第三章(その4) 机上の事 夏
F=ディスカウの歌った「リーダークライスop39」にはそういう青春に対する行為が
満ち溢れていた。僕は鏡の中の彼の背中に寂しさを感じたけれどもそこには経験の悦び
も在った。
正しく「リーダークライスop39」の冒頭「見知らぬ国で」の語り口は、思い出が未来
に跳ね返って魂をあやす様である。
哀愁に包まれ乍らも鋭敏な言葉が「出来事」を司り、彼と彼の過去との距離を足早に
駆け抜けて行く。そこでは空間と時間の区別が付かずに、言葉が繋がっているだけだっ
た。
過去との距離とは青春を懐かしいと想い楽しいと感じ、美しいと信じた時に僕等の前
に映じる蜃気楼ではあるまいか。
老いたF=ディスカウの歌にはその蜃気楼が在った。彼が僕のハンカチーフにサイン
をした後、下に小さく日付を入れたが僕にはその数字が無性に光って見えた。
前回八十三年の来日の際にも、僕は大阪のシンフォニー・ホールのリサイタルに出掛
けたがその時よりも身体はスマートに成っていた。老いがそうさせたのだか老いの為に
そうしているのだか判らなかったが、確かに見た限りでは彼の肉体はかなり激しく老い
ていた。
F=ディスカウに会った日の夜、僕は八十三年に遠くから見た彼の事を考えて居た。
プロボランティアの男と東京に住む木元という新聞記者の古い友人にホットドックを頬
張らされ乍ら、僕は四年という歳月に就いて考えて居た。
シンフォニー・ホールでのリサイタルは、シューベルトの夕べであった。以前に書い
たリヒテルとのライヴレコードと殆ど同じプログラムが組まれ僕は半ば、それが魅力で
一万円もの指定席を買ったのである。曲順はしっかりと覚えて居ないけれども、やはり
「歌人の持物」で始まったのだった。
F=ディスカウの声の調子は余り良い方では無かったが僕はその「歌人の持物」にふ
と自分を重ね合わせて居た。何処か遠い所をじっと見詰め乍ら彼の眼は歌人に就いて語
ってくれたのである。
ツィターを抱き抱え冬の風景の中に輪郭のみを遺して歩み去ろうとする歌人、それが
シューベルトだったのだろう。
以来四年間、僕はそんな歌人を追い掛けて来た。すでに全ての歌を歌い乍らも、それを
拒絶せざるを得なかった歌人は何時も新しい「出来事」を欲した。「出来事」が歌に成
り過去に成った。F=ディスカウも又自分の過去を見詰めていたのだろう。
「出来事」が歌に成り過去に成り、そして「歌人の持物」に成りF=ディスカウに帰
って来る。こういう神秘的な物語を僕はあのシューベルトのリサイタルで知ったのであ
る。
僕は新宿の厚生年金会館の一室でプロボランティアの男の寝顔と付合い乍ら人の世の
「出来事」に就いて考える。生命とは、青春とは、そうして「出来事」とは。
頭の上の黒板に疑問符を並べた犯人は、やはりF=ディスカウの歌った「見知らぬ国
で」の伴奏部分だった。やがて僕の思考は、睡眠の中に落ちてそこでシューベルトを求
めて居た。
シューベルトも僕も未だ老いを知らぬが故に時間を恐れて居るのかも知れぬ。しかし
この三十五歳のプロボランティアの男は幾らか知っているかも知れぬ。僕に肉体と暇を
売ったこの鼻の大きな菅という男は、一体どんな夢を見ているのだろう。明日尋ねてみ
たい気がしたけれども、彼がこんな真面目な事に応えるとは思えなかった。
疲れ切った身体と高鳴って居る精神のバランスを整えられぬまま僕は眼を閉じた。男
の歯軋りと息の長い鼾が却って、僕の細かい心のばらつきを押さえてくれていた。しか
し頭の上の黒板は消えなかった。
僕は夢の中で尚もシューベルトを呼んで居た。
直ぐ夜が明けて、シューベルトは僕の記憶の水平線の上に「出来事」という美しい夢
を描いてくれていた。水平線の上をぎりぎりに、それは滑っているように見えたが無形
なるものの代表の様でもあった。
「出来事」が去って行く、これは毎朝経験する僕の不思議な感触だけれどもその時は
っきりと去って行く「出来事」を見たと言えるだろう。
新宿の厚生年金会館の一室で僕が明かした一夜は、あのエクトール・ベルリオーズの
見た「ワルプルギュスの夜の夢」に等しい。否あんなに劇的では無かった。そしてあれ
程激しくはなかった。僕の「断頭台への行進」はもう疾くに過ぎているのである。
そう僕はシューベルトが懐かしかったのだ。
白いシーツの上にF=ディスカウの老いという美しい告白を思い出し乍ら、僕の夢は
そんな白さの裏へと沈んで行った。
寝返りのかなり困難な身体は何時の間にかそのシーツの深さに埋もれて居た。埋もれ
たこの身体から何かが、ぽっと立ち昇るのを感じつつ僕は又眠った。
F=ディスカウの優しい笑顔を白いシーツの下から、今一度見付けようと思った。無
形なるものの代表、僕は夕べそういう幻想に出会ったのかも知れぬ。
「サヨナラ」F=ディスカウはそう云って華麗なる比喩の世界に別れを告げ乍ら僕に
何かを預けたのだろう。今これを書いて居てふと思ったのだが、シューベルトも又数多
の詩人達に何かを預けられたのである。多分「出来事」を預けられたのだろう。
<やぁお元気ですか、ぼくは元気です>
多くの詩人達がシューベルトを訪ねると、彼はそれだけ言い机に向かったと云う。死
神にレクィエムを依頼されたのはモーツァルトだけれども、シューベルトは常に過去か
らの使者(詩人)に音楽を依頼されていたとは言えぬだろうか。
彼はその依頼に応え続けた。
幾分広い額の下に形の良い眉と両眼を持ち、華奢な眼鏡を掛けたシューベルトは何時
も過去に応えていたのである。
過去に懸命に成って応えようとして数々の「出来事」を歌ったシューベルト。僕は今
そんな彼の哀しみを生きて居るのだろう。したがって僕も過去の為に数多の比喩と表現
とを帰さねばならぬ。三十歳の内に僕はシューベルトに応えねばならぬのである。哀し
みを生きて居る僕とは一体何処から来たのだろうか。しかし果たして来たと言えるのだ
ろうか。
あのF=ディスカウのリサイタルを聴いた夜、ホテルの一室で見た夢の総てがその答
だったかも知れぬ。つまり、一つの比喩から時という火花が飛び散って何時しか解釈と
成り僕に夢を与えたがそれが僕の故郷だとしたらどうだろう。シューベルトが過去から
の使者ならば、僕はその依頼を受けた旅人である。
「出来事」が夢の中で起こると解釈というフィルターを通って純粋な記憶に保存され
るのだろう。 シューベルト的なるものとは正しく記憶の保存された新鮮さに在るので
はあるまいか。僕は最近無性にシューベルト的なるものに憧れて居るけれども、何だか
それは三十歳という年の所為に思えて来る。
<ぼくは元気です>と云い乍ら机の上の五線譜に音の涙を見事に並べているシューベ
ルトの姿に僕は人間の限り無き比喩への悦びと哀しみとを感じる。長い睫と固定された
眼球には、己の並べた音を追う事よりも次なる音の潤いに満ちていた。
次なる音とは過去も未来も考えられぬ場所で、密かに鳴り響いていた筈の歩調音であ
った。失恋した青年のイメージに隠れて、ゆっくりと進行する音楽はシューベルト的な
る未知の「出来事」だと言える。
歌曲集「冬の旅D911」である。
第三章 終了