第四章(その1) 不思議な人よ 晩秋

 二十四曲から成るこのチクルスには物語性は重要視されてはいないにも拘らず、失恋

という一般的な体験を有する故に僕等の興味を引き付けないでは置かぬ。角度を変えて

言えばシューベルトは何時も、失恋をした青年の虚しさを音楽と言葉の間に投影してい

た。歌曲集「冬の旅」に映し出されている虚しさは実にシューベルト的な独白からのそ

れである。

 机の上の五線譜に散らばった彼の独白は冬に旅する青年の、若さ故の苦悩であり願い

なのである。 恋人の家の門に「おやすみ」と記し、青年は恋愛に破れ旅に出る。しか

し青年は自分でも気付かぬ内に、その足音に何かを見出しつつ歩き続ける。凍った涙を

小川に見送り青年は、その小川に添って自然という歩調音を聞くのだ。

 自然は厳しく自然は優しい。

 例えば大自然が青年に時を与え恋人との別れを告げ冬を運び命の限りを見せたとして

も、僕等は自然を非難せぬだろう。何故なら青年も又自然の歩調音を知らぬ間に信じて

いたからだ。自然の歩調音とはすなわち「冬の旅」の最後の「辻音楽師」で見事な姿と

成って表れる。

 「不思議な人よ」と青年は辻音楽師に語り掛ける。暫くすると渇いては居るけれども

手回し風琴の応えが返って来る。老いたる旅人の不思議な応えが、あたかも大自然の木

霊のように響くと青年は過去でも未来でもない或る謎めいた鏡の奥行に向かって再び歩

き始める。シューベルトにとって手回し風琴の音が己の人生での最も永い瞬間だったの

だろう。

 僕はつい先程までそんな事を考え乍ら、机に向かうシューベルトを想像して居た。衿

幅の広いロングコートを着た少し野生的な目付きをしたシューベルトである。

 肖像画という奴を余り信じぬが、このリーダーの描いた肖像画は頗るシューベルトな

のだろう。

 そうだ、F=ディスカウがあの時歌ったのは、そのシューベルトの「冬の旅」に違い

無かろう。僕はあの時F=ディスカウのリサイタルの中で確かにシューマンとマーラー

を選んだが前にも書いたようにそれは飽くまでシューベルトの「冬の旅」のチケットが

一枚も残っていなかったからである。

 F=ディスカウと言えば「冬の旅」でありすでにゲルハルト・ヒュッシュやハンス・

ホッターとは異質の世界の持ち主だ。

 ヒュッシュの「冬の旅」には如何にも荒削りではあるが、真白な雪路をどんどんと突

き進む勇ましさが在る。僕にはアメリカの名優スペンサー・トレーシーが、「山」とい

う映画の中で見せたような雪山を登って行く後姿を連想させる。大きな背中とピッケル

を握り締めたトレーシーの手が僕にはヒュッシュの「冬の旅」なのである。そしてホッ

ターはどうだろう。

 自然という全能の神が美しい地球という一つの星を愛撫するような「冬の旅」である

。ブリュンヒルデを炎に包まねばならなかったヴォータンの悲しみが、このシューベル

トのチクルスを串刺しにし乍ら進行するとは言い過ぎだろうか。恐らくは自然の掟にそ

の美しい戦いの星は逆らって来たのでは無かったか。

 ホッターは何だか大自然の代弁者のように思われる。しかし自然は雄弁では無かった

為に僕等は、それを長い間手放しの愛だと勘違いして居たのではあるまいか。

 僕は何時もホッターの「冬の旅」を聴く時そんな気がしてならぬ。けれどもF=ディ

スカウの「冬の旅」は違うのである。

 今僕はF=ディスカウがあの時歌った「冬の旅」のビデオテープを見たが、彼の背後

に何かが動いているように思われた。

それはF=ディスカウが嘗て録音した六回の歌唱には無かったものだった。何と言った

ら良いのだろう。

 ピアノとF=ディスカウの空間を埋めて仕舞ったその神秘的な何ものかが、恐らくは

歌曲集「冬の旅」に生き付いている一種の詩霊なのだろう。

 僕はそのビデオを何度見たか判らぬが確かにそこでは、シューベルトの提示した絶望

的な緊張感と孤独感に満ちてはいる。しかしF=ディスカウの絶望感には、人生という

華麗な肉声が在り彼の孤独には「不思議な人」からの歩調音が聞こえて来る。

 「不思議な人」つまり、ライエルマンは最早F=ディスカウの体内に在る。彼自信の

中にF=ディスカウはもっと美しい歩調音を求めて旅をするのである。勇ましく雪路を

行く人でも無く大自然の悲しみを伝えんとする人でもないF=ディスカウは正しく老い

という美しい告白を超越した「不思議な人」の「冬の旅」である。

 消えて仕舞った恋人をこの青年はただ、記憶の小さな「出来事」として考えずに比喩

とそして幻想とを繋ぎ合わせ乍ら淡々と歩いて行く。

 夢と現実は互いに引き合いつつ旅人に「出来事」を提供する。

 「出来事」はF=ディスカウの言葉によって現実と成り歌われた瞬間にのみ夢の中か

ら開放されるのである。シューベルトの音楽は総てそういう形式で書かれてはいるが、

歌曲集「冬の旅」はその開放された「出来事」の為に再び歌われねばならぬこの世のモ

ノローグである。

 僕の部屋のTVのブラウン管は十八型の古い物だけれども、F=ディスカウの「冬の

旅」を見て居ると大パノラマを頭からすっぽりと被った気がする。その度に不思議な感

動を受けるがしかし次第に当然の現象のように思えて来る。

 僕の右目は例によってかなり霞んでは居るものの、ハルトムート・ヘルとF=ディス

カウとの空間にははっきりと何かが見える。それは明らかにF=ディスカウの身体から

発散している彼自信の過去かも知れぬ。「不思議な人」という影坊師、シューベルトを

F=ディスカウが解したのだろう。「冬の旅」のパノラマに浮かんでいる影坊師とは、

それぞれの人生から抜け出して来た理想の旅人なのだろう。それぞれが美しくて淋しく

、それぞれが哀しい。青春が人生が時間が鏡の中で哀しんでいるのだ。

 「不思議な人」の手回し風琴が応えるまでシューベルトが哀しかったように、F=デ

ィスカウも歩調音の上で鏡に向かって歌ったのだろう。

 あの時僕に「サヨナラ」を云った表情で彼は比喩と幻想とを哀しむ。哀しむという事

は悔恨では無く何かを断念する事でもない。その限りなく無辺に、近い比喩と幻想とを

愛する信仰に他なるまい。 F=ディスカウの哀しんでいたのは飽くまでシューベルト

的な音楽への哀しみなのである。

 限りなく無辺に近い比喩と幻想とを愛し乍らあのステージでF=ディスカウは、己の

中の「不思議な人」に出会ったのだろう。

 僕は一九六一年にジェラルド・ムーアと録音した物以来、F=ディスカウの「冬の旅

」は総て聴いて居るがその六一年の物が最も「不思議な人」との距離を置いて歌ってい

たように思われる。

 考えてみればもう二十七年前にすでにこの歌曲集は、F=ディスカウという人の意の

ままだった。何か妙な嫉妬を感じるけれども自分の性格は充分判って居るので仕方のな

い事である。F=ディスカウの意のままに成った「冬の旅」とは彼が六十一年にムーア

と録音してから初まった。

 ムーアのピアノで創られた寒々とした冬の風景の中に突然表れた光沢の有るF=ディ

スカウのバリトンは、僕等には追い切れぬ程足早に歩いて行く。

 そこには青年の形の良い背骨と肩の線が暗闇に青く光っている。理想としての流離が

完璧なバリトンで歌われた時、僕等は自らの青春に少なからぬもどかしさを思い出す。

やがてムーアのピアノがそんな僕等の思い出の歩調音と成り、F=ディスカウの後を追

うのである。

 僕はこのレコードを確か十年前に手に入れた。燃えるような赤い縁取りのジャケット

に、前髪のみが白く成ったF=ディスカウの横顔が載った物だった。

 後で考えてみると当時三十七歳のF=ディスカウの髪に白いもの等交じっている筈が

無く、少しばかり気が抜ける想いが有った。「冬の旅」という文字の配列も気に入って

僕はそれを一日中聴いて居た。

 F=ディスカウのドイツ語等理解出来る筈が無く僕は専ら彼のバリトンの表情に耳を

傾けて居た。しかしF=ディスカウは僕を振り返らなかった。地面と雪との区別の就か

ぬ線を理想の人間像が歩いて行く。

 菩提樹の陰で懐かしい思い出の声を聞くF=ディスカウはそんな菩提樹の幻想にさえ

足を止めぬ。ムーアのピアノが、菩提樹に小川に烏に嵐に姿を変えて行くシューベルト

にあたかも申し訳ないという風にF=ディスカウを追うのである。

 赤い縁どりのレコードジャケットの「冬の旅」は僕に言葉と音楽との絶妙な噛み合い

を見せ乍ら或る一つの限りなく無辺に近い比喩と幻想との大海原に案内してくれた。

 三十七歳のF=ディスカウの歌声は飽くまで比喩としての理想であり、G・ムーアの

ピアノがその恋人の美しい幻想の様でもあった。

 この六十一年のレコードは常に完璧なドイツ語で歌われている為に美しい恋人という

幻想が、すでに消え掛かっていた。正しく過去の不思議な恋人の長い影との距離がその

ままシューベルトの日常と化したような「冬の旅」に思われる。

 比喩としての理想がただ一つの恋愛経験という「出来事」の表面を完全に磨き、彫刻

的な恋人を創り出していると言える。しかしムーアのピアノは違う。

 音楽が豪華な風景と成って限りなく無辺に近い比喩と幻想との世界に立っている孤立

した青春を支えている。少し猫背で額を鍵盤に擦り付ける風にして弾くムーアのピアノ

には、そんな大きな風景が何時も流れていたのだと僕は驚いた事も有る。

 つい最近そのムーアが亡くなったというニュースを新聞で知ったが、僕の頭には一瞬

手回し風琴の一音が聴こえた。

 ムーアには失礼かも知れぬがあの手回し風琴の音色が彼の穏やかな最後の声だったよ

うな気がした。ピアノが人の声に寄り添い乍ら音楽の風景に自ら成り得た様が、ムーア

の人生への挨拶だったのではあるまいか。

 幾年か前に「お耳ざわりですか」と題されたムーアの随想集を買った事が有るけれど

も、僕は未だそれを読み切らないで居る。自分がそれまで伴奏を勤めて来た数多くの歌

手達や独奏者の思い出を綴った彼の著作の表紙に、僕は少なからぬ興味を持って居た。

如何にも人の良さそうなムーアの似顔絵は、今にも英国紳士らしいジョークで語り掛け

て来そうである。

 ムーアの著作の内容等はそんな「不思議な人」の親しみ深い笑顔に有るかも知れぬと

、僕は思い込んで居たのである。この「不思議な人」は恐らく最良の美的表現を以てF

=ディスカウの「冬の旅」の最後に神とも狂人とも付かぬ姿で登場したと言えるだろう

 神とも狂人とも付かぬライエルマンがF=ディスカウの肉声に応え乍ら、人生を手回

し風琴に例えると何時の間にか青年はその渇いた一音の中に未来への出口を見たかも知

れぬ。或いは又一層遠い日記帳をぱらぱら繰るように「不思議な人」と共に歩いて行く

かも知れぬ。

 しかし前にも書いたが六十一年録音の「冬の旅」では、主人公の青年と老いた「不思

議な人」との距離は縮まらぬままなのである。比喩としての理想故にF=ディスカウの

完璧な歌声はシューベルトの「出来事」の秘密に添ったムーアのピアノの速度が遅過ぎ

たのである。シューベルトの「出来事」には常に、秘密が隠れていたとは言えぬだろう

か。

 僕はそういう秘密をムーアのライエルマンに見たような気がする。小さく消え入るあ

の最後の手回し風琴の四小節が聴覚の裏にひらひらと沈んで、シューベルトのペシミス

ティックな秘密が広がった時僕はふと哀しいと感じたのだった。ただそれは何の根拠も

無く弾いて仕舞ったのだろう。

 シューベルトの「出来事」にとっての秘密は果たして、一瞬の夢模様の断片だったの

だろうか。否である。


第四章 終了

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