第三章(その2) 机上の事 夏
                     

  内臓は凡て僕の敵かも知れぬ。しかし心臓は僕にベートーヴェンというリズムの基本

を指し示し、勇気付けてくれたから感謝しよう。精神と心と魂と、僕はこの比喩と解釈

と幻想とを信じて居れば良いのだ。F=ディスカウが呼び出した完璧な、シューベルト

像を信じて居れば良い。この世には歌うという真実が在るだけだ。

 巨大な詩魂はシューベルトによって再び、人間の祈りを含み、声と成って「歌人の持

物」としてF=ディスカウのバリトンで聴こえた時僕の信じて居た真実も蘇る。蘇った

真実は僕の中に永劫のシューベルト像を建たせたのである。

 三十一歳で確かにシューベルトは消えて行ったのだけれども彼の消えて行った空間が

そのまま、僕の耳に一瞬存在したのだろうか。自分の肉体も内臓もさらさら信じぬ僕に

「歌人の持物」という小さな歌曲が、比喩と解釈と幻想とを思い出させてくれたのであ

る。

 フランツ・シューベルトそれは、僕にとって青春であり哀しみで在り或いは人生その

ものの「出来事」だった。

 ただ耳という人間の神秘だけが僕の真実であった。僕は敢えてそう言い切ってみよう

。そうしたらば何故か、机の上に薄いクリーム色の風が吹いて来た。

 風は人生そのものの「出来事」に思われた。しかしクリーム色の柔らかな黴風は何だ

か僕の身体の内から吹いて来る様でもあった。精神と心と魂と、僕は三十歳の体内にそ

んな幻想が宿っているのを感じ乍ら蒸し暑い夜明け前に言葉を集めて居る。

 薄いクリーム色の風は一体何を意味しているのだろう。もし意味が無いとしたらきっ

と、これは僕の身体を通り過ぎたばかりの時間の色なのだろう。骨と肉と神経とそして

涙とが交差した所から恐らくこのクリーム色の風が発生したのかも知れぬ。僕のエッセ

ンスがこうして外へ立ち上るのを感じつつ、静かにシューベルトの三十一歳を想うので

ある。

 やはり僕の思考力は、このシューベルトという巨大な詩魂の「出来事」で新たなピリ

オドを打つのだろう。新たなピリオド、僕は三十一歳を或る意味ではピリオドだと考え

て居る。別段歳を取って行く事については何も文句等ないが、シューベルトの三十一歳

に興味が在るのだ。僕の三十一歳はシューベルトの三十一歳ではないが確かにそれに近

いものを感じて居る。

 歴史とは多分個人が現在、体験している「出来事」から照らし出された夢に過ぎぬの

だろうか。個人の体験が歴史の欠片を呼び起こすとしたら、僕は今シューベルトという

歌の歴史を歩いて居るのである。

 この机の上に有るコーヒーもサンドウィッチもそしてスコアも、もしかしたらばシュ

ーベルトの日常生活の一部だったかも知れぬ。

 僕が体験したコーヒーの味は彼の哀しみを充分に知っていそうな気がする。奇妙な事

だが時間とは全く無縁の所で、僕の日常はシューベルトの生活に密着して居るのではあ

るまいか。確かに時代は変わり場所も違う。しかし生と死との間に在る苦悩は変わらぬ

筈である。生と死との間の苦悩が常に、人間の思考力の妨げと成りシューベルトを彼と

は縁遠い生活苦の中に引きづり込んだ。生活苦とは僕にとって、絶え間なく繰り返され

て行く日常そのものなのである。

 言ってみればこのコーヒーにしてもサンドウィッチにしても僕は自分では口に運べぬ

。だから誰かの手が必要である。言葉、この表現の美しい涙だけが僕のたった一つの自

由なるものだった。したがって言葉はそのまま表現と成り、シューベルトのメロディー

のようにダイレクトに魂の形に成ったのだと言えるだろう。

 日常生活が絶え間なく言葉に成って僕を訪れた。比喩と解釈と幻想とは僕の生活から

生まれた知恵であった。

 シューベルトの日常生活も又、恐らくはそういう単純な繰り返しだったのではあるま

いか。すなわち僕はそんな単純な素朴な三十一歳に近付こうとして居る。絶え間なく繰

り返されて行く日常生活が僕のシューベルトという時間なのかも知れぬ。

 今日僕は久しぶりにF=ディスカウの歌う「別れ」という歌曲を聴いて居たらば、や

はりシューベルトという時間に覆われて仕舞った。この最晩年のレリュシュタープの詩

による歌曲は、最も単純なピアノパートを有し乍ら完全に人の心を魅了するのである。

 魅了された人の心はその単純なピアノパートに、それぞれの懐かしい時代を思い出す

。懐かしい時代のそれぞれの別れを含んだこの歌こそ、或いはシューベルトという時間

なのだろう。その単純な美しいピアノパートの上でF=ディスカウの声は、凡てのもの

に別れを告げたように弾んでいる。

 凡てのものを愛していたのだろうか、それとも愛し乍ら拒絶し続けたのだろうか。そ

うして、シューベルトは「別れ」を以て己の人生の「出来事」に対して別れを告げたと

は言えぬだろうか。僕にはそう思えてならぬのである。

 人生の様ような「出来事」に堂々と別れを告げたフランツ・シューベルト、それが最

も深い意味を持っている。少なくともこの書き物の中では深い意味を所有している筈で

ある。三十一歳の彼の人生に関する答を、敢えて僕が応えてみる。「別れ」という歌曲

は僕に三十一歳のシューベルトの答を教えてくれたのだった。

 「出来事」等彼には何も無かったと何時か書いたけれども最晩年に出来上がったこの

歌曲の中で、すでに人生は終っていたとは言えぬだろうか。

 <星達よさらば。灰色の窓に消えるが良い>という最後の一行に、シューベルトは生

と死との間に在ったもの総てを思い出そうとしている。彼にとって星とは闇に溶け切ら

ずして放浪する己に対しての比喩であり、窓とはその未来なのだろうか。生と死と、そ

して絶え間なく流れて行く時間に別れの挨拶をしてシューベルトは旅をする。

 僕の人生にも確かにそんな風景が在った。僕の日常生活には常にそういう緊張感が静

かな水面のように張られて居たと言える。

 「出来事」が愛する事と、拒絶する事から始まり今も尚そこに落ち着いている。それ

が恐らくシューベルトの答なのである。

 時間に別れの挨拶をし乍ら僕も又この部屋を旅して居る最中だ。

 今目の前に有るデジタル時計の数字が、一つかちゃりと進んで、数字の哀しみを教え

てくれた。数字とはこんなに無意味なものだったのだろうか。

 考えてみると僕等は何時も数字を相手にして来た気がする。その数字の力こそが人の

欲望を掻き立て、人の願いを踏み付けて大きく成った悪魔かも知れぬ。ほら又、デジタ

ルカウントが一つ進んだ。 何という事だ。何という単調な而も何という哀れな約束だ

ろう。人間には魂という宝物の代わりに数字という罰も確実に与えられたと言って良い

 数字という罰は生と死とを人に与え人生を創ったのだ。しかしこの僕はどうだろう。

数字が何時途切れるのか判らぬから厄介である。肉体が在って無いような「出来事」が

僕の人生なのかも知れぬ。だから僕にはデジタルカウントの、かちゃりという音が大き

く聞こえるのだろう。シューベルトの「別れ」の左手の伴奏部と共に数字という恐ろし

い音が聞こえる。目が少し霞んで居る。

 今、日付が変わった。

 零時に成った。

 さて気を取り直してシューベルトの「出来事」に付いて或いは僕の人生に付いて書か

ねばならぬ。言葉は未だ僕の中に溢れて居る筈だ。

 数字という罰、数字に対する諦めと哀しみが僕等人間の罪滅ぼしだとしたらどうだろ

う。生が在りその期間にだけ数字という罰を、僕等は数えねばならぬのである。数えら

れた数字という罰が僕等の人生の「出来事」だと言えよう。

 人生における様ような「出来事」を数え乍ら、時代というデジタルカウントを僕等は

恐れて居るのだろう。シューベルトはそのデジタルカウントを恐れなかった。寧ろその

数字という罰を歌曲に変えて仕舞って、一つひとつ丁寧に数えて行ったのである。

 今僕は机の上でこの書き物を書いては居るけれども、そんな細やかな右手の動きこそ

が僕の大切な「出来事」に違いない。そう、これが僕の受けた罰なのだろう。書いて居

るという事がつまり、人生の初まりで在り終りだとも言える。

 シューベルトは自分の人生における「出来事」を歌曲に変えたと書いたが、さて僕は

言葉に変えて生きて来たのだ。日常生活そのものがデジタルカウントで出来ていた。数

字という罰も又、日常生活の中に記憶されたデジタルカウントだった。それはやはり僕

の目の前でがちゃりがちゃりと数字を進めて行く。        


第三章 その2終了

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