディスカウの比喩としての理想を美しく浮かび上がらせ、シューベルト

の在りのままの時間に歩を運ぶのである。そうしてそこでも又、シューベルトはF=デ

ィスカウとJ・デムスに自らの秘密を守らせて冬を歩いて行く。

 デムスというドイツ人のピアニストにはムーアのような多彩な主張は無いけれども、

F=ディスカウの歌と噛み合うであろう鋭い奮発力を持っていた。

 そのデムスがここで成し得た事は、青春が去り行く所を見送るシューベルトの在りの

ままの時間をF=ディスカウへ正確に知らせる事であった。言い方を変えればシューベ

ルトの心臓を彼の肉体から取り出し、そのままの体温でF=ディスカウという名医の前

に差し出す事だった。

 僕はこの「冬の旅」に深い感謝の念を抱いて、耳を傾けた事を未だ覚えて居る。しか

しデムスも又ムーア同様、シューベルトの「出来事」にとっての、秘密の限りなく無辺

に近い比喩と幻想とを「不思議な人」の一言としてF=ディスカウの眼前に持ち出した

に過ぎぬ。

 この二人のライエルマンの存在が、或る意味でF=ディスカウという青年をシューベ

ルトの「出来事」の中に案内したとも言えるだろう。

 ムーアがその秘密の熟した実を採って与え、デムスのピアノが清らかな川に成って秘

密という実を洗った。更に一九七二年の録音は六十二年同様ムーアの伴奏で有り乍ら以

前よりも、F=ディスカウは「不思議な人」を愛していた。彼の比喩としての理想は、

年を追う毎にシューベルトの秘密に近付いて行く。

 僕もそういうF=ディスカウの「冬の旅」に共鳴し感動して来たのである。

 正しくシューベルトの限りなく無辺に近い比喩と幻想との「出来事」の中に隠された

謎の力がF=ディスカウのPoesieを育てたのではあるまいか。Poesieにシューベルトの

謎が応えようとしてF=ディスカウの肉声に解釈が生まれる。

 歌曲集「冬の旅」をシューベルトが想像し得たように、F=ディスカウの解釈の泉に

突然ライエルマンが立っていた。それが一九七九年に録音されたダニエル・バレンボイ

ムとの恐ろしい静寂の「冬の旅」である。

 バレンボイムというピアニスト程、F=ディスカウの限りなく無辺に近い比喩と幻想

とを深く愛した人も又稀であろう。

 僕がこの二人の「冬の旅」を聴いたのは今から七年前の秋頃だったと記憶して居るが

、確かにそれは一つのショッキングな体験であった。

 何も見えぬ真青な空が、一面に広がったレコードジャケットに身も心も吸い込まれて

仕舞ってそんな麻痺状態からシューベルトの音楽が微かに聴こえるふうな独特のレコー

ドだったと言える。その青い空間は明るく澄んでいる故に、僕自身のカオスが照らし出

されるような違和感と共にシューベルトの人生が在りのまま響いて来る。

 或る遠い記憶の渦巻きが小さく起こったかと思うと、みるみる内にそれはシューベル

トの顔を創り上げて仕舞うのである。

 青い虚無感の中で静かにそして劇的に始まったF=ディスカウとバレンボイムとの

「冬の旅」が示さんとするものは、生を願いつつ死の門を潜ろうとしている旅人ではあ

るまいか。

 僕はF=ディスカウのシューベルト像が、ここで出来上がったという気がしてならぬ

。何故ならバレンボイムの青く澄み渡ったピアニズムこそ、シューベルトの要求したで

あろう歩調音に違いないからである。しかしどうだろう、果たしてこの二人の「冬の旅

」は真にシューベルトの音楽に近いのだろうか。

 バレンボイムのピアノが遠い記憶の渦巻きと化し、F=ディスカウを抱き込もうとす

ればする程シューベルトの「出来事」は激しい回転を以て僕等に迫って来る。「出来事

」が迫る。奇怪な事だが僕は何度も体験して来たのである。

 静寂の嵐は一切の距離を拒絶しやがてシューベルトの秘密を打ち明ける。バレンボイ

ムのピアノが打ち明けられたシューベルトの「出来事」なのだろう。

 F=ディスカウのここでの歌唱はバレンボイムに照らし出されたパトスに忠実で、一

切の距離に対しては寧ろ冷淡である。青一色のレコードジャケットに拘るが、僕はこの

青にシューベルトの「出来事」を感じて居るのである。

 静かに無限に広がるシューベルトの秘密をもし僕の弱視の目が見たとしたら、この

「冬の旅」の中の停止した時間は僕のライエルマンに成るのだろう。

 青く美しい時間の非現実性はF=ディスカウとバレンボイムという存在によって、一

気に比喩と幻想とを超えて僕等の現実と化す。完璧なバリトンとピアノとが互いに労り

合い乍ら僕等の記憶の渦を現実へと贈り込む。

 幻想が影なのか現実がその又陰なのか、全く区別の付かぬ鏡の中に打ち明けられた秘

密が在るのかも知れぬ。

 バレンボイムのピアニズムがF=ディスカウの影坊師と成って、青春を保ち尚Poesi

eを信じて止まぬ。それは、信仰以外の何物でもない音楽の哀しみである。

 Poesieが独立して哀しみを含むと、そこでシューベルトの苦悩は解されるのだろう。

シューベルトの苦悩とは正しく七十九年録音のF=ディスカウの「冬の旅」に歌われた

と言えるだろう。

 僕はこのレコードを聴く時何時も恐れを感じるけれどもそれは一体何処から来るのだ

ろう。例えばこの部屋で独りに成って、青一色のジャケットを見ると何だか気が遠く成

る事が在る。気が遠く成って記憶の中の何かがジャケットの青い空間へ旅に出る。

 バレンボイムのピアニズムがF=ディスカウの声を呼んで来る前に、僕の心は時間を

恐れて居るのだろうか。シューベルトの死した三十一歳がもうそこまで近付いた所為か

も知れぬが、しかし三十一歳という年齢は頗る厄介である。

   汚れつちまつた悲しみに今日も風さへ吹きすぎる 

 こう詩った詩人中原中也も又三十一歳でこの世に手を振って行って了ったが多分、風

は中也の記憶の中で時間を象徴し乍ら一瞬微かに吹き過ぎたのである。

 中也という詩人がPoesieに付いて考える時何時も風が目の前に見えたように、僕の眼

前にもシューベルトの秘密が見えて来るのかも知れぬ。中也とシューベルト、外面的に

はそして一般的にもよく似ている。しかし僕はそうは思わぬ。

 中也の悲しみは使い果たして仕舞った夢への嘆きであり、シューベルトのそれは青く

澄み切った空間へ向かう旅人の哀しみである。

 バレンボイムが最良のPoesieを秘めて最弱音でピアノを弾き始めると、僕の部屋には

青い時間が溢れ出しF=ディスカウという旅人を静かに待つ。五十四歳に成ったF=デ

ィスカウの控えめのバリトンが、囁くように青い時間を歩き出す。

 F=ディスカウが嘗てこんなに注意深く歩き始めた事が在ったろうか。

 雪の白さから一つ宛生まれてきたような新鮮な歩調音が旅人の肩の辺りに語り掛け乍

ら響いて来る。「出来事」を知らなかったシューベルトの総ての「出来事」がこの「冬

の旅」なのである。

 若き日のジョージ・チャキリスにそっくりの、バレンボイムのピアノはもう独りの冬

の旅人に思われる。

 一人の旅人に何時の間にか見えるもう独りの旅人、それが一つの肉体に重なり合って

烏に呼び掛け嵐を通り過ぎて行く。

 ルネ・クレマンの描いた映像美を思い出し乍ら、僕は過ぎて行く時間に或る三十歳を

投げ込んで仕舞う。Poesieはその時、誰のものでもない哀しみを独りの旅人に打ち明け

たのだろう。或る三十歳とは無論僕とシューベルトのものである。

 僕とシューベルト。F=ディスカウとバレンボイムの過去と未来に値する不思議な鏡

のような気がする。僕は幾度かそんな風景を異ような気分で眺めて居たが、最近では日

常生活の一部に成った。にも拘らず机の上でこうして思い描いてみると、僕はその青い

空間が実に深いのだと唖然とする。

 青が最も美しい。

 空に成った頭の中を走り抜けたのが僕の考え続けた一言だった。そう言えば幼い頃か

ら僕は青い物ばかり集めて居た。

 青いトランジスタラジオ、青いパジャマ、青い手袋、そして青い「冬の旅」だった。

シューベルトはどうだったのだろうか。青が最も美しいと考えて居たのだろうか。

 美しき青きドナウ川にシューベルトは自らの三十歳を投げ込んだのではあるまいか。

それ以来ドナウ川は彼に青い水飛沫を返し続けたのである。

シューベルトに返され続けた青い思い出が今、この僕の部屋に五十四歳のF=ディスカ

ウによって流れている。

 青が無限に旅人の生と死とを支え、その果てしない道を照らしている。

 バレンボイムのピアニズムはすでに、誰も帰って来た事のない道を示しF=ディスカ

ウを誘う。言葉が人間の絶望感を超えた時限でバレンボイムのピアニズムと共に未知の

風景に入水して行く。理性が幻想の中へと命という火花を吐き乍ら溶けて行く。

 生と死との距離等そこでは通用せず、ただ旅人は鏡に囲まれて歩いて行くのである。

一つの肉体を交互に愛し支えた二つのPoesieはやがて身を削り合ってライエルマンとし

て消え行くのかも知れぬ。シューベルトという「不思議な人」のそれが真の要求だった

と言える。

 比喩としての理想を遥かに超えピアニズムと肉声とが時間の無い世界へと溶け込んで

行く。

 最早F=ディスカウの顔が鏡の艶やかな面に埋もれつつ段々と、別の顔が生まれて来

る様である。鏡の面に触れたF=ディスカウの頬骨の辺りに新しく生まれるであろう顔

の輪郭は青く光っている。バレンボイムの顔だろうか。それとも言葉を忘れ総てを自然

に委ねた老ライエルマンの姿なのだろうか。

 僕にはやはりそれは恐ろしい。

 生と死との距離が無く成って独白が全てを支える「冬の旅」がこの真青のジャケット

の二枚のレコードなのである。

 言葉を忘れたライエルマンとはシューベルトが憧れ続けた旅の道連れではなかろうか


第四章 その2 終了

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